第13話 感謝の言葉

 お兄さんはそのまま私を人目の少ない場所に連れて行ってくれた。

 緑色の明かりが灯る、非常階段にお兄さんと並んで腰を下ろす。


 お兄さんはそこで、私が落ち着くまで静かに寄り添ってくれる。

 情けないと思うのと同時に、懐かしさを覚えていた。


 こうしてお兄さんに傍についてもらったのは、今日が初めてじゃない。


 あの日、あのオープンスクールの時と同じで――。


「落ち着いた?」


 お兄さんが、穏やかで優しい声をかけてくれる。

 私はデニムジャケットを被ったまま、こくりと頷いた。


「よかった。……ごめんね、怖い思いをさせちゃって」


 お兄さんは何も悪くないのに、心底申し訳なさそうに謝ってくる。

 私は小さく頭を左右に振る。


「泣きそうになったのは、怖かったからじゃないです。……すごく、安心したから。お兄さんが来てくれて」


 そう。それはあの日と同じ。


 気が付くと、あれだけ話せなかった言葉がするりと私の口からこぼれ落ちる。


「お兄さんに助けていただいたの、これで二度目です」


「え?」


 困惑するお兄さんの声。

 その反応に、私は密かに口角を上げた。


 今の私はどんな顔をしているんだろう。

 たぶん、お兄さんには見られたくない顔で。

 幸い、今はジャケットがそれを隠してくれている。


 私は静かに話し出した。

 去年の夏の出来事を。




 ◆ ◆ ◆




 お母さんの仕事の都合で私は長い間海外に住んでいた。

 だけどお母さんが日本の支部に移ることが決まって、去年の夏休みに日本に帰ってきた。

 その一月後の九月に折良く今通っている天笠高校で行われたオープンスクールに、私はお母さんと二人きりで参加した。


 周りを見れば、友だち同士で訪れている子たちが大半。皆制服を着ていて、私服の私はこの見た目と相まって目立っていた。


 居心地の悪さを覚えながらお母さんの影に隠れてやり過ごす。


 だけど、お母さんは保護者説明会に参加することになって、その間私は一人で動くことになった。


 オープンスクールの参加者が講堂に集まって、学校の説明や在校生の人の話なんかを聞く。

 その間も、たくさんの人の目が私を向いていて、次第に私は怖くなってきた。


 説明会が終わってすぐ、私は案内の言葉を無視して逃げるように講堂を後にした。


 ふらふらと当てもなく学校を彷徨って、やがてはたと気付く。


「ここ、どこ……?」


 初めて来た学校を一心不乱に歩き回ったせいで、元来た道もわからない。

 この後はお母さんと合流して一緒に校長先生の所に行く予定だったのに、合流場所がどこなのかもわからなくて。


 不安と混乱でいっぱいになった私は、その場に蹲ることしかできなかった。


 そんな時だった。


「君、大丈夫?」


 優しい男の人の声に顔を上げると、そこには天笠高校の制服を着た在校生が立っていた。

 そう。この人がお兄さん。


 お兄さんは屈んだ膝の上に両手を置いて、心配そうに私を見つめていて。

 その表情には、私に対する好奇の色はなくて、ただ純然と私を心配しているみたいだった。


 そしてそんなお兄さんに安心した私は、鼻の奥がツンとして、じんわりと涙が溢れてきた。

 それを隠すように「っ、大丈夫、です……っ」と虚勢を張りながら腕の中に顔を埋めると、お兄さんはそっと隣に座ってきた。


 そうして静かに私が泣き止むのを待ってくれる。

 やがて嗚咽が収まったのを見計らってか、お兄さんが変わらぬ穏やかな声で訊ねてきた。


「君、今日のオープンスクールに参加してるの?」


「……はい」


「そっか。じゃあ後輩になるかもしれないんだ。入学したらよろしくね」


「よろしく、お願いします……」


 明らかにこのタイミングでするような会話ではないように思う。

 だけどそのお陰で私は落ち着くことができた。


「オープンスクールのスケジュールだと、この時間は自由行動か。どこか行きたい場所とかある?」


「……っ、あの、校長室に行きたいです」


「よし、わかった。それじゃあ行こうか。立てる?」


 その声に私は頷き返して立ち上がり、そうして歩き出した。


 一歩前を進むお兄さんの背中を私は眺める。

 さっきまで私を襲っていた不安と混乱と羞恥は消え去っていて、嘘みたいに落ち着いていた。


 この人が先輩にいる学校なら、どんなことがあっても大丈夫。そう思えるほどに。


「校長室はあそこだね。それじゃ、俺はここで。楽しんでいってね」


「……ぁ」


「有栖! よかった、どこに行ってたのもう!」


 校長室の近くまで案内してくれたお兄さんにお礼を言おうとした時、校長室の近くにいたお母さんが駆け寄ってきた。


 反射的にお母さんの方を向いて「ごめんなさい」と謝っている間に、お兄さんの姿は消えていた。




 ◆ ◆ ◆




 ゆっくりと、そして丁寧に安城さんは話す。

 まるで大切な思い出を語るみたいに。


 そうして話を終えた安城さんは、最後に訊ねてきた。


「お兄さんは覚えてなかった、ですよね」


「……ごめんね」


 正直に謝る。

 だが、同時に思った。


(道理で奈々が安城さんを家に連れてきた時に見覚えがあったわけだな)


 俺の謝罪の言葉に、安城さんはどこか嬉しそうに、だけど少し寂しそうに呟く。


「お兄さんからしたら、記憶にも残らないぐらいに当たり前の行動だったんですよね」


「そんな高尚な理由じゃないよ。去年のあの日は、生徒会の仕事の一環で校内の見回りに駆り出されていてね。安城さん以外にも何人か案内してたと思うから」


 そう言うと、安城さんはくすりと笑う。


「私、結構目立つ自覚があるんです。……それでもお兄さんが忘れていたのは、やっぱりお兄さんが私の思った通りの人だから」


 どういう意味だろう。

 薄情とか、そっちの方向だろうか。


 不安に思う俺に、安城さんはデニムジャケットを捲ってこちらを見上げてきた。


 そこには先ほどまでの今にも泣き出しそうな悲痛な面持ちはなくて、ただ穏やかな微笑だけがあった。


「あの時は言えなかったので、遅くなりましたけど改めて。助けてくれて、ありがとうございました」


「うん、どういたしまして」


 俺がそう返すと、安城さんは安心したようにさらに表情を緩める。

 一年前のことをここまで覚えているなんて、安城さんは律儀だな。


「あ、これも、ありがとうございました……」


 安城さんは思い出したようにデニムジャケットを手渡してくる。

 それを受け取るときに、つんと、指先が触れ合った。


「ぁ、ぁの!」


 その瞬間、安城さんは顔を真っ赤にして彼女にしては大きな声を出す。


「うん?」


「わ、私、その時からずっと――」


 そこまで言って、安城さんは固まってしまった。


 真っ赤だった顔がさらに赤くなって、ゆでだこみたいになっている。


「ず、っと……っ」


 俺は彼女の言葉を急かすことなく穏やかに微笑み返す。


 やがて、安城さんは俯くと、絞り出すように言った。


「ずっと、本当に、感謝していたんです……」


「あ、ありがとう」


 ここまで感謝されていると逆に照れくさいというかなんというか。


 なぜか頭を抱え始めた安城さんに、俺も感謝の言葉を伝えることにした。


「俺からもお礼を言わないと。いつも奈々と仲良くしてくれてありがとうね」


「……っ、はい」


 非常階段で、お互いの感謝の言葉を伝え合う時間。

 何がどうしてこうなったのか、その過程を忘れてしまうような不思議な体験だったが、先の一件を安城さんはもう気にしていない様子だった。


 それが、何よりも救いだった。


「それじゃあそろそろ戻ろうか。まだ見て回りたいところたくさんあるでしょ?」


 デニムジャケットを羽織りながらそう言うと、安城さんは遠慮がちに、しかし楽しげに頷いた。

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