二日目「分割選択について」③
「おっ、おっ、おっ」
「ロッテ、慌てないで」
ポチの注意も聞かず、ロッテが舗装されていない細い急な坂道を下っていく。カーブを過ぎて、ロッテが声をあげる。
「海じゃー!」
眼下に広がるのは砂浜と岩に囲まれた海だ。春に私とポチが来た場所でもある。
チキウ岬を後にした私達は、その後この間の日曜に行った白鳥大橋まで行き、ソフトクリームを食べた。午後になり、北条先生と別れ、ロッテが海に触りたいと言ったので近所の砂浜まで連れてきた。
「ドイツに海はないの?」
「海なー、北にあるけどそんなにわたしは行かんなー、大抵研究所から出ることないからなー」
コンビニでプラスチックのバケツとシャベルの砂遊びセットをリンゴさんに買ってもらったロッテが先頭に立って走って行く。午後になっているからか、海水浴客はまばらだった。
「杏さんが昨日メールで言ってたからね」
「天気が良かったら、だけど」
「にゃはは、だから杏ちゃんは昨日お風呂が長かった……ぐぎゃあ」
「殴りますよ?」
「言うの遅い……」
叩かれた背中をリンゴさんがさすっている。微妙に手が届いていない。余計なことばかり言う人だ。
「どうしてリンゴさん、水着を持ってきているんですか?」
「用意がいい、それが私」
「そうですか」
リンゴさんはどうやら家出のスポーツバッグに自前の水着を忍ばせていたらしく、それを着込んでいる。家から海が近いので上着を着ていれば水着でそのまま直行しても誰に咎められることもないのだ。
しかし。
見えないため息をつく。
リンゴさんと並んでしまうと、とても辛い気持ちになる。
リンゴさん、猫背で背中が丸いのに、私との差は歴然としている。なぜあの栄養が私には回ってこないのだ。
一方ロッテとポチは普段着のままだ。
「ポチは?」
「いや、いい」
「そう」
「青年、杏ちゃんの水着姿はどうかな?」
「ちょ、そういうのやめてください!」
リンゴさんがはやし立てた。
「特にコメントすることはありません」
対するポチはいたって無関心で平静だった。
「突入じゃー」
ロッテが走り出す。
「あれっ」
砂につまずいたロッテがその場でぼてっと前に倒れた。音もそれほどしなかったので痛くはないだろう。
「どうしたのー」
笑ってすませようとした私の横をポチが走って行く。
「大丈夫ロッテ?」
ロッテの体を優しく起こし、顔についた砂を払う。
「転んだんじゃ」
「だから無理しちゃダメだってあれほど」
「何でもないんじゃ。おにいちゃんは心配しすぎなんじゃ」
「無理しないでね」
「わかっとるーじゃ。よしやるぞ、あんず」
ふん、と鼻息を荒立ててロッテが直立する。
「え、何を?」
「穴を掘るんじゃ」
「え?」
シャベルを持ったロッテが真顔で言う。
「掘らないんじゃ?」
「掘ってもいいけど……。掘ってどうするの?」
「どうする……? 掘るは掘るじゃが? 掘るために掘るんじゃが?」
何を変なこと言っているのか、という顔で私を見つめ返してくる。
え、これ、私がおかしいの。
「確かに、あんずの言うように、『穴を掘る』という言葉に対して、砂を掘った結果が穴なのであって、穴を掘っているわけではないので不適切である、という考え方もあるんじゃ。これは日本語では結果の『を』と呼ばれるものじゃな。『お湯を沸かす』の『を』と同じ考えじゃな。いやはや日本語は難しいものじゃ」
そんな難しいこと言ってないけど。
ロッテが語学の天才であることをすっかり忘れていた。
脇でシートを広げていたポチが感心している。日本語の説明のことかと思っていたら、どうやら違うらしい。
「ドイツ人は砂浜に来ると砂を掘りたくなる、という噂を聞いたことがあるけど、まさか本当に掘りたくなるとは……。遺伝子レベルで刷り込まれているのか。塹壕でも作る気なのか」
「なんじゃその噂は。掘りたくなるのは人間としての義務であろう」
「義務」
「そう、義務じゃ。さてあんず、掘るのじゃ」
「う、うん」
「ついでに余った砂でリンゴを埋めよう」
「それなら手伝う」
「なんでにゃ?」
唐突に名前が出て生き埋めの対象になったリンゴさんが首を傾げる。
「あんずの方が埋めやすいんじゃが」
「ロッテ、どういう意味?」
「体積的な問題じゃ」
「にゃるほど。体積的な問題なら仕方ないにゃ」
「二人とも!」
少し落ち着いてから、私はロッテの宣言通り、砂を掘るのを手伝い、横たわっているリンゴさんに砂をかけていった。砂はなるべく均一に、できるだけ上層部がフラットになるようにかける。
しばらくそうして遊んだ後で、リンゴさんとロッテがビーチボールを持って波の方に向かっていった。
レジャーシートを敷いて、座る。風は肌寒い。水着になる前に着ていた薄手のパーカーを羽織る。海に来てまでなんだけど、あの海水、絶対冷たい。あとで足を入れるだけにしておこう。
ぼんやりと意識を飛ばしながら、そばに落ちていた小さな貝殻を拾い、一つ、二つと並べていく。
十二個揃ったところで声をかけられた。
「何しているの?」
どさっとポチが横に座り、貝殻を見ている。
「ああ、ええっと」
私は問題の概要を話した。ポチのその間、聞いているのかどうかもわからない顔で、並んでいる貝殻を見ていた。
「どう?」
「十二枚のコインだ」
「え?」
「数学パズルとしては割りとメジャーなものだよ。偽物が軽いか重いかはっきりしているのが基礎編で、これが応用編かな」
「ということは」
問題としては有名で、そしてそのことをポチが知っている。
「僕は答えを知っているよ。教えてほしい?」
「うん」
「いいけど、僕にメリットがないな」
「何か欲しいわけ?」
「そういうわけじゃない」
まるで、そういうわけ、なように言った。
「一ノ瀬先輩みたい……」
ポチが明らかにむっとして私を見た。
「そういう言い方は良くないな」
ポチが不平を漏らす。情報には対価を求める一ノ瀬先輩なら言いそうなことだ。私にはポチが一ノ瀬先輩を嫌っているように見える。そのせいか、同一視されるのも嫌っている。
そのままポチが視線を下に動かす。ちょうど私の胸元辺りで止まった。
「見んな馬鹿!」
パーカーで胸を隠しジッパーを上げる。
「理不尽過ぎるだろ……」
「馬鹿馬鹿馬鹿! 最悪!」
「酷い話だ。いい? 解説するよ」
「どうぞ勝手に」
「え、これ僕が説明したがっている設定なの? 杏さんが聞きたがっているんじゃないの?」
「いいから早く」
「傲慢だなあ」
そう言いながら、ポチは貝殻をグループに分けていく。
「これはね、最初のグルーピングが肝心なんだ、というか、それがすべてなんだけどね、まず、コインを四つずつ、三つのグループに分ける。これをAグループ、Bグループ、Cグループとしよう」
「二つじゃないんだ」
「基礎編はそれでも大丈夫、でも応用編は三つに分ける。そして、二つのグループをそれぞれ天秤に乗せる」
ポチが指で天秤の土台と秤を砂浜に描き、秤に貝殻を四つずつ置く。
「一手目でルートが二つに分かれるから、そこで場合分けをしよう」
ポチが好きな言葉、場合分けだ。
「一手目、両方が釣り合っている状態。つまり?」
私に言葉を促す。
「残りの四つに偽物がある」
計らなかったCグループに偽物がある、ということだ。
「そう、だから、裏を返せば、一手目で計った八枚、AグループとBグループは、本物、ということになる。これが分かれば、ほとんど正解したようなものなんだけど、二手目、片方にCグループから三枚、そうだな、C1、C2、C3としよう」
「三枚なんだ」
「二枚でもできるけど、三枚がスタンダードかな」
どこの分野でスタンダードなんだろう。
左側の貝殻を砂絵の皿からよけて、新しい貝殻を三つ置く。
「もう片方は?」
「どれでもいいから、さっき計った本物の三枚を載せる」
右側の貝殻は、一つだけ皿からよけた。
「また使うんだ」
「そう、『本物』の証明が取れているからね。これが釣り合っていれば、一度も計らなかった一枚、C4が偽物になる。重いか軽いは関係ない。釣り合わなかったら、左側の皿がどちらかに振れる。三手目は、C1とC2を比べる。釣り合えば、C3が偽物になるし、釣り合わなければC1かC2が偽物になる」
「ん、ちょっと待って、偽物が重いかどうかはわからないんじゃないの?」
「いいや、二手目で偽物が重いか軽いかははっきりしているわけだから、傾きで決めればいい」
「なるほど」
「で、これ、どうしたの? なんかの懸賞?」
ポチが不審な顔で聞いてくる。私がこういった数学パズル的なものに興味を示さないことは知っているだろう。
「えーと、なんか、雑誌に載っていたから」
夢の中で問われた、と言っても意味がないので、適当にごまかすことにした。
「ふーん、さて、これが場合分けその一、一手目で釣り合った場合だ。釣り合わなかった場合、AグループかBグループに偽物があるわけなんだけど、これが少々厄介」
手のひらで砂絵を一度なぞって消し、もう一度描く。皿は左側が下に傾いている。そちらが重かったら、という意味なのだろう。その砂絵の皿に、四枚ずつ八枚の貝殻を置いた。
「まだ八枚の中のどれが偽物なのか、全く見当がつかない。これも一つの情報ではあるけれど、もう一つ、僕らが知っていることがある。分かる?」
「うん、えっと、Cグループはみんな本物」
「その通り、偽物が一枚という情報から、触れずにしてCの四枚が本物であることが分かった。今度はこっちを使う。ただし、ちょっと変則的な方法で」
ポチは左側のAグループの四枚から二枚をよけて、その二枚をBグループをよけて空にした右側に置いた。
「左側にはA1、A2が、右側にはA3、A4があるとしよう。Aグループに偽物があればどちらかに傾くんだけど、傾いたからといってどちらが偽物かは分からないし、釣りあたらBグループであることは分かるけど、手数が足りなくなる。じゃあ、どうするかというと」
心底楽しそうに説明をする。説明されがいがある。
ポチがよけていた貝殻を掴む。
「左側にはB1を、右側にはC1を足す。これが二手目の正解」
二つの貝殻をそれぞれ一つずつ皿に載せた。
「更に場合分け、二手目、それでも釣り合ったら、残りのB2から4の中に偽物がある。あと一手でさっき説明したのと同じ、B2とB3を比べる。それだけでいい、なぜなら」
「でも、偽物が重いか軽いかどうかわからないんじゃないの?」
前提でその条件があったからこそ、問題は難しくなっているのだ。
「一手目の結果を思い出すんだ。二手目で釣り合ったAグループ四枚全部が本物で、一手目で重い方に傾いたのなら偽物は『軽い』はずで、反対に一手目で軽い方に傾いたのなら偽物は『重い』はずなんだ」
「そっか。それなら、B2とB3でどっちかが傾けば偽物が分かって、釣り合っていればB4が偽物になるんだ」
「そう。それでA1、A2、B1とA3、A4、C1が釣り合わなかったら、A1から4かB1が偽物になる。残すは一手。
B1が重い偽物なら、一手目で右に傾いて、二手目は左に傾く。
軽い偽物ならその逆。
A1かA2が重い偽物なら、一手目で左に傾いて、二手目も左に傾く。
軽い偽物ならその逆。
A3かA4が重い偽物なら一手目が左、二手目が右。
軽い偽物なら一手目が右、二手目が左になる。
つまり、ね、言い換えると
右、左で重いB1か軽いA3かA4
右、右で軽いA1かA2
左、右で軽いB1か重いA3かA4
左、左で重いA1かA2
ということになる。それぞれの条件で、重い軽いは分かっているから、三枚あるところでも、右、左ならA3とA4で比べばいいし、左、右なら、同じくA3とA4で比べればいい。釣り合えば残ったB1が偽物だ」
途中、砂に棒で図まで描きながら説明をした。
「こんなところかな、理解した?」
「ありがと」
「いや、他人に説明することで理解が深まる、ということもある。少なくとも、今ので、僕が正しく理解していることが判明した。自分が理解しているかどうか、これは人に説明をするか試験を受けるしかない。自分が何を知っているか、本当に知っていると言えるのか、実はこれはとても難しいんだ。分かった気になっている、というやつだね」
長々とそんなことを言われても。
「素直じゃない」
「そう、杏さんよりは素直じゃない自覚はあるね」
「おにいちゃん、おにいちゃん、顔じゃ! 顔があるんじゃ!」
波打ち際から戻ってきたロッテが崖の上を指さす。
「ロッテもそう思う?」
「思う思う! しかも男じゃ」
「さすがロッテだなあ」
「ゲシュタルト認知じゃ。人間は点が三つあると人の顔に見えるというやつじゃな」
「うん、そこまでは求めていないけど」
ポチが苦笑いをする。きっと自分が言いたかったのだろう。
「あっちは何があるんじゃ?」
砂浜の隅の岩がゴロゴロとしているエリアを指す。人の顔をした崖の岩の下だ。遊泳区域ではないらしく、ここよりもさらに人は少ない。
「カニとかがいるよ」
「カニ!? 行く! 行く!」
「仕方ないな、僕がついて行くよ。ちょっと行ってくる」
「うん」
ポチがロッテの左手をつなぐ。ロッテの右手にはバケツが揺れていた。
二人の姿が小さくなっていくのを確認して、私はリンゴさんに話しかける。
「リンゴさん、ロッテって」
「んにゃ、私も同じことを思った」
「そうですか」
「まあ、考えてもしゃーないね、遊ぼうか」
それから私とリンゴさんは押し寄せる波を足で蹴飛ばしたり、相手の足を掬って尻餅をつかせたり、意味のない時間を過ごしていた。
リンゴさんは一人で「これが青春だ」と周りの目を気にすることもなく叫んでいた。
「行ってきたんじゃ!」
少し経ってロッテが息を切らせて戻ってきた。
「どれどれ? ロッテ、カニは?」
彼女の持つバケツには何も入っていなかった。
「カニは還した」
「そうなの?」
「他人の命の責任は持てんから」
「そ、そう」
大人びた物言いに気圧されて、カニは人じゃないけど、とは言わなかった。
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