エピローグ「よだかの星」

エピローグ「よだかの星」

 五時に図書館が閉館となり、僕と杏は手早く荷物を片づけて建物の外に出た。そのあと、僕らは近くにあるスーパーで文房具などの雑貨を買い、ラーメン屋でラーメンを食べた。彼女はすっかりカレーラーメンが気に入ったようだ。ラーメン屋を出ると、時刻は七時を過ぎたところだった。

 この地方には珍しく今日はすっきりとした晴れ空だ。

 二人は、互いの家の分岐点まで一緒に歩いている。

「そうそう」

 彼女が大事なことを思い出したように指を立てる。

「あれ、さっき聞きそびれた、イカサマ」

「ああ、あれね、別にたいしたものじゃないよ。そんなに気になる?」

「うん、気になる気になる。二人も驚いていた」

 僕と彼女が作った男女ペアになるバッジを、水樹と月村さんがペアになるようにして、二人が引換所に来るようにしておいたのだ。

「でも、仕組まれたことだったってことくらいはわかっていたはず」

「それはそうだけど」

 相手と同じになるのだから、計算上は四百二十分の一の確率になるはずのものを、僕はあえて一致させた。文化祭開催中に二人が顔を合わせることがあるとしたら、それに気がつくだろう、と思ってやったことだ。

「すごく単純な話だよ。開会式が終わったあと体育館から出るときに一人ずつ引かせると時間がかかりすぎるからって男女に分けて僕と杏で配っていただろう」

「うん」

「体育館に近いのは一年七組、つまり僕らのクラスで月村さんに配られたのを、僕は横目で見ていて、その番号を記憶して、水樹の三組の順番が来るまでに見つけ出して、自然を装って渡しただけだよ」

「見つける前に渡しちゃっていたら? 渡すまでに見つからなかったら?」

「そのときはそのときだよ、単なる余興なんだからさ。それが事実さ」

 事実、事実、何だって事実ばかりが優先される。

「ふうん」

「どうしたの?」

「ユートって、そういうことするんだって思っただけ」

「まあね」

 彼女は僕の行為にどんな感想を持っているのだろう。おそらく、彼らにささやかなサプライズプレゼントを用意してあげた、とでも思っているのではないだろうか。それはある側面から見れば正しいけれど、実際のところ意味はない。そんなことができるのではないか、できなくても別にかまわない、自分自身に影響はないからやってみようか、といった程度のものだ。それに意味を見いだそうとするのは、あくまでも他人である。

 彼女が足を止め、空を見上げる。

「私、暗くなる直前の、このグラデーションが好き」

「夕焼けじゃなくて?」

 僕の疑問に、彼女は指を空の端へ向ける。

「うん、あの、空の稜線がグラデーションになって、『さあさあ夜が来るぞ』っていう感じが好きなんだよね」

「そう」

 適当に相槌を打っておいたけれど、彼女の言葉がわからないわけでもない。

 ただ、それが彼女の口から出た、というのが意外に思えた。僕にとって、夜は孤独の象徴だった。彼女は孤独を極端に嫌っている。彼女はそれを決して口にしないけれど、それは彼女自身がためらっているからに他ならない。それがいつか解消される仮初の不安だとしても、彼女にとって、今が現実なのだ。僕にとやかくいわれる筋合いもないだろう。

 僕は彼女が僕の誕生日にくれた本を思い出す。

 それは、一冊の写真集だった。

 青の、世界中の青空を切り取った写真集だ。

 それが彼女にとってどのような意味合いを持つのか、あるいは僕にどういう意図で渡したのか、本心は測りかねないし、真剣に悩むこともでもないだろう。

 彼女が自分のことを考えてそれを選んでくれた、ということだけを噛みしめていよう。

「あれが、カシオペア」

 世界の端を指していた人差し指を、彼女はゆっくりと空に戻す。その先には、Wの形をした星の群れがあった。

 カシオペア座だ。

 よだかは、カシオペア座のすぐとなりで燃え続けている。

「ということは」

 プラネタリウムで得た知識を確認するように、いち、にい、と声を出す。Wの真ん中の星を点として、反対側の二つを結んだ線に垂線を引き、その距離を八倍にする。

「あそこにあるのが、北極星」

「そう、ポラリス」

 こぐま座のポラリス、現代での北極星を探す方法として最もポピュラーな方法だ。見かけ上、ほとんど動かないように見える星。もちろん、少しずつ動いているし、かつての別な星がそうであったように、いつか北極星でもなくなる。少なくとも、僕らが生きている間は、北極星と呼ばれ続けるだろう。

 彼女は横で、鼻歌を歌っている。

 それは、『星めぐりのうた』だ。

 どこで知ったのだろう。歌詞は知っているが、彼女に合わせて歌う気分にはなれなかった。資格もないだろう。

「星座は、孤独だ」

「え?」

「彼が、そう言った」

「二人で会ったときに?」

「うん」

 彼女は、僕と水樹が二人で会ったのを知っている。だけど、その間、二人で交わした言葉の内容までは伝えていない。

「どういうこと? 星が、じゃなくて、星座、なの?」

「そう。星座は、僕らには群をなしているように見える。それが動物やら杯やらの形に見えるのは、素晴らしい想像力の賜物だけど、僕らはそれぞれを一つのものとして捉えている。でも、実際はそうじゃない。何百光年も離れているものもある。光が届くのが遅れているだけで、一つはもうすでに存在しないかもしれない。他の人には寄り添っているように見えるのに、事実、星自体は独立し、互いにとっては無関係だ。だから、星座はただの星よりも、ずっと孤独だ」

 それは、実に彼らしい言葉だ。

 偽物でありながら、偽物を自覚しつつ、本物であろうとし、最後には本物になってしまった彼を表す言葉として、とても適切だった。

「人間だって、同じようなものだ。観測者には、近くにあるように見えても、実際はどうだかはわからない。ひょっとしたら、対象者だって、観測者の情報を鵜呑みにして、勘違いしているかもしれない」

「……うまく、行くといいね、二人」

「大丈夫だと思う、なんて保証はできないけど、彼らは孤独を知っているから」

 孤独な二人。

 僕らには星座に見えた、偽物の二人組。

 それは幸せだろうか。

 孤独を埋め合わせるために、誰かを必要としていただけなのではないだろうか。

 単純に考えれば、今回、僕らはリンゴさんの気持ちを受け取って、勝手に彼らのキューピット役をしただけなのだろう。彼らの作り物の物語に、引導を渡してあげただけだ。だけど、それを『良いことをした』なんて思うことはできなかった。彼らはきっとこれから、生傷をなめ合うような日々が続くのだろう。放っておけば治るはずの怪我を、わざとひっかき合うことにもなるだろう。いつかの僕が、誰かとそうであったように。幸せに形はないとはいえ、それが幸せだなんて、誰が言えるだろうか。

 それにしても、あの事件がどこかに影響しているとは思っていなかった。いや、していない、と思い込もうとしていただけだ。ここまで大きくはなくても、あれに関わった人間には心の奥底に淀みを残しているのだろう。

 僕にも。

 芹菜にも。

 一ノ瀬先輩にも。

 携帯電話のメールボックスを開き、心の中でため息をつく。

 送り主は遠く、アメリカにいる父親からだ。

 メールは簡単に距離を超える。

『心の準備はできたか? こちらの留学の準備はいつでもできる』

 英語は苦手なのにな、と無音で呟く。

「ユート?」

「どうしたの?」

 遠くなった声に僕が振り返ると、彼女は足を止めていたみたいで、いくらかの距離が空いてしまっていた。眉を下げて、心配そうに首を傾げてこちらを見ている。

「あなたも、孤独なの?」

 ぼそり、と彼女が呟く。

「きっと、そうだね。孤独じゃない人間は、どこにもいない」

 彼女の問いかけに、君だってそうだ、とは言わなかった。

 言わぬが花、という言葉もある。

 物言えば唇寒し秋の風、は松尾芭蕉の俳句だっただろうか。この場合には使い方が少し違うかもしれない。

「そう」

 彼女が小走りに歩を詰めて、疲れる距離でもないのに大きく息を吸って吐く。

「これでも?」

 彼女が僕の右手を両手で掴む。ゆっくりと、彼女の体温が僕に伝わる。熱は高いところから低いところへ移動する。

「ここにいるよ、私。今は距離なんて、ない」

 真剣な顔で、彼女が僕を見ている。彼女の言葉は、僕にでもあると同時に、自分に言い聞かせたように思えた。

「杏、恥ずかしいよ」

 彼女は、僕に自身を投影している。

 鏡を見る替わりに、僕を見ている。

 それだけだ。

 僕は、本当は孤独でもないし、不安でもない。

 だから、そんな顔で僕を見ないでほしい。

「それなら、もっと恥ずかしい顔をしてもらってもいいんだけど、それに」

 彼女は、僕の変わらない顔を見て、意地悪そうに笑った。

「私だって、恥ずかしくないわけじゃない」

 握っていた手を離し、下を向く。

「私、負けないし、逃げないから」

 小声で、そっぽを向いて、彼女は先に歩きだす。

「何に?」

 とっさに出た僕の言葉は、ぬるい風にかき消されてしまったみたいで、彼女は返事をしなかった。

 信号のない交差点が見える。

「じゃあね」

「うん、それじゃあ」

 僕らはここから違う方向に歩きだす。

 いつか来るときのように。

 二人揃って、孤独に歩く。

 時間はもうない。


 ―La Régle du Jeu?

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