三日目「水族館その他について」⑤
「これからどうしようか」
午後にあったイルカショーを見て、見られる範囲のプログラムは見て回ったところで、ポチが言った。
「そうにゃあ、昼ご飯には遅すぎるし、晩ご飯には早すぎるし、でもご飯を食べるなら汽車で学校の方まで戻った方が何か食べられる場所は多そうだし、難しいところだにゃあ」
「どうでしょう、戻って、神社にお参りでもしていく? ここの辺りでロッテを連れていけるとしたら、そこくらいかな」
ポチが言っているのは学校の最寄り駅から少し歩いた先にある神社のことだ。この街では一番大きな神社だろう。街の中心に近い場所なのに、大きな森に囲まれるように神社がある不思議な場所だ。
「それじゃあ、そうしようか」
「異議はないにゃあ」
リンゴさんが同意する。
「リンゴさん、いいんですか?」
「うん? 何が杏ちゃん?」
「いや、まだ帰らなくて、ですけど」
荷物は私の家にあるけど、いつまでもふらふらとしていいものだろうか。
「んにゃ、大丈夫大丈夫。来年になったら受験生だし、今のうちに遊んでおかないと」
家出をするのは『遊んでいる』で済ませて良い問題だろうか。
「ああ、本当に受験するんですね」
感心した様子でポチがうんうんと何度もうなずく。
「ポチ君、それは余計じゃない?」
「勉強教えてあげましょうか?」
「余計すぎじゃない? 教えて欲しいけど!」
先輩のくせにプライドがない。
「あ、そうだそうだ」
リンゴさんが遠くを指さす。
「最後にあれに乗ろうよ!」
指の先には、観覧車があった。
誰も異議を唱えなかったので、てくてくと、みんなで水族館の敷地の外れに向かう。それほど大きな観覧車ではないはずだけれど、周囲に高い建物がないから正確な高さが掴めない。
観覧車は止まっている。誰も客がいないからだろうか。
「エネルギーを節約しているのかな」
「わざわざ人を乗せてぐるぐる回す方がエネルギーの無駄使いだと思うけれど」
ポチと軽口を言い合っていううちに乗降地点に着いた。そばには小さなプレハブ小屋があって中に係員の男性がいた。
「ああ、佐々木さんのところの。大きくなって」
「どうも、お世話になっています」
中年の男性はリンゴさんに気がついたみたいで、二人で挨拶をしている。どうやら知り合いらしい。
「乗るんかい?」
「はい、お願いします」
「あいよ」
男性が止まっているゴンドラのドアを開けてくれる。四人乗りだ。重さで言うならロッテは勘定に入れなくても良いだろうか。
「ささ」
自然とドアの近くにいた私とポチが最初に乗り込む。
それから三人を待っていると、リンゴさんがぼそぼそと係員に耳打ちをしている。何か得心したようで、彼はそのままドアを閉めた。
「あ、私たちは次のに乗るんで、四人乗りだから」
「え?」
「楽しんでねー」
ガタン、と一度大きく揺れてゴンドラが回り始める。私と彼は仕方なく、円を描いて上昇を続けていく箱に向かい合わせに座る。
「まったく、リンゴさんは」
彼が窓の外を見る。私もつられて同じ方向を見ると、次の観覧車にリンゴさんと桂花が乗っていてこちらに向かって手を振っていた。二人とも実に楽しそうな笑顔だった。
微妙な距離感を味わいながら、私は彼と向かい合う。
「さて、どうしたもんかな」
「どうしたもんって?」
「途中下車はできないから。でも五分くらいかな」
彼が背中にある窓から空を見上げる。観覧車の大きさと速度から一周の時間を測っているみたいだった。
「途中下車したいの? でも? 五分は長すぎる?」
「いや、そうは言っていないけど」
口ごもる彼に私は追及の手を緩めない。ゴンドラのドアの取っ手に手をかける。
「言ってるように聞こえたよ、ドア開けようか?」
「杏さんは意地が悪いなあ」
「そーですね」
「だから、そういうところだよ」
「じゃあ直せばいいわけ? しおらしくする?」
「そうも言っていない」
「どっちがいいの?」
気持ち分、彼に顔を近づける。彼はどうせ『どっちでもいい』なんて言うに決まっているのだ。
「杏さんはそのままでいいよ」
「な、なな」
真面目な顔をした彼に不意打ちを食らって、体がのけぞる。背中がゴンドラのフレームの金属に当たった。
「ずるい」
「ずるい? 何が?」
相変わらず変化のない顔で私を見つめる。
「ばか」
「やれやれ、また馬鹿か」
「いいわよもう」
「それは良かった」
何かに満足したみたいで腕組みをして彼はどしっと座り直す。
空に向かっていく二人。
「ポチ、来月誕生日なんだってね」
重くなる空気に耐えかねて聞いたばかりのことを話題に出す。
「ん、そうだけど、誰に聞いたの? 最近誰かに言った記憶はないけど、芹菜から?」
「ううん、桂花からだけど」
「ああ、そうか、月村さんか」
ポチは不思議と納得しているようだ。
「何か欲しいものある? 聞いておくだけですけど」
「なんで?」
「た、誕生日だからでしょ」
「別に歳を取ってめでたいことはないし、祝われるようなことでもない。刻々と過ぎ去っていく日々の一つだ」
まさしく桂花が真似をしたまんまの言葉に余計に付け加えて言った。
「欲しいものは?」
「うーん」
下唇をつまみながらゴンドラの天井を見ている。ゆっくりと視線を下ろし、私の顔を見つめた。
「何よ」
「特にないな。図書カードが無限に欲しいね」
ガコン、と大きく揺れた。
思わず手すりを掴んでしまう。
「あ」
「どうしたの? 杏さん」
「高い……」
正面だけを見続けていたので気がつかなかったけど、ふと窓から下を見てしまった。
「そりゃ観覧車だからね、高いところから景色を見るのが目的の装置だよ」
「私、高いところ苦手だった……」
足の底が抜けて、今にも落ちていきそうな錯覚を感じて、鼓動は早鐘を打つ。
「今さら何を言っているんだ、さっきエスカレーターにも乗ったし、それに春は四階から飛び降りようとしていたじゃないか」
「別に飛び降りようとしていたわけじゃないし、あのときは夢中だったから……」
「じゃあ、今も夢中になればいい。それに事故確率はあのときよりは遙かに低い、ほとんどゼロだ」
「正論ばっかり」
「事実だよ」
「夢中って何に夢中になれば……」
「なに?」
「……ばか」
「八つ当たりがひどいよ。近くを見たくないならなるべく遠くを見ていればいい、相対的に景色における高さの影響を受けにくくなる」
「別にだから、近くを見たくないってわけじゃ……。だから、ばか」
ひどいのはどっちだ、と言いたい気持ちをぐっと飲み込む。わずかに流れる重たい沈黙。でも彼にとっては、軽い沈黙でしかないだろう。
「大丈夫?」
「うん、うん」
気遣う彼に生返事をしてしまう。
結局、床面と彼の顔の間辺りをふわふわと焦点を定めるでもなく視線を泳がせている。次第に昔のことがフラッシュバックしてくる。そもそもどうして私は高いところが苦手だったのか、それは何をしたからなのか。
空が近くなって、酸素が薄くなって、息が苦しくなる。
本当は影響が出るほどの高さじゃないことはわかっている。
わかっているのと、思い込んでしまうのは別物だ。
「私ね、中学のときにね……」
「杏さん、それは言わなくていい」
彼が私を制する。
それが彼の優しさだ。
だから、私は前に進めない。
そして、そうやって私は私に言い訳をして、他人に責任を被せて、逃げようとする。
でも、それはやっぱり、逃げでしかないのだ。いつか積もり積もって、押しつぶされてしまう前に、吐き出せるものは吐き出してしまわないといけない。
「きれいな空だった、本当にきれいな空だったんだよ」
「そう」
「もしかしたら、肩から翼が生えて、自由に飛べるじゃないかって思っちゃうくらい」
それだけで、私が何をしたか、彼には伝わるだろう。伝わってしまうだろう。
「でも、やっぱり、人間って飛べないんだよね」
「もちろん、人間は飛べない。だから、飛行機を発明した」
見えない彼は、この当たり前の現実にうなずいたのだろうか。
「飛ぶのにも失敗して、落ちるのにも失敗して、ベッドで目が覚めて、ナイフで……」
そうだ。
これが、彼の言うところの『事実』だ。
校舎の屋上から飛び降り自殺を図り、『失敗』してしまった私は、担ぎ込まれた病院で錯乱し、果物ナイフで自分の左手首を切った。
「でもそうしなきゃ、今の私はなかったんだよね。ここに来ることも、みんなに、ポチに会うこともなかった」
それから昏睡状態になった私は、環境を変えるため、中学卒業とともに母親の地元であったここに治療という名目で引っ越してきた。
「それは、良いことだったのかな、良くないことだったのかな」
ロッテの話を聞いてから、私はずっと考えていた。
たぶん、それは杏が決めることだ、という言葉を期待して、私は息を止める。
「
「え?」
「僕らは、一秒後には生きているだろう。もちろん、今現在の状態を生きている、と定義すれば、の話だけど。一秒後には生きているのだから、二秒後にもきっと生きているだろう、と考える。二秒後も生きているのだから、たかだか三秒後にも生きているのだと思ってしまう。そうしているうち、自分は永遠にn秒後も生きているのではないかと思ってしまう」
「……でもそれって」
「そうだ。ただの錯覚だ。どこかのn秒後に、僕らは死んでしまう」
彼は『死ぬ』とはっきり表現した。
「冷静に考えれば単純な話なんだ。アキレスと亀を持ち出すまでも、永遠に半分の距離を飛ぶ矢を持ち出すまでもない、パラドックスですらない。だけど、僕たちは、往々にして、『死』という存在から逃げようとする意識が働いて、こんな単純なことすら忘れてしまう。『今日』が永遠になんて続かないことをすっかり頭の脇に寄せてしまって、目の前の一見大事に見える、簡単なものに目を奪われてしまう。特に僕たちみたいな『まだまだ成長過程』だなんて思い込んでいる年頃ならなおさらだ」
ぼそりぼそりと何か取り憑かれたような、いつもの調子で続ける。
「だけど、杏さんは『それ』を知っている。それは他の人にはないものだ。得ようと思っても、そう易々と手に入るものではない。言葉通り、『死を賭して』君は理解した。それが幸せだなんて僕は断言するつもりは当然ないけれど、それを無理矢理忘れる必要も、必要以上に恐れる必要もない」
「うん」
私は曖昧にうなずく。
これは彼なりの優しさなのだろう。
慰めなのだろう。
「ユートも」
「さあね」
知っているの、という疑問を彼はかわした。
沈黙に耐えきれない私が思い出しながら言う。
「さっきの二人、大丈夫かな?」
「二人?」
「ほら、ドームのところでケンカしてた」
アクリルのドームのところにいた少し年上の二人の男女だ。
「ケンカ?」
「してたじゃない。二人とも何か大きく手を振って。何を言っているのかは遠くて聞こえなかったけど」
「ああ、あれね、ケンカなんかしてないよ。むしろ仲良さそうだったじゃないか」
「え、でも」
「ほら、こんな風にしていたんだろ?」
彼は男の人がしていたように左手の甲を上にして、その上で右手をなぞるようにした。
「そうそう」
「オーバーだったとは思うけどね」
「何が?」
「手話だよ」
「何?」
「『愛してる』」
「え、え、え」
突然の告白に頭が真っ白になる。
「だから、手話だよ」
「ああ、ああ、そうだったね」
取り乱しそうになるのを抑えて、彼に向き直す。
「たぶん、男の人が覚えたてなんじゃないかな。少しぎこちなかったし、唇も大げさに動かしていた。習ってばかりで、使ってみたかったんじゃないかな、彼女に。彼女はこうしていただろう?」
今度は女の人がしていた動きをする。右手で自分の左肩と右肩を交互に叩いた。
「そうそう」
「『大丈夫』っていう意味だよ」
「ああ、そうなんだ」
「だから、ケンカをしていたわけじゃない。ケンカの定義にもよるけど」
二人はどちらかといえば、痴話ゲンカというよりものろけていただけだったのだろう。
「手話はれっきとした言語だからね、同じ手話を使う人からしたら『うるさい』と思うのかもしれないけど」
「ポチって手話も詳しいんだ」
「そうだな、ナバホ語よりは得意だよ。ロッテはナバホ語もわかると思うけど」
「何それ」
「ジョークだ、忘れて」
右手を顔の前で扇ぐように振る。ジョークをかき消すためか、それとも手話としての意味があるのかもしれない。
「くらげ」
「くらげ?」
「そう、くらげだ。僕はくらげになりたかった」
「どうして?」
「どうしてって、くらげは自由だからさ。さ、もう着いたよ」
彼は水族館の中とは反対のようなことを言った。
出発のときと同じく、ガタンと揺れてゴンドラが止まった。
「よいしょっと」
私と彼が立ち上がる。先に降りた彼に、馬車を降りるお姫様のように私の手を引かれた。
次のゴンドラからはリンゴさんと桂花も降りてきた。二人ともにこやかな表情をしている。何か言いたげなのは明白だった。
「どうだったにゃ?」
「高かったですね」
ポチが無難な受け答えをした。
「杏ちゃんは?」
「高かったです」
私もポチと同じ返しをする。
「仲がよろしいこと」
時代がかかった言い回しで、作り物の仕草で、リンゴさんは私たちに言う。それに対してポチはこともなげに応える。それがあまりに当たり前で、私が下を向いてしまうのも忘れてしまったほどだ。
「そうですよ、知らなかったんですか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます