孤独な星座たち(藤元杏はご機嫌ななめ④)
吉野茉莉
プロローグ「よだかの星」
プロローグ「よだかの星」
「結構、小さいね」
彼女が小声で僕に囁いた。振り向く動作で、彼女の髪が僕の口元に触れた。甘い柑橘類の匂いがした。僕は無言で頷く。
九月の終わり。
土曜の昼過ぎ。
僕と彼女は小さな科学館の小さなプラネタリウムの中にいた。ケータイを見て時間を確認し、電源を切る。その前にメールの受信箱を見て、一つため息をついた。
上映まであと五分ある。
全員が詰めて座っても二百席もあるだろうか。子どもの頃から何度も来ていても、一度も席数も数えたことなんてなかったな、といつものことながらどうでもいいことを考えていた。
客は案の定まばらで、家族連れが十組くらい。僕らと同じ年齢の組み合わせはいない。そもそも高校生がこの科学館に足を運ぶこと自体がないはずだ。行ったことはないけれど、都会の科学館と比べるべきものもないだろう。僕が小学生だったときから変わらない設備ばかりだ。
僕と彼女、藤元杏は、中間テストに向けて図書館で勉強をしていた。
最初は学校へ行き教室か僕らの部室である生徒会執行部で勉強をすることも考えたのだけど、わざわざ自主的な勉強をするために学校に行く必要があるのだろうか、ということで流れてしまった。次に浮かんだのは、僕か彼女の家に行くことだけれど、それについてはどちらもがやんわりと否定をした。そこまでの仲ではない、という意思表示が互いに働いたためであろうと思われる。
彼女は一度自分の家に上がってはいるが、それも短時間だ。
横目で彼女を見ると、退屈そうに背もたれをゆらゆらさせていた。どうせ後ろに誰も座らないのだから迷惑になることもない。
彼女とは、恋人の、という意味ではなく、単なる三人称の女性、という意味だ。僕はそう思っているし、彼女もそう思っているに違いない。言葉に出したこともない。
結果として、集合場所は市立図書館となった。この図書館なら二人とも歩いていける範囲にある。僕にとっては図書館は鬼門であり魔窟であるので、できることなら勉強場所としては避けておきたいのだけど、ここはこのあたりで妥協をするしかないのも事実である。
勉強を長時間してもいいファミレスなんてこのあたりにはない。
東京にはあるらしい、というか、それが普通なのだと彼女は言っていた。
でもここでは違う。
僕らがいるこの場所は、北海道の南に位置する一地方都市だ。観光地化もされず、重点産業だった鉄鋼業は廃れ始めて久しく、ただ衰退していくしかない。
はっきりと言ってしまえば、もう終わってしまった街だ。景気の良い話なんてどこにもない。商店街はシャッター街となり、たいていの人は車で郊外にできたショッピングセンターで買い物をする。もっと若い人たちは通販で事済ます。僕だってあと数年経って大学に行くことになれば、この街を離れることになるだろう。もう少し前に具体的な話が進行しているけど、それについてはまだ考えないようにしている。
そして、きっと二度と戻ってこない。
彼女は中学までは東京で生まれ育ち、高校から父親とともにこの街に来ている。それも三年間だけの予定だ。僕にもない愛着なんて、彼女に起こりようもない。彼女がこの街にいる理由は、それは彼女自身にあるわけだが、それを今考える必要もない。
図書館も学生はほとんどいなかった。時間を持て余した人たちが、ぽつんぽつんと座っている。カウンターの司書も眠たそうにしていた。その仕草で、僕はここ最近に起こったことを思い浮かべる。
悪者のいない、純粋な、言葉の森で起こった、事件と呼ぶには柔らかく、日常と呼ぶにはあまりにも痛々しい物語だ。
勉強もそこそこに切り上げて図書館を彷徨して手当たり次第に本を持ち出して読書に耽りたい気持ちを抑えつつ、僕と彼女は問題集を解きながら、互いの苦手分野について聞き合ったりしていた。僕は数学と物理を、彼女は英語を教え合う。その他の科目については、ほぼ互角だった。
二時間ほど経ち、昼食を取ることになった。僕は近所のコンビニでサンドイッチでも買って済ませようと思っていたのだけど、彼女は、どこかお店で食べたいと言い出した。僕も持ち駒はそれほどあるわけではないけど、その中から、一軒の洋食屋を選び出す。
スパゲティという無難な食事を済ませたあと、勉強を再開するため図書館に戻りかけたところで、彼女が科学館を指差した。科学館は、図書館の横に並んで建てられている。市営の小さな科学館だ。
僕がいつかプラネタリウムが好きだと言っていたのを彼女は覚えていたらしい。入口の表示を見ると、あと十五分ほどで始まるようだ。
別にそんなに面白いものじゃないよ、と断ったが、ちょっとくらい、と続けたので僕らは科学館への入場チケットとプラネタリウムの観賞チケットを購入した。観ることに異存はない。中を見て回る時間はないので、最短でプラネタリウムまで向かう。昔から展示物が変わっているとは思えないので、僕にはほとんど興味はない。
「そういえば」
彼女が口を開いた。
「あの手品? マジック? どうやったの? 偶然にしてはできすぎているから、ユートがどうにかしたんでしょう?」
「手品? ああ、イカサマのことか」
「そう、イカサマ?」
僕が文化祭でやったちょっとした悪戯心についての質問だった。
「ああ、あれは簡単なことだよ……あ、でももう時間だ」
係員がドアを閉める。
ここでは、係員が機器の操作以外に、アナウンスやポインタも担当する。
時期的に、上映プログラムはすでに冬の大三角形にまつわるものだろうか。
徐々に部屋が暗くなっていく。楽しげな子どもの声ももう聞こえない。誰もがひっそりと、息をひそめて、偽物の夜を待ちかまえていた。
「始まる」
彼女が、独り言を言った。
いつものように乾いた声だ。
彼女が先週言った、呟きのような言葉を心の中で反芻する。
『本物って、何?』
それに僕はなんと返しただろうか。
きっと、何も返していないだろう。
返す資格なんて、僕にはないのだ。
「それでは、定刻となりましたので、上映を開始いたします」
一度、部屋が真っ暗になり、ゆっくりと明りが灯り始める。
仮想的な時刻は夕方を創り出し、そこから夜になっていく、というわけだ。
それは本物よりもずっと瑞々しい光の集合だ。
中央の仰々しい機械が、それこそ機械的に演出しているだけの光だ。
とても綺麗で、瞬きを忘れてしまいそうな、人工的な空。
星空よりも、星空のような、空。
偽物ではあるけれど。
偽物だから、美しい。
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