5
その日は朝からひどい頭痛に襲われていた。もともと持っていた偏頭痛に加え、低気圧による体調不良も相まって、まともに立っているのがやっとなほどだった。心臓のリズムに合わせて、こめかみのあたりがズキンズキンと脈打つように痛む。
だから時雄が言ったその言葉を、私は聞き逃してしまった。
「え?」
時雄は振り返った私の顔を見ずに、だから、と続けた。
「もうやめるよ俺」
「やめるって、なにを?」
「だから、人殺しを。さっきからそう言ってるだろ」
「人殺し?」
私は彼の言葉を、舌足らずなオウムのように繰り返した。その言葉の意味が理解できなかったのだ。
時雄はなにも答えない。
七月の空は透き通るほど青く、白い大きな入道雲が山の向こうに沸き立っていた。吐き気がするほどよく晴れた日だった。私たちの目の前を一匹の燕が横切って行った。昼休みの運動場では、バスケットボールやサッカーに熱中している男子生徒や、バレーボールに興じている女子生徒たちで溢れ返っている。
遠くで「わっ」と歓声が上がった。サッカーのゴールネットが揺れているところを見ると、どうやら誰かがゴールを決めたらしい。一人の男子生徒が拳を天高くつき上げ、雄たけびを上げていた。
人殺しをやめる? 私はようやく彼の言葉の意味を理解した。そして同時に足元の地面が音を立てて崩れ去っていくかのような錯覚を覚えた。
ぐらりと頭が揺れ平衡感覚を失った私は、時雄の左腕に縋りついた。時雄はなにも言わずに空を見上げていた。大丈夫か、と声をかけることも、私の肩を支えることも、私に一瞥をくれることさえもなかった。
「どうして」
私は蚊の鳴くような掠れた声で訊いた。
「どうして。あんなに楽しかったのに。これからもずっと一緒に二人でやっていこうって言ったのに…」
「ずっとなんか言ってねえよ。ほら、前に彼女ができたって言ったろ?」
「彼女…? そんなの聞いてない」
時雄が「ああ、言ってなかったっけ?」と面倒臭そうな表情を浮かべる。彼は耳たぶを引っ張りながら言葉を続けた。
「その子が妊娠したんだよ。だから彼女のためにも子供のためにも、くだらないことやってないで、まっとうな大人になろうと思ってさ」
彼女? 妊娠?
私は呻き声を上げ、自分の左手に顔をうずめた。今までに経験したことのない強いめまいと耳鳴りに襲われた。私の手はひどく震えていた。私はそのときになってようやく気がついたのだ。自分がどれほど時雄のことを愛していたのかということに。
「おっ、熱いねお二人さん」
偶然そばを通りかかった数人のクラスメートたちが、私たちを冷やかすように囃し立てた。ヒューヒューと指笛を吹いている者もいる。
「そんなんじゃねえって。失せろ」
時雄が苦笑する。
何気ない時雄の言葉がまた私の胸を深くえぐった。私は時雄の腕に縋りついたまま訊いた。
「だったらこの前、かわいいって言ってくれたのは? キスだってしたし、時雄のために殺人だって…時雄にとっては全部くだらないことだったの?」
私の声は震えていて、最後の方の言葉は消え入りそうなほどか細かった。
「あれぐらいで本気にされても困るよ」
「じゃあ、今日の殺す予定だったあの子は? 何日もかけて下調べをしたのに」
「やりたきゃ一人でやれば?」
時雄はそう言って私の手をそっと払い除けると、校舎へと歩き去っていった。私はただ茫然と彼の背中を見つめることしかできなかった。
その夜、少女を殺した。
まだ六歳になったばかりのあどけない少女に、果物ナイフを突き立てたのだ。ナイフは少女の柔らかい肉の中にずぶずぶと沈みこみ、あっという間に手首を貫通した。傷口からほとばしった鮮血が、砂の上に赤黒い水たまりを作った。
少女は苦痛に顔を歪め、かつ自分の身に一体なにが起こっているのか理解できていないような困惑の表情で、地面をのたうち回っていた。獣のような唸り声を上げ、ギリギリと歯を食いしばりながら。
けれどそれもほんの数分のことだった。しばらくすると少女は胎児のように手足を丸め、小刻みに身体を痙攣させ始めた。月明かりに照らし出された肌は驚くほど青白く、まるで生気を感じられなかった。
少女の唇がわずかに動いた。
──お、か、あ、さ、ん。
少女は死ぬまでの間ずっと、その言葉を呟き続けていた。
気がつくと私は涙を流していた。少女を殺したことに罪悪感を覚えたからではない。まったく楽しくなかったからだ。時雄と二人でする殺人は、あんなにも楽しかったのに。今はただ虚しさが込み上げてくるばかりだった。
私は少女の死体を見下ろしながら考えた。時雄だったら、どんなふうに殺しただろうか。彼はいつも私があっと驚くような殺し方を提案してくれた。
吐瀉物に溺れた夫婦の死体、地蔵を抱いて池に沈んだ死体、逆さ吊りの死体、氷水に浮いた死体。どれもこれも斬新で私の心を震わせた。私は彼の殺し方が好きだったのだ。
それに比べて今、目の前に転がっているこの死体はどうだろう。斬新さも独創性のかけらもない無味乾燥な死体。
私には時雄がいないと駄目なのだということを改めて突きつけられた気がした。
私は少女の傍らに膝をつき、考えた。どうすれば時雄が私のもとに戻ってきてくれるだろうかと。
答えはすぐに見つかった。
──あの写真。
あの写真があれば、時雄はきっと私のもとに戻ってきてくれる。
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