第三章

イツキと出会ってから、早いもので季節が一周した。

工場内に籠る熱気や、暑い中漂う金属の焼ける匂いを嗅ぐと、いつだってイツキと初めて出会った時のことを鮮明に思い出すことが出来る。

常に眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情で。愛想の欠片もないくせに仕事はきちんとこなし、何故か周りの人から好かれているのが不思議だった。

きっと悪い人ではないのだろう、と思いながらも真夏の暑い中工場の裏に座り、日向で煙草を吸うイツキに麦茶を渡しに行く時、リオはいつも緊張していた。

今、自分の右側でハンドルを握るイツキのことをチラリと見る。

眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情は今も変わらなくて、リオはイツキにバレないように小さく笑った。

窓の外の見たことのない景色が、ハイスピードで流れ去る。

冷房の効いた涼しい車内からは考えられないくらい、今日は猛暑だ。自宅の玄関を出てイツキの車に乗り込むたった数秒だけでも、刺すような日差しが痛かった。

「もうすぐ着くみたいだよ」

高い建物が徐々に少なくなり景色が開けてきた頃、イツキがカーナビを見ながら呟いた。

「この先みたいだけど…」

二人で目的地を探し、周りの景色に目線を走らせていると、少し進んだ先に鮮やかな黄色が一面に広がっている場所があった。

「あそこだ!」

太陽に向かって満開に咲き誇る向日葵。この向日葵畑にどうしてもリオは来てみたかった。

「凄い綺麗…」

ネットで画像は見ていたが、実物が予想をはるかに超えてきた。規則正しく整列して咲いている向日葵たちはカメラの画角に入りきらないところまで続いていたからだ。

「感動してるとこ悪いけどちょっと駐車場探すね」

キラキラと目を輝かせ子供のように興奮しているリオを尻目に、車は向日葵畑を通過し駐車場を探す。近くの農協の駐車場が、夏季限定で向日葵畑の来場者用の駐車スペースになっていた。無事車を停めることができ、2人は歩いて戻る。

「わぁー!凄い!」

少し歩くと、広大な敷地に咲く向日葵が再び目に飛び込んできた。白いワンピースに麦わら帽子を頭に乗せたリオが、小走りで向日葵に向かっていく姿が漫画に出てくる少女のようで、イツキは後ろで眩しそうに目を細めた。

「てか向日葵デカくない?リオが小さいの?」

「ちょっと!失礼な!絶対に向日葵が大きいでしょ!」

立ち並ぶ向日葵は、どれもリオの身長よりも背が高い。イツキが隣に並んで同じくらいだ。

2人が並んでぎりぎり歩けるくらいの、畑の中の細い道を手を繋いで進む。

「本当綺麗。力強さを感じるよね」

夏の強い日差しにも負けず、むしろそれを養分にして自分を輝かせる。凄まじいパワーだ。

「自然ってすごいよ」

左右に並ぶ向日葵を眺めながらゆっくり歩いた。

自然の力に圧倒され、いつの間にか照り付ける日差しも気にならなくなっていた。

いろんな角度にスマホを構え写真を撮るリオの横で、イツキもスマホをかざす。

「イツキくんが写真撮るの珍しいね」

「ちょっとさすがにこれは撮っておきたい」

「だよね」

少し屈み、下から向日葵を煽るように撮るイツキの写真をリオがこっそり撮る。

「あ、ねぇねぇ」

そしてイツキに近寄りインカメラにしたスマホを手を伸ばして持った。

「一緒に撮ろうよ」

「え、やだよ」

「いいじゃんツーショット」

素早くシャッターを押したリオのスマホには、満開に咲く向日葵をバックに満面の笑みで写るリオと、嫌そうに…でも楽しそうに笑うイツキの写真が保存された。


一度イツキの自宅に車を停めてから駅前まで歩き、以前も来たことのある焼き鳥屋に入った。

焼き鳥の盛り合わせと野菜串を数本頼み、先に来た冷えたビールを喉の奥へ流し込む。

「はぁー、暑かったからビールが美味しいね!イツキくん、今日は連れてってくれてありがとう」

「こちらこそ。俺1人じゃ行かないと思うから、俺も行けてよかった」

今日撮った写真を2人で眺め、焼き鳥をつまむ。

鮮やかな黄色で埋め尽くされた画像フォルダは、いつだって元気をくれそうだ。写真に写るのは狭い範囲だが、心の中には視界いっぱいに広がる向日葵畑がしっかりと保存されている。

こうやって2人で共有できる思い出が増えていくことがとても幸せだった。

「あ、あとで一緒に撮った写真送るね」

「いいよ別に」

面倒臭そうに笑う、この表情がリオは好きだ。

本当はイツキのどんな表情もいつでも見返せるように写真で保存しておきたいくらいだったが、そうするわけにはいかず、香ばしく炭火で焼かれた砂肝を頬張りながら、リオはしっかり心のフィルムに収めた。


リオを送り届けてから自宅に戻ったイツキはベッドに腰掛けて煙草に火をつけた。

静まり返った部屋に、煙を吐く自分の息だけが聞こえる。

ジーンズのポケットに入れていたスマホから小さな電子音が鳴りLINEの画面を開くと、リオから今日撮ったツーショットの写真が送られてきた。

向日葵のような満面の笑顔と、口では拒否しつつも満更ではない自分のだらしない顔が写っている。

「送らなくていいって言ったじゃん」

イツキは笑いながら呟くと、写真の横にある保存ボタンを押した。


「イツキ、ちょっといいか」

茹だるような暑さの中、いつの間にかイツキのことを名前で呼ぶようになっていた幸雄が、手招きする。

火の粉を上げながら鉄板を削っていたイツキが、機械を扱う手を止め幸雄のデスクに来た。

「何すか」

どんなに暑くても怪我の防止のため長袖長ズボンの作業着を着ているせいで、タオルを頭に巻いていても額から汗が流れ落ちる。

「今晩予定あるか?久し振りにうちで飯でもどうかと思ってさ」

今晩の予定と言ったら、バイト終わりのリオとコンビニで待ち合わせをして缶ビールを飲むことくらいだった。

「いや、特に予定もないんで…じゃあお邪魔します」

「良かった。リオには俺からLINEしておくから」

「お願いします」

軽く頭を下げてイツキは作業場に戻った。

さっきまで抜ける様な青空だったが、いつの間にか雲行きが怪しくなって来た。

「あいつ傘持ってんのかな…」

今頃コーヒーショップで忙しなく働いてるであろうリオのことを考える。

休憩の時にでもLINEして聞いてみよう。そう思い、再び機械の電源を入れた。


仕事を終えて、そのまま幸雄の家に向かった。

「イツキくん、いらっしゃい。ゆっくりしていってね」

玄関のドアを開けるといつもと変わらない笑顔の育美がイツキを招き入れ、幸雄とリビングへ進んだ。

外はもう既に土砂降りの雨となっていた。リオは折り畳み傘がたまたまバッグに入っていたらしく、迎えに行こうか?というイツキの提案を断った。

「まぁ取り敢えず」

幸雄が冷蔵庫からキンキンに冷えた瓶ビールとグラスを持ってくる。

「あ、すみません。お疲れ様です」

軽くグラスをぶつけ、疲れ切った体にビールを流し込む。

「今日はお寿司とったからね。あと唐揚げ」

テーブルに大きな桶に入った寿司が並べられた。

「今日クリスマスでしたっけ?」

豪勢な寿司を見てイツキが呟き、育美がキッチンで手を叩いて笑っている。

「唐揚げはリオが帰って来たら揚げ始めるからねー」

「最近イツキが来る時じゃないと揚げものやってくれないんだよなぁ」

幸雄が育美に聞こえないくらいの声で、イツキに耳打ちした。


育美が作る前菜はどれも美味かった。

油揚げと小松菜のお浸し、胡瓜とワカメの酢の物、金平牛蒡。仕事の話や他愛もない世間話をしながらあっという間一本空いたところで玄関から物音がし、リオがリビングに入ってきた。

「ただいまー」

その声にみんなが一斉に振り返ると「おかえり」と答える。それはイツキがだいぶ昔に失った環境だ。

「雨大丈夫だった?」

「結構降ってる!濡れたからちょっと着替えて来ちゃうね」

Tシャツの肩の辺りが濡れ、色が濃くなっている。

リオが自室に戻ると、唐揚げを揚げる油の弾ける音が鳴り始めた。


幸雄が冷蔵庫を開けて2本目のビールを取り出し、皿には大量の唐揚げが盛り付けられた。イツキのことを運動部の高校生だと思っているのではないか、と不安になるくらいの量だ。

「お待たせ。うわー唐揚げ久し振り!やったー」

部屋着に着替えたリオが階段を降りてリビングに戻ってきた。

「今日も忙しかったー。足パンパン」

ふくらはぎを拳で叩きながら冷蔵庫から取り出した缶チューハイを片手に席に着く。

「お疲れさん」

「2人もお疲れ様」

乾杯をしていると育美がもう一皿山盛りの唐揚げを持ってきた。

「ちょっとお母さん、イツキくんがいるからって張り切りすぎじゃない?」

「いっぱい食べてねー!余ったら明日のお弁当になるからいいのよ」

こんなに大量の唐揚げ…と思っていたが手作りで、

その上揚げたては予想以上に美味しく、全員箸が止まらなくなった。寿司もとても上等なもので、恐らく自分のために頼んでくれたのだろうと思うとイツキは少し申し訳ない気分になる。

「イツキくんがうちに来ると、ご馳走が食べれるから嬉しいな」

幸雄があえて小声で言ったことをリオが直球で放ち、それを聞いた幸雄が思わず吹き出した。

「そうよ。だからご馳走を食べたかったらイツキくんをどんどん呼んでちょうだい」

唐揚げから寿司に箸の方向転換をしたリオが、パクパクと頬張りながら嬉しそうに「はーい」と答えた。


「これ、持って帰って」

少し残った唐揚げをタッパーに詰めて、育美がイツキに渡した。あれだけの量があったのに残ったのが「少し」ということに驚きだ。

「いつもありがとうございます」

タッパーの入った袋とビニール傘を手に取りイツキは頭を下げると、玄関の扉を開けた。

「私もそこまで送る」

「いいよ、また濡れるよ?」

「そこまでだから大丈夫」

せっかく乾いた服に着替えたというのに、リオもビニール傘を持ちイツキの後を追った。

「お腹いっぱいになった?」

「もうパンパン。明後日までなんも食わなくてもよさそう」

「お母さん、イツキくんのこと男子高校生だと思ってるのかな?」

「たぶんそうだと思う」

大粒の雨がビニール傘をパタパタと打ち付ける。工場の外まで歩き、大きな通りに出た。

「濡れるからここまでで良いよ」

「うん、分かった。じゃあまた明日ね」

手を振り、別れようとしたとき道路を挟んだ歩道から突然声をかけられた。

「イツキ」

2人で声の方向を見る。暗くてよく見えないが、傘を差した女性がそこにいた。

「母さん…?」

イツキが目を細めその女性を見る。

「イツキ、久し振り。その子は前話してくれた彼女?」

穏やかな口調だが、なぜか感情が感じ取れない不気味なトーンだった。リオは恐る恐る頭を下げる。

「…そんなことより、どうしてここにいるの」

明江が道路を渡りゆっくり2人の方に近付いてきた。

「あの、初めまして。私…」

「お母さん、あの人のところに行こうと思って」

リオの挨拶を遮るように明江は話しはじめた。雨の音にかき消されて聞こえていなかったのか、ただ聞く気がなかったのかは分からない。イツキが怪訝な顔をしながら、リオと明江の間に割って入る。

「あの人って…」

「安東さん」

安東、という人物が誰なのかリオも何となく分かった。きっとイツキが逮捕される原因となった男で、正当な防衛によって死んだはずだ。

「何言ってんの母さん」

「でね、お母さん1人だとやっぱり寂しいからイツキも一緒にきてくれない?」

「だから、何言ってるの?あいつはもう…」

イツキが次の言葉を言おうとした瞬間、明江がハンドバッグから銀色に光るものを取り出した。突然視界に入ったそれに、思わず息を呑む。

「落ち着いて下さい。良かったらうちで少し話しませんか?」

リオが慌てて止めに入るが、明江の目はリオを写さない。と言うより、何も写していなかった。

「リオは家戻って。あとは俺らで何とかするから」

「駄目だよ!イツキくん、心配だよ」

目に涙を溜めて必死にイツキの腕を掴む手が震えている。

「一緒に行こう、イツキ」

明江が一歩一歩近づいてくる。更にもう一歩歩みを進めた瞬間、イツキはリオを道路の脇のガードレールに突き飛ばした。雨に濡れたナイフが街灯を反射し怪しく光を放っている。

「イツキ…」

「イツキくん!」

2人の声が重なった瞬間、イツキの体に鈍い衝撃が走った。自分に抱きついているリオ越しに明江が見える。

カランと軽い金属の音がし、その方向を見てみると暗い夜空の下でも分かるくらい鮮やかな赤い血の付いたナイフが転がっていた。

「何で…」

明江がゆっくりと後退りし、イツキはゆっくりとリオの背中を触った。恐る恐るその手を見ると、ナイフについている血と同じ色に染まっている。

「リオ…?」

震える声で名前を呼ぶが、イツキの肩に顔を埋めていてリオの顔が見えない。

「違う…イツキ、私こんなはずじゃ…!」

持っていた傘を落とし、明江は雨の中どこかへ走り去っていった。

「イツキくん…」

「リオ、喋らなくていいからもう少し耐えて」

ポケットから携帯を取り出し、動揺で震える指先をなんとか動かし119番を押す。

「イツキくん大丈夫…?」

「俺は大丈夫だから。リオ、もうちょっと頑張って」

数回呼び鈴が鳴り、受話器の向こう側から「どうされましたか?」と声が聞こえる。

「そっか…良かった」

ようやく顔を上げたリオがイツキを見つめ優しく微笑んだ。そしてイツキを強く抱きしめていた手から力が抜けて、地面に落ちた。

「リオ…?リオ!!」

土砂降りの雨の中2人でしゃがみ込み、震えの止まらない手で携帯を耳に当てる。状況を伝えてしまえば、あとは救急車が来るのを待つことしか出来ない。

「リオ、もうちょっとだから頑張って。もうすぐ救急車来るからな。リオ頑張れ」

強く抱きしめることもできずに、返事のない力の抜け切ったリオの体をただ支える。2人を濡らし続ける雨は止む事を知らず、徐々に強くなっていく一方だった。


静まり返った病院の廊下に、項垂れるように座り込むイツキと、祈るように手を合わせている育美と幸雄が並んでいる。

薄暗い中「手術中」と表示されたランプだけが煌々と赤く光っていた。

リオと共に救急車に乗り込み病院に辿り着くと、あっという間にリオは手術室に運ばれて行った。

気が動転しているイツキを構う事なく病院のスタッフはリオの両親の連絡先を聞き出し、迅速に呼び出した。息を上げ走って手術室まで来た育美も幸雄も、イツキに何かを尋ねるわけでもなく、そのまま隣のベンチに腰掛けた。

そこからどのくらい時間が経ったか分からない。

何十時間も経ったようにも感じるし、ほんの数秒の気もする。

赤い光が消えた。3人の視線が手術室に向けられ、暫くして中から担当医が出てきた。

力の入らない足を何とかして立たせ、イツキは医師の元に歩み寄った。

「残念ですが、2時30分に息を引き取りました。力及ばず申し訳ありませんでした…」

深々と頭を下げる医師の声を聞き、全身から血の気が引くのを感じた。どうやって今自分が立っているかも分からないくらい、体に力が入らない。

近くにいるはずの育美の咽び泣く声が、遠くに感じる。

「先生…ありがとうございました」

幸雄が医師に向かって深く頭を下げている姿が見えるが、これが現実だと受け入れられず夢の中の出来事のようだった。目を覚ましたらきっと見慣れた自室の部屋の天井が広がってるはずだ。イツキはまだそう思っていた。

再び手術室に戻っていく医師の背中が見えなくなり、重い扉が閉まる音が静かな廊下に響き回った。その音が、これが現実だと突きつけているようで酷く残酷に感じた。

力の入らない泥のような体をふらふらと動かし、医師に頭を下げた後一歩も動けずに立ち尽くす幸雄と、ベンチに座り泣いている育美の前にゆっくりと歩き膝をついた。

「本当に…俺のせいで……すみませんでした」

床に額をつけ謝るイツキを、幸雄は優しく起こす。手のひらにはまだリオの血がついていて、雨に濡れた服が熱を奪い体は冷え切っている。

「イツキ…ひとつだけ聞いていいか」

何も考えられずに、呆然と廊下の床を見つめるイツキに幸雄はゆっくりと訪ねた。

「リオは…最後どんな表情だったかな」

記憶から消したかったはずの光景が再び蘇る。

大好きだったリオの笑顔と、最後の最後まで自分を心配する優しさを思い出し、急に涙が込み上げてきた。

「優しく…微笑んでいました」

子供のように泣きじゃくるイツキの背中を叩く幸雄はこんな時でも優しい。

「だよなぁ。そういう奴なんだよ、リオは」

止まらない涙が廊下の床を濡らす。

泣いて泣いて、このまま自分も液体になって溶けて消えてしまいたかった。


葬儀や、死後の様々な手続きが慌ただしいのは、残された者に悲しむ隙を与えないせめてもの配慮なのかもしれない。

リオを失った悲しみは常に心の中にあり、何も手が付けられないほど無気力になっていたが、警察の事情聴取や現場検証で暫く駆り出された。

当然だがイツキの証言と現場付近の防犯カメラに残っていた映像は一致し、明江はすぐに逮捕された。

イツキを1人にさせるのが不安だった幸雄は、暫くイツキを自宅に泊め、家族だけで行うことになった葬儀にイツキも一緒に立ち会ってもらった。

棺の中に横たわるリオは、最後に見た表情と同じで小さく微笑んでいるようで、今にも「イツキくん!」と、明るい声で自分を呼ぶ声が聞こえそうな気がする。そう思うとリオから目を逸らすことができなかった。


慌ただしい日々が過ぎ、久し振りに自宅に戻った。

ベッドに腰掛け、煙草に火をつけると思い出したように涙が頬を伝った。何もない殺風景なこの部屋にもリオとの思い出が詰まっている。

また1人になってしまった。昔のように。

1人でいることは慣れていた。むしろずっと1人でいるために、同じ場所でずっと働くこともせず、大切な人も物も作らず生きていた。

過去の自分に戻っただけ。ただリオは過去に戻ることもなく消えてしまった。

数日間、ただ呼吸をしているだけの日々が過ぎた。

死なない程度に栄養は摂取したが、生きてる意味も分からなくなりそれすらも億劫に感じる時もある。

買い物で向かったコンビニに行けば、火傷をしたリオの手を冷やした日のことを思い出す。

真っ赤な手を、小さな保冷剤で冷やすリオに心底呆れたあの瞬間。氷の中に手を入れたまま、突然告白された時のこと。どれも鮮明に思い出せた。

次空腹を感じてもそのまま過ごしてしまえば、リオの元に行けるのだろうか。それとも死んでしまえば何もないのだろうか。

そんな事をただ呆然と毎日考えていた。


リオが亡くなって数日間工場は作業停止していたが、少し前から開始したと幸雄から連絡があり、工場へ向かった。

あの日のことを思い出すような雨だった。

栄養の足りていない体でふらふらと歩き、力無く差している傘を容赦なく雨が強く打ち付ける。

聞き慣れた機械音が鳴り響く工場に入り、従業員たちがイツキに気づくと一斉に手を止めた。

「田島くん…リオちゃん、残念だったな」

片多がイツキの肩に、遠慮がちに手を置いた。イツキは無言で頭を下げると、奥でキーボードを叩く幸雄に声をかけた。

「幸雄さん、ちょっと良いですか」


2人で外に出ると、イツキは幸雄に向き合った。

「仕事、来れずにすみませんでした」

「いいよ、そんなこと。誰も気にしてない。それよりお前飯食ってないだろ。痩せすぎだぞ」

「俺は…大丈夫です」

以前よりさらにこけた頬を見て、幸雄は心配そうに眉間に皺を寄せた。

「あの……お世話になったんですが…退職させて下さい。リオさんが亡くなったのは間違いなく俺のせいです。そんな状態で、ここにはいれません」

ぽつりぽつりとか細い声で、小さく言葉を紡いだ。

「…ここは俺の居場所でした。ありがとうございました」

深々と頭を下げる背中を幸雄の優しい手が叩く。

「お前がここにいるのが辛いならしょうがないよ。ただ俺たちは、お前のことをずっと息子だと思っているからな」

それからな、と続ける。

「変な気は起こすなよ。憎しみと、悲しみは連鎖するから。お前は幸せになることだけを願うんだ」

ここ数日の考えを見透かされてるようで、思わずイツキは目を逸らした。

「たまにはうちに飯食べに来い」

「ありがとうございます」

再び頭を下げ、そのまま工場を後にした。

イツキのことを見えなくなるまで幸雄が見送ってくれているのは背後で感じていたが、優しさが苦しくて、泣いてしまいそうで振り返ることは出来なかった。

帰り道、リオとの思い出が少しでも見当たらない道を通ろうと、いつもより遠回りをして自宅を目指した。

通ったことのない道だが、何となくの土地勘で進んでいると、庭先に向日葵の咲いている一軒家があった。厳しい残暑の中まだ強く咲き誇っている向日葵から目を逸らすことができずに、イツキは暫くその場から離れられなかった。


翌日も厚い雲の下雨が降っていた。

玄関の靴入れに引っ掛かっていたビニール傘を手に取り、薄暗い空に向かって開く。

傘を差しながら手を繋いだ日。

凍えるくらい寒いというのに、袖を濡らしながら手を繋いだ。寒さに弱く、普段はちょっとコンビニ行くだけでも車を使ってしまうというのに、この時だけはもっとリオと歩いていたいと思った。

開いたままの傘をゆっくり下ろす。イツキを生ぬるい雨粒が濡らした。

リオのいないこの世界。傘を差す必要すら見当たらない。

「濡れるよ」

ふと、笑いながら話すリオの声がした。

下ろしていた傘を再び空に向かって差し、駐車場へ向かい車に乗り込んだ。

しばらく車を走らせると、あんなに降っていた雨が止み曇り空が晴れ、青空が広がってきた。フロンドガラスに着いた雨粒がキラキラと光り、眩い光が差し込む。

入り組んだ道を進むと、一度来ただけなのに強く思い出のある景色が広がってきた。幸せな思い出のはずなのに胸が締め付けられる。

近くの駐車場に車を停め、歩いてその場所に向かう。

もう萎れてしまったものも何本かあるが、それでもまだ一面の向日葵は力強く咲いていた。

「リオ…」

もう呼ぶことないだろうと思っていた名前を小さく呟く。

畑を囲んでいるフェンスに腰掛け、しばらく向日葵を眺めた。

何となく、リオもここにいる気がする。

「俺、これからどうしたらいいんだろうな」

リオの所へ行ってしまおうか。そう頭に過ったのは一度や二度ではない。力強く咲く向日葵は無言でイツキの戯言を聞いている。

夕方の強い西日の中、一瞬爽やかな風が吹いた。前髪が靡き、優しくリオに撫でられているような感覚がしてイツキは目を細めた。

「…また来るわ」

フェンスから立ち上がり、再び駐車場に向かい歩き出した。


駐車場の近くで、向日葵の切花が売っていた。

「良かったらどうですか?」

日に焼けた年配の女性に声をかけられる。

「じゃあ…2本お願いします」

「ありがとうございます」

優しい笑みで向日葵を新聞紙で優しく包み、イツキに手渡した。

軽く会釈をし、2本の向日葵を抱え車に乗り込んだ。

穏やかな黄色に染まる畑が徐々に遠く、後ろに消えていく。

自宅に戻り、手元の向日葵に視線を落とした。イツキの家にもちろん花瓶なんてものはなく、一番背の高いグラスに水を入れて向日葵を差した。

ベッドに腰掛けて、テーブルの真ん中に置いた2本の向日葵を眺める。

透明なグラスの中で寄り添うように咲く2本の向日葵が綺麗だ。

「もっと綺麗な花瓶がいいんだけど」

リオだったらきっとこう言うだろう。

明日、駅の雑貨屋に行ってリオが好きそうな花瓶を買おう。

イツキは向日葵に向かって柔らかく微笑むと、煙草に火をつけた。




end

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