第12話 お兄さん

 ななちゃんのお兄さんと二人で水族館に行くことが決まってからの数日間、私はずっとふわふわとした心地だった。


 昨日はななちゃんがお兄さんから聞き出したという服の好みに合う服を一緒に買いに行ったし、今日は朝早くに起きて髪のセットに四苦八苦。


『折角のデートなんだから髪型でも特別感を出さないと!』


 というのはななちゃんの言葉。


 結局集合時間の三十分前には駅について、私はロータリーのベンチに座って待っていた。


 集合時間のきっかり五分前。

 現れたお兄さんは素敵だった。


 大人っぽいけどワイルドさもあって、優しそうだけど強そうで。

 隙さえあれば、遂お兄さんを見つめてしまった。


 改札の前でも、電車に乗っていても、水族館までの道を進みながらも。

 時々私の視線をお兄さんに気付かれて、慌てて顔を背ける。その繰り返し。


 態度が悪いのはわかっている。

 わかっているけど……つい反射的に視線を逸らしてしまう。


 水族館に入ってからはそれも少し落ち着いた。

 色々なお魚さんが泳いでいて、それを見るのに夢中になったから。


 ……だけど、それでもちょっぴり。

 同じように水槽を眺めるお兄さんの横顔を見たりした。


 大人っぽいのに、そのときのお兄さんは子どもっぽい表情で夢中になって水槽を覗き込んでいる。

 だから、私の視線にも気付かなくて、ついじっと見続けてたりもしてしまった。


 去年の夏、お兄さんと初めて会った時の話をする――今日の目標はそこだけど、私はすっかり楽しんでいた。


 ……ただ、不満もあった。


 ペンギンエリアでも、イルカショーのスタジアムでも、……お兄さんは、私のことを子ども扱いしてるみたいだった。

 そうじゃないなら、あんな……いきなり服のボタンを締めるなんてことしないはずだ。


 そのことに凹むと共に、私は自分を戒める。

 お兄さんとこうして水族館を回れていること自体が奇跡みたいなこと。

 それなのに高望みしすぎなのだと。


 ――お兄さんにも私みたいに異性として意識して欲しいなんて。欲張りだ。


 だから私は、お兄さんとのこの時間を大切に過ごすことに決めた。




 そんな夢のような時間も、徐々に終わりが近付いてくる。

 カフェを出てすぐに、お兄さんが「トイレに行っても良いかな?」と言い出した。


 言葉通りの意味ではないことはわかっている。

 自分から提案することで私に気を遣わせないようにしているんだ。


 お兄さんはそういう人。


 私は化粧室に入って、鏡を前に髪を手で整える。

 ……よかった、大きく崩れてはいなかった。


 安心しつつ外に出ると、お兄さんはまだ出てきていないみたいだった。

 近くの壁で待ちながら、私はスマートフォンを取り出して、写真フォルダをタップした。


 ……さっきのカフェで撮った写真が表示される。

 オオサンショウウオのココアの写真。

 マシュマロが可愛い。


 それから、お兄さんが頼んだイルカのパフェ。

 だけど写真には、パフェの下半分はほとんど映っていなくて。

 代わりに、お兄さんの顔が映り込んでいた。


 それを見て、私は思わず頬を緩めてしまう。


 ……パフェを撮ったらたまたま映り込んだだけだから、と自分に言い聞かせるけど、それはただの建前。


 お兄さんが映るようにカメラの角度を変えたことを、自分自身がよくわかっている。


 お兄さんが知ったら嫌われてしまうだろうか。

 ……そんな疑問も、意味がない。

 あの優しいお兄さんなら、笑って許してくれるって知っている。

 知っていて、甘えてしまっているんだ。


 罪悪感と幸福感。その両方を覚えながらじぃと写真を眺めていると、周囲の雑踏に紛れてこちらに向けられた声が聞こえてきた。


「おい、金髪だぜ金髪」


「ばっか、あれは金髪ってよりも栗色だろ」


 私の容姿について話す声。


 お母さんのイタリア人としての遺伝を強く受け継いだ私は、目立つ容姿をしている。

 一年前に日本に戻ってきてから、周りに好奇の眼差しを向けられることは日常茶飯事。


 慣れた……と言いたいけど、やっぱり慣れなくて。おどおどとしてしまう。

 だけど今日はずっとお兄さんが隣にいてくれた。

 私の容姿について触れる声が聞こえてきても、お兄さんが傍にいるだけでなんの不安もなかった。


 お兄さんは、本当に凄い人だ。


 私はぎゅっとスマホを握る。

 そうして周囲の雑音を排除しようとして――。


「ねえ君。今一人?」


「っ、ぇ……?」


 突然、男の人に話しかけられた。


 顔を上げると、高校生か大学生ぐらいの男の人が三人。

 私を囲んでニマニマとした笑みを浮かべている。


「ぁ、ぇ」


「おい、日本語わかんねえんじゃねえのか?」


「まじか。えーっと、ドゥーユーアンダースタンド? でいいのか?」


「ばっか知らねえよ。お前が話しかけようって一旦だろ?」


「だってめっちゃ可愛いじゃん。スルーするのもったいなくね?」


「ちげぇねえな」


 私をよそに、三人は口々に笑い合う。

 返事をするタイミングも逃して、わけもわからなくて、言葉もうまく出なくて、私は俯いてしまう。


 そんな私に三人は調子づいたのか、陽気な声で捲し立ててくる。


「お前怖がられてね?」


「おいおいおい、俺のどこが怖いっての」


「顔」


「ひっでぇ。ねえ君、俺イケメンじゃね? 怖くねえよな?」


 さらに距離を詰めて、覗き込むように訊ねてくる。

 私がぎゅっと俯き続けていると、痺れを切らしたのか、小さく舌打ちをした。


「まあいいや。一人ならさー、俺たちとまわんね? ついでにこの後どっか遊び行こーよ。なっ」


「っ、ぃた……っ」


 突然腕を掴まれた。

 驚いて顔を上げると、三人の体はすぐ傍にあった。

 周りに助けを求めようとするけど、三人の体で覆い隠されている。


 そしてそのまま、掴まれた腕を強く引っ張られて――。


「何やってるんだ」


「――っ」


 私と三人の間に、突然お兄さんの腕が現れた。


「お前、誰だよ」


 お兄さんは私の腕を掴んでいる男の人の肘を掴んでいた。

 掴まれた男の人はお兄さんをギロリと睨みあげている。


「ぁ、あの……」


「大丈夫」


 私がお兄さんに事情を説明しようと口を開くと、穏やかな笑みと共にお兄さんは一言返した。

 そうして、また男の人へ顔を向ける。


 お兄さんが今どういう表情をしているのか、私には見えない。


「この子の連れだよ。トイレから戻ってきたら随分怖い思いをさせたみたいじゃないか」


「ちっ、んだよ、男連れかよ。誤解、ごーかーいだって。俺たちちょっと遊びに誘っただけだよ。ね?」


 男の人は怖いぐらい人なつっこい声で私に尋ねてくる。


「だったらこの手はなんだよ。なあ」


 そんな彼に、お兄さんは聞いたことのない声音で追求する。

 突如、男の人が顔を顰めた。


「っ、いてぇって。おい、離せよ! ちっ、男がいるならそう言えっての。まじで日本語通じねえのか?」


 お兄さんの腕を振り払い、三人はそれぞれ捨て台詞を残して去って行った。


 その背中をお兄さんは見えなくなるまで見続けて、やがて小さくため息を零す。

 それから私の方を振り向いた。


「ごめんね、大丈夫だった?」


「……っ」


 はい、と。お兄さんに心配させないように返事するつもりだった。

 だけど考えに反して、お兄さんの優しい声と顔を見ていると、のど元に何かがせり上がってきた。

 視界がぼやけて、唇がキュッと引き結ばれる。


 何かが目からこぼれ落ちそうになったそのとき。

 バサリと、私の頭に何かがかけられた。


 それがお兄さんのデニムジャケットであることがわかると同時に、どうしようもない安心感に襲われる。


「ちょっと場所を変えようか」


 そう言って、お兄さんは私の手を掴んだ。

 さっきまでとは違う、優しくて、温かい手。


 それに導かれるようにして、私はお兄さんの後についていった。

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