一日目「来訪する天使について」④
「うおー! うおー! カッツ! カッツ!」
家の中で少女と二人きり。
正確には、少女はリビングで私の飼い猫であるコタローを撫で回しているので、二人と一匹。
「ぶにゃ」
お腹を押さえるたびに、不可解なうめき声をコタローがあげる。
「丸い! 丸い!」
体重九キロに到達したスコティッシュフォールドの雄猫であるコタローは、一度見たら忘れられないと言われるほど球体に近づいている。当の本猫は一切その重みを気にしていないようで、他の猫と同じくらいには飛び跳ね回っている。
「猫、好きなの?」
「好き! 超好き! 研究所にいない! ふわふわもちもち!」
「ねえ、シャルロッテちゃん」
「ロッテでいいんじゃ」
しかめっ面のコタローを転がして遊んでいる少女が返した。コタロー、初対面なんだからもう少し警戒したらどうだ。金色の髪先がコタローにぶつかるたびにコタローが前足を出して払っている。
反対側に住んでいるリンゴさん以外と最寄りの駅まで移動し、ロッテのトランクケークをポチに運んでもらって、家までたどり着いた。
ポチが私の家まで来たのは初めてである。もちろん、中には入れていない。あとで手伝いに来ようか、と聞かれたけど断っておいた。横にいた紫桐さんの視線が怖かったからではない。さっきのロッテの失言のせいで何かステージが一個移動した感じがする。夏休みのうちにうやむやになってくれるといいんだけど。
「わかった、ロッテ」
「なんじゃ、おにいちゃんの恋人候補」
「あ、あのねえ」
直球で投げ込んでくるな、この子供。
「違うんじゃ?」
「だから」
「違わないんじゃ?」
ぐいぐい押してくる子供だ。子供であることを最大限に利用しようとしている。ポチから天才と紹介されている以上、それがそのまま子供らしい、とすることはできない。
「もういい」
「怒ったんじゃ?」
「怒った」
「すまんのう、わたしはせりな派閥じゃから」
派閥って言うな。
「申し訳なさそうに言われても……」
「ところで、お前のことはなんて呼べばいいんじゃ?」
「お前って……。杏でいいよ」
「わかった、あんずじゃな。あんずはなんでおにいちゃんのことをポチって呼ぶんじゃ? ポチとはなんじゃ?」
「ああ、えっと、ポチは、日本でよくある犬の名前だよ。ポチ、犬っぽいから」
「犬? おにいちゃんが? なるほど、なるほど、あんずにはおにいちゃんが犬に見えるのかー」
感心しているような、馬鹿にしているような顔をしている。
「まあえーか」
「ポチとどこで知り合ったの?」
「おにいちゃんの父上には生前ドイツで随分とお世話になった」
「え、そうなの」
ポチの両親について、まだ私は何も聞いていない。一人暮らしをしている理由もだ。東京に兄がいる、ということだけは知っている。生前、ということはすでに故人なのだろう。
「父上はわたしに優しくしてくれてなー、よく日本の映画を見せてくれたんじゃ。日本語はそれで大体覚えたんじゃ」
「ポチのお父さんも映画好きだったんだね」
「なんか、こう、ヤパニッシュなマフィアが頑張る映画じゃ」
そっち系か。
「ぶにゃー! ぶにゃー!」
ロッテの手から逃れたコタローがキッチンに近づいて私達に鳴き始める。
「おお! なんじゃ!」
「もう六時だからご飯の時間だね、六時になるとお腹が空いて鳴き出すんだよ」
「すごいんじゃ……」
「あ、そうだ。夕飯どうしよう。ロッテ、何が食べたい? 何でも食べられる?」
四歳も年下の少女、しかもドイツ育ち、何を作っていいかわからない。
「人間が食べられるものは何でも食べられる。特にハンバーグとかチーズ入りハンバーグとかおろししそハンバーグとかが好きじゃ」
「最後のは日本独特のヤツでしょ……」
全部ハンバーグだ。前口上、完全に余計だ。
「まあいいか、合挽肉もあるし、うん、大根としそもあるからハンバーグ、一緒に作ろうか」
「おお! マジか! あんず、最高じゃ! あんず派閥に鞍替えじゃ!」
「いいよそこまでしなくて……」
簡単に派閥は入れ替われるんだ。
「とりあえず準備をしよう。ロッテも手伝ってくれる?」
「もちのろんー」
キッチンに行こうとしたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう。宅配便とかもないと思ってたんだけど、ちょっと見てくるね」
「うん」
通販で買ったものも今はないはず。お父さんが買った何かがあるかもしれない。東京にいた頃では考えられないけど、私はインターホンに
玄関を開け、私は絶句した。
「えへへ、来ちゃった」
「あ、あの」
「しばらくかくまって、ね?」
スポーツバッグを持った彼女は、いつものように笑顔を浮かべて私を見ている。
「どういうことですか、リンゴさん」
玄関の前に立っていたリンゴさんが、バッグを持ち上げてわざとらしく小首を傾げる。
「家出してきちゃった」
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