5-2
*
丸山がその公園に着いたのは、純也が来る二十分ほど前だった。彼は公園の茂みの中で横たわる二十歳前後の女を見下ろしていた。
血で染まった白いTシャツにベージュのフレアスカート姿の女は仰向けに寝そべっていた。両手首は胸の前で縛られ、祈りのポーズを取らされている。血の気が失せた青白い女の肌は、闇に浮かぶ鬼火を連想させた。半開きになった唇の上で、丸々と太ったニクバエが彼女の死を悼むように前脚をすり合わせている。
粘ついた湿気と行き場のない怒りが公園内を包み込んでいた。
丸山はなにも言わなかった。彼の隣に立つ鈴木も、いや、現場にいる全員が同様だった。亀岡も、馬込でさえも唇を引き結び沈痛な面持ちだけを浮かべている。
当たり前だ。本来ならばこの女が殺されることはなかったのだ。プレイキラーは、待ち構えていた刑事たちによってこの公園で捕まり、犯行は未然に防がれるはずだったのだから。
しかしそうはならなかった。
丸山は遺体の傍にしゃがんで手を合わせてから、亀岡に声をかけた。「死因は?」
「左腕の橈骨動脈を損傷したことによる失血死。抵抗した形跡がないから、眠るか気絶するかしている間に、刃物で手首を刺されたんだろう」
「先輩、この結び方って…」鈴木が丸山の隣にしゃがんで言う。
女の手に巻かれた縄は縦の蝶々結びだった。それは過去に起きた四件のプレイキラー事件とは異なる結び方、伊崎茂と吉野美代子が殺されたときと同じ結び方だった。
「プレイキラーによる犯行なんすよね、間宮じゃなくて?」
「そのはずだが…」丸山は答えに窮した。殺害現場も殺害方法も、二十八年前の事件になぞらえているので、間宮ではなくプレイキラーの犯行であるという確信はあった。しかしなぜ今になって結び方を変えたのか、犯人の目的がさっぱりわからなかったのだ。
そのとき丸山たちの背後が騒がしくなった。入り口近くの茂みの中で数人の刑事と鑑識係が集まって何事かを話し合っている。一人の刑事がこちらに向かって走ってきた。
「凶器と思われる果物ナイフが発見されました」
「わかった」馬込と鈴木が立ち上がり、刑事たちの方へ小走りで駆けていく。
しかし丸山だけは座ったままだった。刑事の方を振り返りもしない。
「行かなくていいのか」亀岡が訊く。
「ええ。どうせ指紋もなにも見つからないでしょうから」丸山の視線は女の手首を縛る縄に注がれたままだ。「この縄、結び直した形跡はありませんか」
亀岡は女の手首に目を近づけ観察してから、首を振った。「詳しく調べてみないことにはわからんが、見たところそういった形跡はないように思うな」
「なるほど…」丸山は唸るようにつぶやいた。なぜ純也の両親の手首を縛っていた縄だけを結び直す必要があったのか。そしてなぜ五件目の犯行で結び方を変える必要があったのか。
わざわざ見つかる危険を冒してまで伊崎夫妻の殺害現場に足を向けたのだから、その結び方に何らかの意味があることは間違いない。なにかのメッセージだろうか。しかし誰に対する、どんな意味を込めたメッセージなのだろうか。
丸山は頭を振り、立ち上がった。「また何かわかったら教えてください」と亀岡に言い残して鈴木たちのもとへ歩いて行った。
公園の入り口付近に近づいたところで名前を呼ばれた。振り返った先にいたのは純也だった。
大勢の野次馬が詰めかけていたにも関わらず、彼の声はよく通り、そして彼の姿は目立っていた。背が高く端正な顔立ちをしているから、というのもあったが、なにより彼を際立たせていたのはその目つきだった。純也の黒い瞳は闇の中でも爛々と輝いていた。
嫌な目だ。
丸山は公園を出て規制線をくぐり、人気のない場所へと歩いた。振り返ることはしなかったが、足音で純也がついて来ていることはわかっていた。
「どういうことですか」路地裏で純也は丸山の肩口を掴みながら尋ねた。声は低く落ち着いていたが怒りを含んでいるのは明らかだった。「これは一体どういうことですか。なぜプレイキラーが捕まらず、新たな犠牲者が出ているのですか」
「上の判断だ」丸山は呻くように答えた。「俺は阿川から聞いた話を上に伝え、神山市の工場と、この公園の周囲に人員を配備するように言った。だが奴らは、公園には人員を割く必要はないと判断したんだ」
「なぜです?」
「北村みゆきちゃん殺害事件が冤罪であることを認めたくなかったんだろう。最近起きた警察官の汚職事件やプレイキラー事件によって、ただでさえ警察に対する市民の信頼度は地に落ちている。もしそんな状況で、二十八年前の事件が冤罪で容疑者を自殺に追い込んでいたなんてことが明るみに出たら…」丸山は首を横に振った。「それを恐れたらしい」
「くだらない」純也は吐き捨てるように言った。彼の顔には怒りと非難に満ちた表情が浮かんでいた。「丸山刑事はその命令に素直に従ったのですか」
丸山が乱れた襟元を正しながら答える。「上がそう判断したのなら、それに従うしかない」
純也はなにか言おうと口を開きかけたが、ため息をついて頭を振った。丸山の手の甲にある傷を目にしたからだ。それは何時間か前に、上からその命令を聞かされた丸山が壁を殴った際にできたものだった。
「すまなかった」丸山は純也に頭を下げた。感情を押し殺したつもりだったが、語尾がかすかに震えていた。「お前が苦労して掴んだ情報を役立てることができなかった。本当にすまない」
「やめてください。あなたが悪いわけではないでしょう。それより、プレイキラーを捕まえる目処はついているんですか。これ以降は、今回のように事前に手を打つことはできませんよ。それにプレイキラーはもう殺人を犯さない可能性だってあるのに」
そんなことは言われなくてもわかっていた。阿川の情報によると二十八年前の怪死事件の犯人は、五件目の事件以降ぱったりと消息を絶っている。プレイキラーが過去の事件をなぞらえているとしたら、これが奴を捕まえる最後のチャンスだったかもしれないのだ。
「間宮については何かわかりましたか」
「現在捜索中だ」
「プレイキラーと間宮には面識がありますよね」
純也の言葉に丸山は目を細めた。この男、なにか掴んでいるのか。
「公衆電話を使ってあの空き家に両親を呼び出し、殺害したのは間宮で間違いないと思います。間宮が公衆電話付近の監視カメラに映っていたと、ニュースでやっていましたから。でもあの現場には間宮以外にもう一人いたはずです」
「なぜそう思う?」
「縄の結び方です。両親の手首を縛っていた縄は縦の蝶々結びで、三島咲月さんの手首を縛っていた結び方とは異なっていました。その理由について僕はてっきり、間宮がプレイキラーの犯行を模倣したせいだと思っていました。ですが今日あの公園で殺害された被害者の縄の結び方を見て、そうではないと確信しました」
「ちょっと待て。なぜお前が被害者の遺体を見ることができたんだ」
「今はなんでもネットに転がっている時代です」純也はポケットから取り出したスマートフォンの画面を丸山に向けた。そこにはついさっき発見された被害者の画像が映っていた。「これは僕の両親のときと同じ結び方です」
純也は言葉をつづける。
「でも今日の犯行は間宮のものではありません。間宮の一連の行動から察するに、二十八年前の事件は知らないはずですから。このことと両親の靴が無くなっていたことを考え合わせると、自ずと答えは見えてきます。間宮は両親を殺害した後、手首を縛りあの家を去った。その後、本物のプレイキラーがあの家にやって来て、玄関に置いてあった父の靴を履いて家に上がり、両親の手首を縛っていた縄を結び直した、ということが」
丸山はなにも言わない。
「なぜ、プレイキラーがあの空き家に死体があることを知っていたか、という疑問についての答えは一つしかありません。それは、間宮とプレイキラーの間に面識があったから、です。違いますか」
丸山は内心舌を巻いていた。彼は空き家にあった二種類の靴跡と縄の繊維から、その答えを導きだしたのだが、純也はそれらの情報もなしに同じ結論に達したのだ。
丸山はため息をつき、壁にもたれかかった。これは俺の独り言だが、と前置きしてから口を開いた。「間宮は高校時代、ある女子生徒を階段から突き落として骨折させたらしい」
丸山は沖田から聞いた話を語った。間宮がゲイであったこと、数学の教師に片思いをしていたこと、そして女子生徒を階段から突き落として骨折させたこと…。
純也は黙ってその話に耳を傾けていた。
「女子生徒を突き落としたのはお前か、と聞かれた間宮は、『俺を裏切ったからいけないんだ。だから大事なものを奪ってやった』と答えたらしい」丸山の瞳が純也の顔をとらえる。「お前、本当に間宮とは面識がないんだな?」
純也はしばらく顎に手をあてて考え込んだ後、首を横に振った。「ないはずです。間宮が僕のことを一方的に知っているという可能性は否定しきれませんが」
そのとき、丸山のスーツのポケットに入っていたスマートフォンが振動した。通話ボタンを押した途端、鈴木の上ずった声がマイクから聞こえてきた。
「先輩、大変っす。この前、千葉の鹿野山から発見された白骨遺体の身元が判明しました。一人は富樫拓郎。そしてもう一人は伊崎佳織。伊崎君の実の母親っす」
「伊崎の?」
丸山は目を見開いて純也を見た。純也もまた彼を見つめ返していた。黒く濡れた純也の瞳は、闇の中で不気味な輝きを放っていた。自分を育てた両親は殺害され、実の母親は山中で白骨遺体となって発見された。一体この男の周りでなにが起こっているというのだ。
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