一日目「来訪する天使について」③
「もてなすって」
彼女がようやくこちらに気がついた、という顔で私を見る。
澄んだ青い瞳が私を掴む。
不躾に私に向かって指をさした。
「おにいちゃん、これ、誰じゃ? 見たことないんじゃ。わたし忘れている? 記憶力には自信がある方じゃが、若年性健忘症?」
「これって」
見た目日本人でもなさそうなのに、やたらと専門用語を知っている少女だ。そうなると、『これ』というのが言い間違いではなく意図的なものにも思えてくる。
「いいや、ロッテは初めてだよ」
「そうか、良かった。で、誰じゃ? まさかおにいちゃんの恋人?」
「ば、そんなわけないじゃない!」
「違うよ、ロッテ」
私とポチがそれぞれ否定する。
「ふうん、そう。じゃ、『まだ』せりながおにいちゃんの恋人なんじゃ?」
「あ……」
声を出してしまったのは誰だろう。
私か、ポチか、それとも紫桐さんか。
それを察したのか、少女が硬直する。
「言ってはいけないことを言ってしまった空気を感じるんじゃ……」
ばつが悪そうにしている。
「ああ、いや、大丈夫だよ」
「大丈夫ってどういうこと?」
ポチに食ってかかったのは紫桐さんだ。
「あ、うん、ごめん、そういうんじゃなくて」
「なんで謝るの? 謝るようなことしたの?」
いつもの冷たい視線がさらに極寒になってポチに突き刺さっている。八月だというのに冷や汗が出てきそう。
「ちょっと待って芹菜、ここは落ち着いて」
四月に一ノ瀬先輩や桂花に聞いた過去の話や、あるいはポチと紫桐さんの話を盗み聴きしていて薄々は感じていた、ポチにははぐらかされてしまった事実がはっきりと他者によって言葉にされてしまった。
ショック?
いいや、私はショックなんて受けていない。
なんのために私が?
私がショックを受ける理由なんて関係ない。
だから、この心臓の痛みは、このポチと紫桐さんの間にある気まずい空気のせいだ、そうに違いない。
「あ、うう」
失言をしてしまった少女は私と同じように立ち尽くしている。
「もう我慢ならん」
そのとき、私の横を疾走していく影があった。まもなくして少女の叫び声が聞こえた。
「ぎょお!」
「うへへへ、かわいいのうかわいいのう」
「誰? というか何! 見えない! むにゃむにゃしたやつで前が見えない! 助けて! 助けておにいちゃん吸われる!」
「うわあ……」
少女にまとわりついていたのはリンゴさんだった。彼女は少女を正面から抱きしめタコのように両手をくねくねさせながらまさぐっている。少女はリンゴさんのふくよかな胸に顔をうずめていているせいで周りが見えなくなっている。
「き、金髪幼女じゃ、眼福眼福」
眼福どころか、全身を使ってくっついている。
「良いのう、良いのう。食べちゃいたいのう」
鼻息を荒くしてリンゴさんがベタベタしている。
「ぐわーぐわー」
少女は赤髪の魔の手から抜け出そうともがいているが、体格が違いすぎて脱出できそうもない。
「キモい……」
これはもう犯罪者として通報した方が世の中の治安のために良いのではないだろうか。
「たすけ……」
ダメだ、このままだと少女がリンゴさんに取り込まれていく。リンゴさんの背後に立ち、少し背伸びをして羽交い締めにする。
「あ、こら」
「こらじゃありません。リンゴさん、いい加減にしてください」
犯罪者予備軍を何とか引き剥がした。
少女はぜーはーと呼吸をしている。
「危うくもっと光を、って言うところじゃった」
「良かった。天国が見えた」
空を見上げてリンゴさんが恍惚とした表情をしている。
「監獄でも見てきた方が良かったんじゃ」
「これで捕まるなら本望だ」
完全に目がおかしくなっている。
「大丈夫、ロッテ?」
「地獄を見た」
ポチが少女の肩を抑えている。
リンゴさんの剣幕に紫桐さんもあっけにとられているようだ。
そうか、私の知っている限りでは紫桐さんはリンゴさんとは面識がないんだった。確かに、このテンションを見てしまうと外野はどうしてよいのか戸惑ってしまう。私も数ヶ月でようやく突っ込みができるようになった。
「え、えーと、ロッテ、ちょっと遅いけど、こっちがクラスメイトの藤元杏さん」
クラスメイトであることの私が彼女の前で挨拶をする。
「こんにちは」
「で、これが先輩の佐々木凛子さん」
「こんにちは、リンゴって呼んでね。お姉さんと仲良くしようねうへへへ。ところで青年、今『これ』って言ったね?」
「それで、こっちが」
リンゴさんの無視をしつつポチが紹介を続けようとしたところで、少女がサイドに伸びた髪を交互に揺らして言った。
「自分で言う。わたしはシャルロッテ、シャルロッテ=ヘルツベルク。ロッテでいいんじゃ。十歳じゃ。ドイツのライプツィヒから来たんじゃ」
「日本語、上手いね。誰かに習ったの? それとも学校? ドイツの学校ってどうなっているんだっけ。あ、えっと、さっき研究所って」
語尾の『じゃ』っていうのがすごく気になるけど、意思疎通は完璧に出来ている。ドイツだから、ドイツ語が母語なのだろうか。
「ああ、うん、僕が言っちゃったのか」
「大丈夫、それくらいで怒られたりしないんじゃ。わたしは学校には通ってはいないんじゃ。わたしの所属はマックス・プランク進化人類学研究所特別研究員じゃ」
「え、マックス……」
「ドイツにある研究所だよ、ロッテは語学の天才なんだ」
「え!」
ポチが付け加える。
「天才ではない。不運な才能、これのせいで学校に通うこともままならん」
見た目はただの子供にしか見えない少女が誇るでもなくさらりと言い放つ。
「まあ、おしゃべりはその辺にしておいて、時間はあるんだから落ち着いてからにして、ロッテ、荷物をホテルまで運ぶよ」
「はい? ホテル?」
ロッテが顎に手を当てて空を見る。
「だから、泊まるところまで連れて行くよ」
「泊まるところ?」
言い直したポチに彼女は再び疑問符を顔に浮かべた。
「そうだよロッテ、いきなり来て、ホテルの予約は?」
「してないんじゃ?」
「してないって、どうするの」
「お兄ちゃん家があるんじゃ?」
とんでもないことを言い出した。
「ダメ!」
「なんでじゃ? おにいちゃん今一人暮らしなんじゃろ? 部屋余っているんじゃろ?」
声を張り上げた紫桐さんにロッテが質問をたたみかける。
「それは……」
紫桐さんも感情に任せて言ってしまったみたいで後の言葉を継げそうになかった。
「おにいちゃんが私に何かしないと思うんじゃが。しない?」
「しないよ」
面倒くさそうにポチが否定をする。さすがにポチといえども、そんなことをするとは思えない。ポチにそういった趣味があるとは今のところ思っていない。
しかし、小さい繋がりで同じ執行部員の柏木さんに甘いところを見ると、もしかしたら。
「こんなにかわいいかわいい妹が同じ屋根の下で、ともすればベッドに潜り込んだり、一緒にお風呂に入ったりするかもしれないのに、なにもしないんじゃ?」
いきなり具体的になった。
「むしろロッテはなんでそんなことをするんだ」
「年頃の女の子じゃし?」
「年頃の女の子はそんなことしないでしょ。しないよね?」
ポチが突然並んでいた私と紫桐さんの方を見る。
「馬鹿じゃないの! するわけないでしょ!」
「しないかな」
「するかもにゃ」
「ややこしくなるのでリンゴさんは混ざらないでください!」
「にゃはー」
薄ら笑いを浮かべるリンゴさんの脳天にチョップを入れる。
「ダメなものはダメ」
「せりなケチじゃのー。じゃあ、せりなの家に泊めてくれるんじゃ?」
「うちは親戚が来ているから、部屋が空いていない」
「今からホテルは?」
この街は北海道といえどもメインは観光ではない。夏の北海道ということで観光客でごった返していることもない。しらみつぶしに探してみれば空いているホテルが見つかるかもしれない。私の提案に、ポチは難色を示していた。
「うーん、この年齢で、外国人で、一人。どうかなあ、泊めてくれるホテルあるかなあ」
「厳しいにゃろね」
なぜか訳知り顔のリンゴさん。
「お金を持ってないんじゃ」
「本当に飛び出してきたのか……」
それを聞いて犯罪者の顔をしてリンゴさんが言う。
「うへへへ、うちに泊めてあげたいけど、うちはうちでちょっと今は無理なんだにゃあ」
相当に下品な顔つきだ。少女の貞操のためにはリンゴさんに預けるよりはポチに預けた方がまだ安心できる。
「そうかあ、となると」
ポチが私を見る。紫桐さん、少女、リンゴさんもあわせて私を見る。
「ちょ、ちょっと待って!」
「そういうことになるにゃあ」
どうして私が見ず知らずの少女を泊めないといけないんだ。
「しかたあるまい」
しかも偉そうな少女だ。
「頼むよ杏さん」
「頼まれたって……」
何とか断る方便を考えないと。
「だって、うちにはお父さんが……。あ、電話。お父さん、何?」
着信画面に父と表示されているのを確認して通話ボタンを押す。普段父が電話をしてくることは少ない。緊急の用件があるときくらいだ。
『会社のトラブルでこれから東京に行く。一週間は戻らない』
父が冷静かつ端的に状況を説明する。
「え、え、お兄ちゃんは?」
父の会社は東京にあり、父自身が社長になっているが、実質的にはお兄ちゃんがとりまとめをしている。
『あいつは出張で日本にいない。聞いてないのか?』
「うん、聞いてないけど」
『そういうことだ留守にするからコタローの世話を頼む。それとも今から準備して東京についてくるか? コタローをペットホテルに預けることにあるが』
「……ううん、いい。行ってらっしゃい、みんなによろしく」
電話を切り、はあーと長い長いため息をつく。
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