5-1

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 なぜ? 純也は呆然と立ち尽くし自問していた。なぜ? なぜ? なぜ? ほかの言葉は浮かんでこなかった。頭を巡るのはその言葉ばかりだった。なぜ? 視線は手の中のスマートフォンの画面に注がれていた。いま目の前に並んでいる文字列がまったく理解できなかった。なぜ? 純也は昨日の出来事を、順を追って思い返した。なぜ? いや、本当はちゃんと理解できていたのだ。なぜ? 理解できていたからこそ、別のことを考えて意識を逸らしておかないと、怒りで我を忘れてしまいそうだったのだ。


 昨日、阿川たちと別れた純也は丸山の言いつけに素直に従い、まっすぐ家に帰った。本当は間宮の捜索をしたかったのだが、できなかった。足は鉛のように重く、歩くたびに吐き気が込み上げ、夏の日差しに炙られた頭はくらくらと眩暈がした。彼の身体は限界に来ていたのだ。

 家に帰った後は半ば失神するように眠った。久しぶりの眠りだった。

 夢を見た。

 古びたアパートの一室、ちゃぶ台に並んだ色とりどりの料理、ガラスの割れる音、二人の人間が揉み合う音、血に濡れた白い女の手、倒れた女の上に馬乗りになる黒い影…。高校生の頃から自分を苛んできたいつも通りの夢である。

 けれど一つだけいつもと異なる点があった。

 夢の中で純也は深い悦びを感じていたのだ。女に間宮の姿を、そして黒い影に自分の姿を重ね合わせることで。

 純也は夢の中で何度もナイフを振り下ろした。ナイフが身体に突き刺さるたびに、間宮の端正な顔が歪み、口の端から苦痛に満ちた呻き声が漏れた。切っ先から飛び散った飛沫が壁や床に赤い染みを作った。

 彼の身体から流れ出た生温い血が、純也の内腿や膝のあたりを濡らしている。けれど不快感はまったくなかった。

 頭の片隅では、これが夢であることに気がついていた。しかし彼は夢が覚めないことを願いながら、何度も何度も間宮を殺し続けた。なぜなら楽しかったからだ。たとえ夢の中であろうと、親の仇である間宮を殺すことが、悪事を犯した男に正義の鉄槌を下すことが、長年抑えんできた殺人衝動を開放することが、たまらなく気持ちがよかったからだ。

 純也はこの夜はじめて自覚した。この夢は自分の内側に眠っていた殺人衝動を具現化したものだということを。

 微笑とともに純也が目を覚ましたのは深夜二時を少し過ぎたころだった。どうやら十二時間近く眠ってしまったらしい。

 大きく伸びをしてから立ち上がる。眠りは浅かったが、久しぶりにまとまった睡眠をとることができたため、頭はすっきりしていた。昨日感じていた吐き気も眩暈もきれいさっぱり消えている。

 枕元に置いていたスマートフォンを手に取った。寝室を出る前にニュースをチェックするのが純也の日課だ。ブルーライトの光に目を細めながらスマートフォンを操作する。

 純也の指が止まった。

 ニュースサイトのトップに踊る文字列が彼の瞳に映っている。純也はその言葉の意味が理解できなかった。震える指でそのタイトルをタップして記事の全文を表示させたが、目が文字の上を滑るばかりで、まったく頭に入ってこなかった。

 気がつくと家を飛び出していた。

 頭の中では先ほど見た文字列が瞬いていた──プレイキラーによる五件目の犯行!


 その閑静な住宅街の周囲は騒然としていた。

 事件現場となった公園の入り口付近に張られた規制線のそばには、深夜三時にも拘わらず大勢の野次馬が詰めかけていた。腕章をつけた報道陣や、部屋着姿で首を伸ばしている近所の人たち、スマートフォンのカメラを公園に向けて生配信をしている人間までいる。付近に停まったパトカーの赤色灯が彼らの顔を赤く染めていた。

 純也は人の波を乱暴に押しのけて規制線の傍まで近づいて行った。中にはあからさまに不機嫌な顔をしたり舌打ちをしたりする者もいたが、彼らは純也にひと睨みされると、途端にきまり悪そうな顔で目を逸らした。おそらく純也の目の下にあるどす黒い隈や、血走った目、こけた頬を見て本能的に悟ったのだろう。この男はまともではないと。

「なにがあったんですか」純也は隣に立っている部屋着姿の白髪男に訊いた。

「プレイキラーだよ。あそこの茂みの奥で若い女の子の死体が見つかったらしい」男は公園に目を向けたまま顔をしかめて、けれど興奮と好奇心に満ちた声で言った。指は公園の奥をさしている。

 小さな公園だった。公園内にあるのはブランコと滑り台とベンチ、それと水飲み場の四つだけだ。街灯が一本しかないうえに、周囲を背の高いイチョウの木々と生垣に囲われているため、真っ暗で見通しが悪い。仮に茂みの奥に誰かが立っていたとしても、入り口からは気がつかないだろうと思われた。

 夜闇に沈んだ公園内を、スーツ姿の人や鑑識課の青い制服を着た人たちがせわしなく行き来している。

 純也はその中の見知った男に声をかけた。「丸山刑事」

 丸山が振り向く。その顔には怒りと罪悪感が色濃く浮かんでいた。


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