6-1

 *


 伊崎春子の家を後にしてから降りはじめた雨は次第に強さを増し、神山市内に戻ったころには本降りになっていた。住宅街には人の姿はなく、ただ大粒の雨滴が地面に叩きつけられる音だけが響いていた。

 純也は傘もささずにその家の前に立っていた。

 門扉の右脇にある石柱には、溝口と書かれた表札が掲げられている。小さな庭と駐車スペースのある平屋建ての家。二階建てだった家を、父親のために平屋にリフォームしたのだと以前に聞いたことがある。周囲の家に比べて敷地が広いのは、溝口の両親が医者だったからだろう。

 インターフォンを押してみたが反応はなかった。

 腕時計に目をやる。文字盤は十二時十七分を指していた。クリニックの昼休みは十二時から十四時までだ。溝口はいつも昼休みには一度家に帰るはずなのだが、まだ帰宅していないのだろうか。

 と、家の中からかすかな物音が聞こえた。

 純也は門扉を押し開けて中に入った。庭にあった手ごろな玉石を手に掴んで、掃き出し窓へと向かう。窓には白いカーテンがかかっており中の様子を見ることはできない。

 純也は手に持った石を窓に叩きつけた。ガラスの割れる甲高い音が、雨音に混じって住宅街に響き渡った。割れた穴に腕を入れクレセント錠を外した。

 土足のまま家の中に足を踏み入れる。

 カーテンをかき分けた先に広がっていたのは、広いリビングだった。高い天井と革張りのソファ、木製のローテーブル。部屋の左奥にはオープンキッチンが、右奥には小さな小上がり和室がある。床はフローリングで、カーペットや段差がないのは車椅子への配慮だろう。

 大型のテレビ画面にはお昼の情報番組が映っていた。

 純也は机の上に、コップと食べかけのカップ麺が置かれていることに気がついた。手に取ってみると、容器はまだ温かく、湯気が立ち上っていた。つまりこの家の住人はついさっきまでこの部屋にいたということだ。

 そのとき背後に気配を感じ、純也は振り向いた。

 純也が間宮の姿を認識したのと、間宮がナイフを振り下ろしたのはほぼ同時だった。とっさに間宮の右手首を掴んだ。

 二人はもつれ合うようにローテーブルの上に倒れこむ。純也の背中の下でコップが砕けた。破片が背中に突き刺さり、一瞬、息ができなくなるほどの痛みが走った。純也の口からくぐもった悲鳴が漏れる。

 しかし彼の手はしっかりと間宮の手首を掴んでいた。この手を離せば自分は死ぬと、本能的に理解していたのだ。

 間宮はナイフを持った右手に全体重をかける。ナイフが徐々に純也の眼前に迫る。切っ先と左目までの距離は十センチもない。もう間もなく彼の左目は抉られるだろう。ナイフが眼球にずぶずぶと沈みこんでいく様が脳裏をよぎり、ぞっと肌が粟だった。だが純也にはどうすることもできなかった。八センチ、七センチ、六センチ…。切っ先は鈍い光を放ちながら眼球に近づいてくる。

 と、間宮が後ろによろけて尻もちをついた。すかさず純也は彼の顔面に蹴りを入れた。間宮が床に倒れこむ。

 テーブルの上で半身を起こして確認してみると、間宮の腰に老人がまとわりついていた。溝口の父親が助けてくれたのだ。老人は枯れ枝のような腕で間宮の身体に縋りつき、ナイフを取り上げようとしている。

 間宮が口元をぬぐい、舌打ちをした。間宮は純也から目をそらさないまま、老人の首をナイフで掻き切った。

 老人の身体から噴水の如くほとばしった血液が、床や壁を赤く染め上げる。純也の顔にも生温かい血がかかった。

 老人は縋るように右手を純也のほうに伸ばし、なにか言おうとして口を動かしていた。けれど、ごぼごぼと喉からあふれ出る血液のせいで、言葉を発することはできない。右手はむなしく宙を掻き、やがて床の上に落ちた。

 間宮が老人の身体から手を離すと、老人は頭からゆっくり前に倒れた。ごん、と鈍い音が室内に響く。

 二人は睨み合ったまま立ち上がった。

 純也の足元には赤い血だまりが広がっている。これはまずいと思った。足を滑らせてしまうかもしれない。しかし幸いだったのは間宮も同じことを考えていたことだった。うかつに近寄ろうとせず、こちらの出方をうかがっている。

 テレビ画面には甲高い声のリポーターが都内のグルメ情報を紹介する姿が映っていた。カーテンが風をうけて大きく膨らみ、雨の匂いが室内を満たした。激しい興奮によってアドレナリンが分泌されたおかげで、背中の痛みはいつの間にか消え失せていた。

 二人はじりじりと部屋の中央へと移動していった。

 警察学校で一通りの逮捕術は習ったが、実際にこうして犯罪者と向かい合うのは今日が初めてだった。それにこちらは警棒も拳銃も持っていない丸腰だ。素手での格闘ならば純也の方に分があったのだろうが、相手はナイフと、なにより明確な殺意を持っている。一瞬の隙が命取りになることは明らかだった。

 ナイフが鋭い光を放ちながら宙を裂いた。純也は上体を反らして切っ先をかわす。続いての斬撃もすんでの所でかわした。

 三度目に繰り出された攻撃は、純也の左の手の甲を傷つけた。鋭い痛みに思わず顔をしかめる。深いところまで切りつけられたようで、あふれ出た血液が腕を伝って床に滴り落ちた。

 純也は歯を食いしばった。なぜ見ず知らずの男にこれほど憎まれなければいけないのだ。なぜ両親を殺されたうえに、自分の命まで狙われなければならないのだ。

 溝口と仲良くしていたからか。それとも自分が、溝口が思いを寄せていた男の息子だからか。

 ──くだらない。

 純也は切りかかってきた間宮の右腕を両手でつかんで引き寄せた。間宮の額に頭突きを食らわせ、ひるんだ彼の腹部に膝蹴りを叩きこむ。ナイフが彼の手から落ちる。間宮は床の上にうつぶせに倒れこんだ。

 間宮の背中に馬乗りになった純也は、彼の後頭部を掴み、その顔面を床に叩きつけた。鈍い音が部屋の中に響く。三回目でようやく間宮はおとなしくなった。

 仰向けにひっくり返してみると、間宮の奇麗な顔は血に染まっていた。前歯と鼻骨が折れ、息も荒くなっていたが、目だけは彼の顔をまっすぐとらえていた。嫉妬と憎しみで血走った瞳だ。

 純也は間宮の首を絞めた。間宮の首の筋肉が酸素を求めて蠢くのが、掌を通じて伝わってきた。

 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね。

 純也はただひたすらに頭の中でその言葉を繰り返していた。心に浮かんでくるのは喜びでも快感でもなく、憎しみだけだった。

 ──殺すのは駄目。

 頭の片隅でかすかに母の声が聞こえた気がした。

 けれど、それも窓を叩きつける激しい雨音によって掻き消されてしまった。

 間宮は両眼を大きく見開いて純也の腕を引き剥がそうとするが、叶わなかった。間宮の手が床に落ちる。しかしそれは間宮が息絶えたからではない。彼の右手はじりじりと床に転がっているナイフへと伸びていた。純也が気づいた様子はない。

 指がナイフの柄を掴んだと同時に、間宮はそれを純也の脇腹に突き刺した。

 純也は一瞬なにが起こったのか理解ができず、目を瞬いた。自分の左脇腹に目を落とし、ナイフの刃が深々と沈んでいるのを見て、ようやく間宮に刺されたのだと気がついた。

 痛みは遅れてやってきた。まるで焼けた火箸を押し付けられたかのような、熱を伴った痛みが全身を貫いた。バランスを崩した純也は、床に横向きに倒れた。ナイフが刺さったままの脇腹に、間宮の蹴りが容赦なく叩きこまれる。

 強烈な痛みに、純也は呻き声すら上げることもできず身体をのけ反らせた。眼球が揺れ、視界が明滅する。自分の上に馬乗りになっている間宮の顔がぼやけて見えた。

 間宮が脇腹からナイフを引き抜くと、栓の抜けたワインのように、血が傷口からごぼごぼとあふれ出した。

「俺の方がずっと好きなのに」間宮はそう言うと左手で純也の胸を押さえ、ナイフを握った右手を振り上げた。

 そうか、死ぬのか。純也はかすんだ視界のなかに間宮の姿をとらえながら、ぼんやりと思った。意識が朦朧としているせいか恐怖心はなかった。ただ目の前の男を殺せなかったことだけが心残りだった。

 ナイフが照明の光を反射して銀色の輝きを放つ。

 その瞬間、間宮がかっと目を見開いた。呆然とした表情を浮かべ、左手で心臓を抑えている。その指の隙間から真っ赤な血が流れ出ていた。

 間宮がゆっくりと振り返り、自分の心臓を刺した人物の顔を仰ぎ見た。彼は苦痛と困惑に顔を歪め、蚊の鳴くような声で訊いた。「先生、どうして」

 だが溝口はなにも答えなかった。それどころか間宮の方に目すら向けていなかった。溝口の瞳に映っていたのは、窓辺で倒れている老人の姿だけだった。

「時雄っ!」

 純也は薄れゆく意識のなかで、溝口が何度もその名前を呼ぶのを聞いた。


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