五日目「勝利者調整について」

五日目「勝利者調整について」①

 目覚めて備え付けの時計を見た。時間はまだ六時前だった。起きているのは私だけみたいだ。

 せっかくだから朝にも大浴場に行ってこようかな、と体を起こして一式を持つ。ドアノブに手をかけたところで、背後から声をかけられた。

「私も行くにゃ」

 いつの間にかリンゴさんが寝ぼけ眼で立っていた。いつものメガネはかけていない。

 二人連れだってエレベータに乗る。

「ありがとうございました」

「いんにゃ、いいのいいの。できればロッテちゃんにも良い思い出持って帰ってもらいたいからね」

「そうですね」

「あ、男湯と女湯が逆になっている」

「そういうシステムだからね」

 二人でのれんをくぐって浴衣を脱ぐ。何となくリンゴさんに見えないように少し距離を取っておいた。

「メガネ外すと全然見えないから安心してね」

「メガネがあった場合、何が危険なんですか」

「それはもう、にひひ」

 メガネなしの彼女が笑う。

 長身で抜群のプロポーションを誇るリンゴさんに比べれば、私は子供のようなものだろう。海の時もそうだったけど、並んで見られたくない。

 浴場にはすでに数人がいた。当然のことながら、誰もこちらを気にしていない。

 軽く体を洗って、髪を濡らさないように足を入れる。

 十分ほどぼうっと二人で湯船に沈んでいた。

「温泉も悪くないですね」

 素直な感想を言う。

 東京にいるときは温泉に行くなんて考えもしなかった。

「でしょー毎日入り放題」

「うらやましいですね」

「ねー、そう思うでしょ、これがそうでもないんだにゃあ」

 天然の赤い髪を濡らして頬を上気させている。

「ここはもう長いことやっていて、子どもは私一人しかいないから、必然私がここを継がなくちゃいけないんだよねー。だから、いつかは継ぐためにって、小さい頃から家の手伝いばっかりしていて、遊ぶ時間もなかったんだよね。そりゃ友達との付き合いなんてできるわけなくて、小学校くらいのときはまだいいけど、中学になるとなかなか微妙なお年頃ってやつでちょっと孤立ってわけでもないんだけど、いくつかのグループに入れなかったんだ」

 ぼそりぼそりと彼女が言う。

「そんな中で、私ができることといえば、夜遅くになって、図書館で借りてきた本を読むことくらいで、本好きになったのはだからかなあ、いつでも忙しい時間を忘れさせてくれたから。それだけは感謝しているけど。今は高校生になって、跡取りっていう自覚も多少あるから、放課後は本を読む時間に充てさせてもらって、帰ってから夜の方の手伝いをするようになったってわけ」

 いつものおちゃらけた語尾はない。

 普段の彼女と、母親の前で話していた彼女と、そして今の彼女と。

 それのどれが本当の彼女なのか。

 たぶん、どれも本当の彼女で、グラデーションがあるだけなんだろう。

 彼女の言葉は決して軽いものではなかった。

 帰る場所ではなく、帰らなければいけない場所が彼女にはあるのだ。

 それはどれほどの負担になるのだろう。

「杏ちゃんのところもお父さんがやっているんでしょ?」

「でも、実質的には今はお兄ちゃんが取り仕切っていますし、別に跡を継がなくちゃいけないような理由もないんです」

「そっかー」

 小声で彼女は「いいなあ」と言った。

 お父さんは東京で会社を経営しているが、私のために北海道に引っ越ししている。事実上の指揮はお兄ちゃんがしているし、古くからの従業員も今回の引っ越しには賛成しているので何も困ることがなかった。今回のようにトラブルがあれば半日かけて飛行機で移動すれば良いだけの話だ。

 この先の、特に私の進路について何か言われたことはない。望めばどこにでも行かせてくれるだろう。私に継がせてまで会社を存続させようとしている様子もないし、従業員もそれを期待している様子もなかった。

「だから、私は本当を言えば進学しなくてもいいんだよね、まあそのプレッシャーがないだけ他の人たちよりはましかなあ。大学に行っても、四年間の猶予期間が与えられるだけって感じだし、一応経営学部志望ってことで親には言ってあるんだけどね。どのみち道外には出られそうにないし」

「そんなの、守らなくていいじゃないですか」

「うん?」

「リンゴさんが行きたいなら、そうだ、リンゴさんなら文学部とか行きたいんじゃないですか? 文学少女なんでしょう?」

「文学部? そうだねえ、悪くないねえ」

「別にホテルの生まれだからって、継がなきゃいけない決まりなんてないじゃないですか、リンゴさんだってリンゴさんの好きに生きる権利はあると思います。昔の話じゃないんですから」

「あはは、そうだね、権利、そう、私にも権利はあるんだろうね」

白いお湯に彼女が沈んでいった。

「あんずちゃんは正しいにゃ。正しいけど、それは正解ではないんだにゃあ」

 浮上してきた頭まで濡らしたリンゴさんが言う。

「まあ、杏ちゃんは『お客様』だからなあ」

「なんですかそれ」

「結局さ、結局、あんずちゃんが悪いってわけじゃないのよ。でもね、私から見れば、あんずちゃんは『お客様』なのよ。ここに来る人達と同じ、ロッテちゃんと同じ。そりゃあね、中には常連さんもいるし、毎年うちのホテルじゃなきゃって言う人もいるし、それはそれで嬉しいことだけどね」

「そんなこと」

「じゃあさ、あんずちゃんならどうする? ここで私は継ぎません、って言い出して、誰が幸せになるよ?」

「リンゴさんが」

「ならん、ならんね。レールに乗ることを選んでしまった私は、レール以外の考え方ができない。もし家を飛び出して、一人で何でもやりくりするようになったら、それはそれで楽しいかもしれないけれど、やっぱり、選ばなければ、もっと楽だったのにな、って思うよ。私のことだからわかる、私はそういう人間さ」

 彼女は私の意見をきっぱりと否定した。

「ロッテちゃんと正反対かな、私は選択しないことを選択したのだ」

 言い返すことができない。彼女の選択に、『お客様』と言われた私が関与できる隙などないのだ。

「まあ、このお話はこれでおしまいにしよう。誰も得しない話だよ」

 ぶくぶくともう一度湯船に沈み、再び顔を出した。

「にゃはあ、いつか王子様が私をさらっていってくれたらなあ」

 冗談めかして言った言葉は、全てが嘘、というわけでもないだろう。

「王子様、いないんですか?」

 軽い気持ちで聞いてみた。リンゴさんはスタイルは良い、性格も良く言えば明るい、気の合う、もしくはそういうリンゴさんが好きな男の子もいるだろう。えり好みをしなければ、彼氏を作るのもたやすいはずだ。

「『しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか』」

 リンゴさんが顔の表面だけを湯船から出して、天井に向かってつぶやく。

「あ、えーと、夏目漱石でしたっけ?」

 確か、夏目漱石の『こころ』に出てきた台詞だ。

「そう、たとえば、誰かを好きになることで、その誰かを傷つけることになるとしたら、それは、その恋は正当化されるのだろうか」

 これもロッテの言葉とは反対だ。

 そんな恋が、果たしてあるのだろうか。

「たとえばの話、気にしないで」

 返す言葉に詰まっているのを感じたのか、リンゴさんが打ち消した。

「それで、そっちの王子様はどう?」

「ど、どうって……」

 浮かび上がってきたリンゴさんがにこにこと視線を向けてくる。

「ああ見えて案外ライバルは多いかもよ」

 ライバル。

「あ、心当たりありって顔しているね」

「そうですね、ライバル」

 昨日のやり取りと紫桐さんの顔を思い浮かべる。

 私は、本当に彼女のライバルなんだろうか。

 これは難しい。

 ライバルならば、勝たなくちゃいけないのだろうか。

 私に勝ち目はあるのだろうか。

「今認めたね」

「あ」

「ふふふ、誘導尋問に引っかかるとはまだまだだにゃあ」

「ずるいですよ」

 これは失言だった。頭が熱で呆けてしまっているからだろう。

「トーヘンボクだからなあ。積極的にアプローチしていかないと」

「唐変木はそうですね、その通りです。アプローチですか」

「そうそう、アプローチ」

「難しいですね」

「難しいにゃあ、本の中ならアドバイスできるんだけどにゃあ」

 そのまま、無言でまたぼうっとする。

「露天風呂があっちにあるから行こうにゃ」

「はーい」

「混浴だったらなあ、があ!」

 立ち上がったリンゴさんの背中を勢いよく叩く。背中に赤く手の跡がついた。それくらいはしてもいいだろう。

「叩きますよ?」

「もう叩いているにゃあ……」

 涙目で彼女は背中をさすっていた。

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