第10話 濡れないために

 それからもクラゲや深海魚を見て回っていると、あっという間にイルカショーの時間が近づいてきた。

 ショー会場であるスタジアムに出ると、一気に視界が広がる。


 手前から奥にかけて半円状に広がる観客席。その上には日差しよけの天井。

 そしてその観客席が囲うのは、イルカショーの舞台である巨大なプール。青々とした水面には、真上に広がる青空が映し出されていた。


 水族館では雄大な自然を感じられるとはいえ、ずっと室内にいた分、閉塞感のようなものは覚えていたのだろう。

 代わりに解放感が満ち満ちて、青々とした空とプールに目を細める。


 ただ、そうして立ち止まったのも一瞬。

 後に続く人たちのために席を求めて歩き出したが――。


「もう結構埋まってるな……」


 一応開演時間十分前には来たのだが、観客席の大部分は人で埋まっていた。


 二人並んで座れる場所を探していると、ふとプール近くの最前列が空いていることに気が付いた。


「あそこでいいかな?」


「はいっ。プールも近くて見やすいと思います」


 安城さんの同意を得て通路を降りていく。

 そうして席に辿り着いて、どうしてこの辺りが空いていたのかがわかった。


 席の近くには、『この付近には水がかかります』という文面と共に黄と黒で彩られた警告マークが。


 確かにイルカが激しく動くと水が飛びかかりそうな距離感ではある。


 ちらりと、安城さんの方を確認する。

 彼女の今日の装い的に、水がかかるのはまずそうだ。

 何がまずいって、薄手のブラウス。それも淡い色の。

 まず間違いなく透けそうだ。


 とはいえ他に良さそうな席も見つからない。


「座らないんですか?」


 俺が心の中で葛藤していると、そんな俺の心境などつゆ知らず、安城さんが不思議そうに訊ねてきた。


「いや、ここにしようか」


 このまま席を探しても周りの迷惑になるだろう。

 そう思い、俺は手近の座席に腰を下ろした。


 それを確認して、安城さんも右隣にちょこんと座る。


 こうして隣に座ると、改めて小柄だなと感じる。

 ただそれと同時に、可愛らしいフリルのついた白のブラウスを押し返すように主張する部分にも意識が向いてしまう。


(……やっぱり濡れたらまずいよな)


 何より妹から預かっている身としては、安城さんに恥ずかしい思いをさせるわけにはいかない。


 俺は意を決して羽織っているデニムジャケットを脱ぐと、安城さんに手渡した。


「あ、あの……?」


 突然着ていた服を差し出されて安城さんは困っている様子だ。

 俺はできるだけオブラートに包みながら説明する。


「この辺りには水が飛んでくるみたいだからさ、良かったら羽織りなよ。デニム生地だからある程度は守ってくれるだろうから」


「………………、~~~~っ!」


 俺の言わんとしていることを理解したのか、遅れて安城さんは顔を真っ赤に染め上げた。

 それからおずおずと両手を震わせながら、そっと俺のジャケットを受け取る。


「あ、ありがとうございます」


「気にしないで」


 受け取ったジャケットを、安城さんは毛布のように上体にかけた。

 そうして襟元に顔の下半分をもぞもぞと埋めている。


「……なんだか、お兄さんの匂いがします」


「俺の臭い?! ……いやまあ、今日着てた服だからするだろうけどさ……」


 臭いかな俺。

 ちょっと凹む。


「……あのさ、無理に被らなくてもいいからね?」


「?」


 傷心しながらも辛うじてそう声をかけると、不思議そうな顔をされた。

 それから何やら考え込むと、パッと表情を明るくして何かに思いついたように立ち上がった。


 そして、ジャケットを羽織るように背中の上から纏う。


「よいしょ……んしょ……」


 背中に羽織ってから座り直した安城さんは座席の上でもぞもぞと両腕を動かし、デニムジャケットの袖に通していく。

 そうして着終えた安城さんは、まるでお化けみたいに袖あまりをへの字にしながら嬉しそうに俺を見上げてきた。


「こういうことですね、お兄さん」


「いや……まあいいんだけど」


 何やら誤解されてしまったらしい。

 被らなくてもいいってそういうつもりじゃなかったんだけどな。


「ていうか、それなら前のボタンを締めないと結局濡れちゃうぞ?」


「ぁぅ、そうですね……。んしょっと、あれ……?」


 流石に俺と体格が違いすぎて、指先まで完全に袖の中に隠れていた。

 その状態でボタンを締めるのは難しそうで、実際に安城さんは手こずっている。

 男女で服のボタンも逆だし、それもあるんだろう。


「そのまま動かないで」


 そう言いながら俺は立ち上がると、安城さんの前に屈んだ。

 そっと両手を伸ばし、上から一つずつボタンを締めていく。


「~~~~っ?!?!」


 服のサイズに差がある分、胸元にも余裕がありそうだ。

 そうしてボタンを締め終えると、前も後ろも横も隙のない、完全防備状態ができあがった。


「よし、これなら大丈夫そうだな」


 今日は薄手の服でなく、かっちりとしたデニムジャケットを着てきて良かった。


「ぁ、ありがとう、ございます……」


 席に戻ろうと立ち上がると、安城さんのか細い声が飛んでくる。


「いいよいいよ。こういうのは妹で慣れてるからさ」


 そう言いながらにこやかに微笑み返していると、プールの奥にある巨大ディスプレイに映像が流れ始めた。


 スタジアム全体に軽快な音楽が流れ始め、直に開演するという案内がされる。

 ディスプレイの映像を眺めていると、安城さんが何事か呟いた。


「……また、子ども扱い、された……」


 周囲に流れる音楽に阻まれて、何を言ったかまではわからない。

 訊ね返そうと安城さんに視線を向けると、彼女は服の袖に顔を埋めていた。


 どうやら俺の空耳だったらしい。


 程なくして開演時間になり、イルカショーが始まった。

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