一日目「来訪する天使について」

一日目「来訪する天使について」①

「暑い……」

 イスの背もたれに体を預け、彼がだらしなく仰向けになっている。

「そう? 別に暑くないじゃない」

「よくそんなの着るなあ」

 彼、ポチが私に目をやることなく言った。

「涼しいくらいだし」

 私は半袖の夏服の上からカーディガンを着ている。

「東京育ちは違うなあ。夏の東京なんて一生行きたくないね」

 彼が嘆息した。

 彼の名前は城山口優斗、通称は私がつけた『ポチ』だ。

 八月の頭、夏休みも少し過ぎ、季節の上では夏真っ盛りだ。外に出れば今日は雲一つない晴天に恵まれているだろう。この部屋は黒い遮光カーテンで閉ざされているので、人工の明かりで照らされ、外の熱は伝わってこない。

 東京生まれ、東京育ちの私にしてみれば、初めての北海道の夏だった。

 もちろん北海道のすべての地域がこうだというつもりはないけれど、東京に比べれば肌にまとわりつくような湿気もなければ、じりじりと焼く日差しもない、非常に過ごしやすい場所だ。むしろ肌寒い。

「昨日の花火が遠い出来事のようだ」

 昨日、私は彼と私達が所属している生徒会執行部の面々と夏祭りに行っていた。今日は月曜日で夏休みは続いているのだけど、宿題は山ほどあるので、こうして学校に来て片付けているのだ。先週までは夏期講習があったのに、せわしない夏休みである。

「というかにゃあ、なんで二人がいるのかにゃあ」

 テーブルの向かいにいた彼女がぶつくさ言う。

「簡単な話ですよ。ここにはエアコンがある。執行部にはエアコンがない。それだけです」

 ポチが人差し指を立てて答えた。

「ああ、そう」

「それとも誰かがいるのがいやなんですか?」

 呆れた顔のリンゴさんにポチが聞く。

「い、いや、そういうんじゃにゃいんだけどにゃあ。『世の中に人の来るこそうれしけれとはいふもののお前ではなし』って?」

「内田百閒ですね、誰か待っていたんですか?」

「ちがうにゃあ」

「じゃあ、原文の『世の中に人の来るこそうるさけれとはいふもののお前ではなし』でいいんですね」

「うにゅー」

 相変わらずの奇妙な語尾で言葉を濁す。

「私はエアコンなんて必要ありませんけど」

 さすが北海道、エアコンがある場所は少ないがほとんどの暑さは扇風機で何とかなる。校内でも各教室や部室にエアコンは設置されておらず、あるのは空調管理が必要そうな職員室、保健室、図書室くらいだけだ。

「にゃにゃ! ということは私に会いたいから……」

「違いますよ、ただ単にポチが……」

「ん、僕が何?」

「いや、何でもない」

 言いかけた言葉を慌てて飲み込む。喉を生暖かい唾が通る。急に名前を呼ばれたポチがぼんやりとした顔のまま首を傾ける。

「ほっほーう。そうかそうか、つまり杏ちゃんは」

「黙ってください」

 ニヤニヤしているリンゴさんの口を視線でふさぐ。当のリンゴさんは口に自分の手を当ててむにゃむにゃ言っている。わざとらしい。

「わかったにゃあ。お茶も存分に飲むにゃあ」

「あ、お構いなく」

 ポチがカップを持ち上げ、リンゴさんがポットのお茶を淹れる。

「少しはおかまってよう、これ、私の秘蔵の50グラム千円もするダージリンなんだにゃあ」

「ああ、そうなんですね、通りで美味しい」

 言われてみれば、いつも家で飲んでいる紅茶に比べて香りが際立っている。水色もきれいだ。

「ね、でしょでしょー。杏ちゃんはわかっているにゃあ」

「そう? 杏さんも何となくその気になっているだけじゃない? プラシーボ効果じゃない?」

「まったく、青年は飲ませがいがないにゃあ。あ、甘い物もあるよ、今持ってくるにゃあ」

 リンゴさんが、カウンターの奥に行き、お皿に乗った茶色いものを持ってくる。まさか電気ポットだけじゃなく、冷蔵庫もあるのではないだろうか。そうなると電気不正使用の疑いで執行部として調査をしなければいけない。なぜなら冷蔵庫は執行部の部室にないからだ。基準は執行部にある。

「お茶請けにしよう」

 お皿をテーブルに置く。

 まあ、いいか。

「何それ? どら、焼き?」

 お皿に乗っているのは三日月型の焼かれた焼き菓子だ。どら焼きを二つに折りたたんだ形にも見える。

「ああ、いや、これは中華まんじゅうだよ。東京にはない?」

「う、うーん、中華まんじゅうって、肉まんとかのことじゃないの?」

 横浜の中華街に行ったときは、肉まんのことをそう表記しているものを見かけたことがあるように思う。

「北海道ではこれを中華まんじゅうと言うんだ。中はあんこだよ」

「そうなの、結局作りはどら焼きなんだ。あれ、うーん、でも、なんか見たことがあるような……」

「ああ、うん、これは、北海道だと通夜とか、お葬式のときに出されることが多いね」

 ポチが補足をして、ようやく細い記憶の糸が繋がる。

「あ、そうか。だから。お母さんのときだ」

「うにゃ?」

 リンゴさんが右に頭を傾けた。

「あ、えっと、お母さん、ここの出身で、お葬式、あ、うん、お母さんが中学のときに病気で、それで、お葬式、こっちでやったから」

 少し前のことのはずなのに、記憶が曖昧だ。途切れ途切れに覚えていて、何をしていたかは覚えていない。お父さんの横に立って、ずっと雨が降るのを見ていた。誰と、どんな会話をしたかも全く思い出せない。私の中では、年表に書かれている歴史的事実、程度の感覚しかない。

 あまりに衝撃的な出来事があると、人は記憶を封じてしまうと先生に聞いたことがある。このことがそれに当てはまっているのだとしたら、どうして、私は私自身に起こったことはいつまでも忘れず、いつになっても夢に見るのだろう。かつて夢の中で私が私自身に言ったように、本当に許しているのだろうか。

「あ、杏ちゃん、嫌なこと思い出させてごめんね」

 思いふけっていた私を、傷心していると勘違いしたのか彼女が心配そうに声をかけてくれる。リンゴさんは普段はふわふわふにゃふにゃしているけど、他人に対する気遣いは人一倍ある方だ。そう思いたい。

「大丈夫です」

 首を左右に軽く振って返す。

「食べましょう」

「んにゃ、私はお腹いっぱいだから二人で分けな、仲良くね」

「あ、ああ、はい」

「そうだ、果物ナイフ、今ないんだったにゃあ」

「いいですよ、手で」

「そうだ、こういうとき、半分こにする方法で揉めることがあるね」

「そう?」

「いや、ここは合いの手であると言ってよ。とにかく、これを公平に分ける方法として、もっとも単純なものがある。さて、なんでしょう?」

「知らない」

「テンションひくっ。二人を『分ける側』と『選ぶ側』に分けるんだ。分ける側はなるべく選ぶ側が簡単にどちらが大きいか見分けられないように公平に分けようとするし、選ぶ側はもちろん自分が見て大きい方を選ぶ。結果的に、両者の思惑通り、公平に半分になるというわけ。覚えておくと将来役に立つよ」

「将来って?」

「うーん、将来子供が二人いたときとか?」

「な、なにそれ」

 ポチが私のぼやきを無視する。

「これは簡単な第三者が介入しない方法。むしろ第三者が介入して勝手に切り分けてしまうと、その量を巡って問題が起きてしまう。こういった複数人で一定のものを分ける方法について考えることを一般に『ケーキ分割問題』と言う。今は中華まんじゅう分割問題だけど」

 ポチは人に説明するときだけ饒舌になる癖がある。

「さあ、どっちがいい? 分ける方? 選ぶ方?」

「どっちでもいいよ」

「ノリが悪いな。じゃあ杏さんが切って」

 私が素手で中華まんじゅうを二つに割る。というか、折る。ナイフと違って、割り口は多少いびつだったものの、大体半分だと言っていいだろう。

「じゃあ、はい」

 ポチが自分が選んだ半分を取って、残りを皿に乗ったままこちらへ押す。

「ありがと」

 それを取る。皮がしっとりとしている。

「ん、でも」

 中華まんじゅうを頬張りながら考える。うん、やっぱり想像通りのどら焼きの味だ。全く想像から離れないのも珍しい。

「どっちがいいって聞かれたら、ポチ、どっちにする? 私なら選ぶ方にするけど」

「どうして?」

「だってさ、ポチの言うように、分ける方はそりゃ均等に分けようとすると努力するけど、自分の分けたいように成功するかはわからないし、それなら目測で均等かどうか選んだ方が分が良い気がするから」

 分ける能力と目で選ぶ能力、どちらが自分にあるか考えたなら、後者である人がほとんどなのではないだろうか。

 ポチが一度深くうなずいた。

「実は僕もそう思っている」

「え、そうなの?」

「うん、分けるより選択する方が苦手な人って、ああ、実際の能力はともかく苦手だと思っている人って、そういないだろうし」

「だよね」

 私の考えが通じたみたいで素直に嬉しい。

「この解決方法、良く聞くけど穴がある気がしてならないんだよなあ。どこか詭弁的というか、ごまかされているような」

 ポチはそう言いながらもぐもぐとおまんじゅうを口に入れてお茶で流し込んでいる。味わっている様子はない。甘い物に目がないのか、興味がないのかわからない。

「食べる?」

 もらった半分のおまんじゅうの半分くらいまで進めたところで、犬のような物欲しそう目で私を見ていたようだったポチに差し出す。

「ありがとう」

 ポチは右手を出して受け取った。

「お腹空いてたの?」

「いや、そういうわけじゃないんだけど、なんだろうな、甘い物が欲しい気分だったんだ。成長期かな」

「違うと思う。横に伸びるよ」

 ポチは外見ではかなり華奢だ。クラスメイトの桂花ほどではないにしても、男子だったら結構細身の方だろう。その割には私を抱えて歩けるくらいの力はある。完全文系で筋トレをしているようにも見えないし、体育を見ていても運動が得意なようにはみえなかった。

「杏さんじゃあるまいし」

「別に! 太っては! いない!」

 失礼な。むしろ痩せているくらいなのに。

「仲がよろしいこと。いいわねぇ」

「リンゴさんは今のが仲良いようにみえるんですか!」

「みえるみえる、みえるわよぅ。まだ二人って半年も一緒にいないんでしょ? もうすっかり腐れ縁みたい」

「一緒に、って」

「んにゃあ、変な意味ではないよぅ?」

「だから……。もういいから、ポチ食べて」

 これ以上彼女が余計なことを言わないうちに話を進める。

「ああ、そう。ありがたくもらうよ。もうさっきの分割の話、完全に意味がなくなっちゃったね」

 そもそも正確に分割する必要はなく、ポチが豆知識を披露したいがためにやっただけなのだから別に問題はない。

「あっ!」

 ポチが口に放り込もうとしたところで気がつく。

「ん、やっぱり食べたかった?」

「あ、いや、何でもない、食べていい」

 疑問符を浮かべたままポチがおまんじゅうを食べる。浮かんだ言葉を頭から消し去ろうとしたところで、リンゴさんがぬるりと妖怪のように背後に近づいていて私の耳元でささやく。

「間接キス」

「ばっ!」

「にゃはは、かーわいいにゃあ」

 振り返って彼女の胸元を押す。彼女の柔らかい胸の感触が十分に伝わり、反発されて手が押し返される。無駄な贅肉め。リンゴさんはくるくるとバレエの真似事みたいに回転して笑いながら離れる。

「どうしたの?」

 訝しげに私達を見るポチに向けて手を振ってうやむやにする。

「な、なんでもない!」

「あ、そう。ん、メールか」

 ポチがポケットから振動したケータイを取り出す。

「誰? 柏木さん? 紫桐さん?」

 私の嫌味に彼は文句を言いたそうな視線を送った。

「あ、違う、電話だ。なに、芹菜」

「やっぱり」

 ポチは立ち上がりドアのところまで歩き、背を向ける。図書室で電話をしていることに、リンゴさんは特にどうとも思っていないようだ。紅茶を飲みながら上の空になっている。そもそも忠実な図書局員であれば図書室でお茶を飲んでいることに怒りそうなものだ。

「うん、学校だけど。え、うん、ロッテ? あの? ないよ連絡。は、駅? なんで? ああ、うん、わかった、行く、じゃあそっちで」

 折り畳みのケータイを閉じ、これ見よがしに大きくため息をついて、「急用ができた。帰る」と言った。

「駅に行くの?」

「そうだけど、盗み聞き?」

「聞こえるように話しているのが悪い」

「ああ、そう。それで?」

「私もあっち行こうかな、駅向こうの本屋に行きたいし」

 駅を挟んだ向こう側が、一応この街で一番発展している繁華街だ。今日はいつも買っている漫画の新刊の発売日だったはず。別にポチについていきたいわけではない。

「いいけど」

「あ、私も杏ちゃんと一緒に本屋に行こうかにゃあ。図書室ももう閉めていいしー」

「じゃあ行きましょうか」

「伊東屋行くかにゃ?」

「行く! 行きます!」

 リンゴさんの提案に即答する。

 伊東屋は駅を超えたすぐ先の路地にあるたい焼き兼たこ焼き屋だ。校則では買い食いを禁止しているが、そんな校則を守る高校生などいない。

「食い意地の張った二人だなあ。さっきあれだけ甘いものを食べたっていうのに」

「甘いものは別腹だから」

「いまどきそんなこと牛でも言わない」

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