4-2

 *


 午後十二時過ぎの書き入れ時であるというのに、その定食屋の店内には、たった二人の人間しかいなかった。

 カウンター席で顔をしかめながら新聞を読んでいる老人は、白のTシャツに紺色のエプロン姿であるから、おそらくこの店の主人だろう。となると店にいる客は一人だけだ。一番奥のテーブル席でスマートフォンをいじりながら日替わり定食を食べる男、阿川克彦だけである。

 純也はその店の前の通りに立っていた。開けっ放しの出入り口から阿川の後ろ姿が見える。

 純也は店に入ろうと足を一歩踏み出したが、強い力で引き戻され、彼の足はその場でたたらを踏んだ。

「邪魔しないでください」純也は自分の左腕を掴んでいる丸山を、充血した目で睨みながら言った。

「それはこっちのセリフだ。俺たちの捜査の邪魔をするな」丸山は阿川の背中に視線を向けた。彼はスマートフォンに夢中で、こちらに気がついた様子はない。「阿川の周りを目つきの悪い男がうろついていると聞いて駆けつけてみたら、やっぱりお前か。今すぐ失せろ」

「お断りします」純也はきっぱりと言い放つと、店の方に顔を向けて呼び掛けた。「阿川さん。少しだけお時間よろしいですか」

 阿川が振り返る。

 純也は丸山の手を振り払うと、足早に店内を移動して阿川の隣の席に腰かけた。阿川の返事を聞く気も、逃がすつもりもないらしい。

 店の壁と純也との間に挟まれた阿川は、ぎょっと身体をのけ反らせて隣席の男の顔を見た。さすがの警察嫌いの阿川でも、不意打ちの訪問に面食らってしまい、嫌味の一つも出ないらしい。

「え…、あんたたしか、この前の…?」

「伊崎っ、いい加減にしろ」店に入ってきた丸山が純也の肩を掴んだ。彼の後ろでは相棒の鈴木がおろおろした様子で控えている。

 店の主人は面倒事に巻き込まれることを恐れ、厨房の奥へ引っ込んでしまった。

 純也は丸山には一瞥もくれずに言う。「ゆうゆりチャンネルの動画をすべて拝見させていただきました。すごく面白かったです」

 阿川は壁の方を向いたまま、それはどうも、とだけ答えた。ようやくいつもの調子を取り戻したらしく、意地でも警察官たちの方を見ようとしない。

「でも面白かったのは初期だけです。最近の動画にはまったく面白みがありません」

「…」

 純也は息を吸い込み、静かな声で言った。「だって台本を書く人が変わったから」

 阿川が横目で純也を見た。その顔に浮かぶわずかな表情の変化を、純也は見逃さなかった。

「初期のゆうゆりは単純なカップル動画ではなく、斬新な企画、マニアックな映画や漫画に関する雑学などがふんだんに盛り込まれた魅力的なコンテンツでした。だから若い視聴者だけでなく、幅広い世代から人気を集めていました」

「…」

「阿川さんのSNSを拝見しました。僕が目を止めたのはあなたの部屋の、本棚の画像です。その本棚に並んでいるDVDや漫画本は、すべてゆうゆりチャンネルで取り上げられていたものばかりでした。あの二人のために台本を書いていたのは阿川さん、あなたですよね」

 阿川はなにも言わない。純也は続ける。

「だけど三年前の一月頃から、二人は方向性をがらりと変えました。流行に乗っかっただけの面白味も新奇性もない動画を量産するようになったんです。これは僕の予想ですが、あなたはその時期に台本を書く担当から降ろされたのではありませんか」

「だったら、どうだって言うんだ」

「これまであなたは、たとえ動画内に自分の名前を載せてもらえなくても、二人のためにゴーストライターとして台本を書き、企画を考え続けた。それなのに彼らはある日突然あなたを担当から外した。当然許せなかったでしょうね。そこであなたは一計を案じた」

「どんな計画っすか」鈴木が口を挟む。

 純也は鈴木に背中を向けたまま答えた。

「生放送中に彼らに死体を発見させるという計画です。そうすれば、ゆうゆりはネットで一躍話題となり、動画編集者である阿川さんにも注目が集まります。あなたはそのタイミングで、二人が自分にした仕打ちを公表するつもりだったのではないですか」

「あんたの推理通りだったとして、それがなにか? 犯罪でもなければ、俺があんたら公僕に協力する義務もないよね」

「ええ、その通りです」純也がうなずく。「でも、あなたはきっと僕たちに協力してくれると信じています。優しい人ですから」

「はあ?」

「だってそんな計画を立てておきながら、未だにその秘密を公表していないじゃないですか。廃ホテルへの不法侵入でアンチから叩かれて憔悴している二人を見たあなたは、ためらってしまったのではないですか? 秘密を公表して、二人にさらなる追い打ちをかけることを」

 しばらくの沈黙。

 阿川が深いため息をついた。その顔には諦めと驚嘆と、ほんの少しの安堵が浮かんでいた。

「参った参った、その通りだよ。我ながら本当に情けない、肝心なところで尻込みするなんて」阿川は観念したように首を振り、純也の顔を見た。「なあ、あんたの目、ものすごく充血してるけど大丈夫なの? もしかして一晩であいつらの動画を全部見たなんて言わないよな」

「さすがに一晩では無理ですよ。三日かかりました」

「何でそこまでできるわけ? ただの殺人事件の捜査だろ」

「僕の両親を殺した男が、例の廃ホテルで見つかった女性の死に関与している可能性があります」

「えっ…もしかして昨日、プレイキラーに殺されたあの夫婦?」阿川が目を見開いた。「そうだったのか。…酷いこと言って悪かったよ、俺そんなこと全然知らなかったから。もっと早く言ってくれれば素直に協力してたのに」と、しどろもどろに弁明する。やはり純也の見立て通り、警察嫌いなだけで根は悪い人間ではないのだろう。

 阿川は姿勢を正して純也に向き直った。「それで、俺になにを聞きたいんだ?」

「あの、ちょっといいですか」そこで丸山が口を挟んだ。「阿川さん、我々も同席しても構いませんか」

「ええ、どうぞ」

 阿川に促された二人の刑事は向かいの席に腰かけた。

「なぜあなたは、あの廃ホテルに死体があることを知っていたのですか」純也が訊く。

「伊崎君はエクストリーム自殺って知ってる?」阿川が鞄の中からタブレット端末を取り出して机の上に置いた。

「エクストリーム自殺?」と首をかしげる丸山に対し、鈴木と純也は、もちろん知っているという様子で頷いている。世代によって認知度に違いがあるらしい。

「過激で危険な離れ業を競うエクストリームスポーツから派生したネットスラングっすよ。どう見ても他殺にしか見えないのに、なぜか警察に自殺として処理された事件のことを、エクストリーム自殺と言うんす」

「最近のものだと秋田県の事件が有名ですね」純也が例を挙げる。「ある会社員がビルの屋上から飛び降りた事件です。その男性は両手を後ろ手に縛られ、猿轡を嚙まされた状態で発見されたにも関わらず、警察は自殺として処理しました。縄の結び方が自分でも結べるやり方だったので自殺だろう、と」

「なるほど。要するに無能な警察を皮肉る言葉だということか」丸山が納得する。

「俺はプレイキラー事件のニュースを見ていて気がついたんだ。一連の事件が、二十八年前に起きた連続怪死事件に酷似しているってことに」

「二十八年前の事件?」と純也。

 阿川がタブレット端末を操作し、画面上に東京都の地図を表示させた。彼はそれをさらに拡大し、八王子市と神山市が画面に収まるように調整する。

「一九九五年五月二日、八王子市内の民家で若い夫婦の遺体が発見された。遺体の周りには食べかけのお菓子や、総菜、ご飯なんかが散乱していた。発見者の人に話を聞くと、奇妙なことに夫婦の唇には瞬間接着剤が塗られていたらしい。おそらくその状態で嘔吐してしまったため、吐瀉物が喉に詰まって窒息死したんだろうな。その事件が起こったのがここ」

 阿川は地図上に刺さった赤いピンをタップした。その場所の住所が表示される。

「ちょ、ちょっとタイム」鈴木が慌てた様子で鞄からタブレットを取り出した。指を素早く動かして端末を操作する。「ああ、やっぱり。その住所、一件目のプレイキラー事件の殺害現場とまったく同じ住所っす」

「本当ですか」と純也。

「間違いないっす。住所だけじゃなくて日付も殺し方も完全に一致してます」

「二件目の事件が起こったのは、それから二十五日後の五月二十七日。八王子市の山中にある霊園の池で、半裸のホームレス男性が池に沈んでいるのが発見された。男性は上半身に瞬間接着剤を塗った状態で、お地蔵様を胸に抱えていたそうだ」阿川が地図上のピンをタップする。「それがここ」

 鈴木は眉間にしわを寄せ頷いた。「二件目の事件と同じ場所っす」

「三件目はどうですか」純也が急かす。

「翌六月二十四日、女性がラブホテルの屋上から逆さ吊りになって死んでいるのが発見された」

 三人がはっと息をのんだ。三島咲月の遺体が脳裏をよぎったからだった。

「つまり」と丸山。「プレイキラーは一九九五年に起きた事件を、場所から殺し方に至るまでそっくりそのまま再現している、ということですか」

「そういうこと。ただ相違点が四つあるけど。一つ目の相違点は、四件目の事件の被害者の数が異なるという点」

 阿川が指をさしたのは神山市内に刺さった赤いピンだ。これはプレイキラーによる四件目の事件が起こった場所だった。「一九九五年の事件では、殺されたのは一人暮らしの老婆なのに対して、プレイキラー事件で殺されたのは老夫婦だ」

「一人多いですね」と純也。

「まあ無理もないさ。二人暮らしの老夫婦の妻だけを狙って殺すなんて難しいからね。刺したり絞めたりの簡単な殺し方ならともかく、水を張った浴槽の中に氷を大量に浮かべて、低体温症で殺すわけでしょ。そりゃ二人まとめて殺すしかない」

「たしかに」と純也が唸る。

「二つ目の相違点は、手首を縛っていたという点。一九九五年の事件の被害者の中には誰一人として、手首を縛られていた者はいなかった」

「手首を縛るという行為だけは、プレイキラーのオリジナル要素だということっすね」

「もしも昔の事件の犯人が手首を縛っていてくれたら、自殺として処理されることもなかっただろうに」

「えっ、自殺として処理されたんですか」純也が驚きの声を上げた。

「一九九五年の事件はすべて自殺として処理されてるよ。これが三つ目の相違点。はたから見れば明らかに他殺だが、当時の警察官たちには自殺に見えたらしい」

「なるほど、それでエクストリーム自殺…」純也は唸った。こんなもの誰が見たって明らかに他殺なのに、いったい警察はなにを考えていたのだろう。職務怠慢としか思えない。

「ちょっといいですか」丸山が右手を上げて言った。「阿川さん、あなたはそれらの事件の情報をどこから手に入れたんですか。二十八年前といえば、あなたはまだたったの十二歳です。そんな年端もいかない少年がどうやって事件の詳細を?」

「ネットじゃないんすか? 奇妙な事件の記録ならいくらでも転がってますよ」

「いや」と純也。「いまスマホでざっと調べてみましたが、連続怪死事件に関する記事は一件もありませんでした。それにもし仮にネットに情報が載っていたとしても、詳しい住所まではわかりません」

 三人の視線が阿川に集まる。

 それまで饒舌だった阿川は唇を引き結び、視線をさまよわせていた。まずいところを突かれてしまった、と彼の顔には書いてあった。

 しばらくして阿川は諦めたように首を振った。「もう何十年も前の話だから話すけど…。俺、その連続怪死事件が起こった当時、アマチュア無線にはまってたんだよ。近くに住んでいる友人と連絡を取り合ったり、遠方に住んでいる仲間とは文通やオフ会で交流を深めたりしてさ。同じ趣味をもつ同志が結構いたんだ」

「アマチュア無線ですか」純也が相槌を打つ。聞いたことのある単語だが、実際の光景は見たことがなかった。

「当時仲間内で流行っていたのが警察無線を傍受して、その現場に駆けつけること。それで現場の写真を撮って、近所の人から事件の内容や現場の様子を聞き出して、レポートとしてまとめて、月一で開かれるオフ会で発表する。要するに記者ごっこみたいなもんだよ。で、そのオフ会で話題の中心だったのが、八王子市と神山市内で起きている連続怪死事件だったってわけ」

「そのオフ会に参加していた人間の連絡先はわかりますか」丸山が訊く。

 今回の一連の連続殺人が二十八年前の事件をなぞっているのだとすると、プレイキラーの正体は連続怪死事件の犯人もしくは、その情報を知りえた人物。つまりオフ会に参加していた人間である可能性が高い。

「残念ながら」阿川は頭を振った。「高校受験を機にアマチュア無線は卒業したし、それ以来あいつらとは連絡を取っていないから」

 阿川は水を一口飲み、ふと遠い目をした。

「そういうことをしてたから警察に疑いをかけられたんだろうな」

「どういうことですか」純也が訊く。

「これはべつにプレイキラーとは一切関係がない話だけどさ。俺、中学二年のときに七つ歳の離れた妹を亡くしてるんだ。団地の七階から転落死。当時の俺は今で言うヤングケアラーってやつでさ、四六時中妹の世話をさせられて正直かなり参ってた。だから友人たちに酷い愚痴もこぼしていたんだ。妹なんか死ねばいいとか、殺したいとか。そのせいでかなり警察から疑われたよ」

 三人は黙って彼の話に耳を傾けていた。

「両親からも変な目で見られて結構つらかったな。のちの捜査で疑いは晴れたが、あの事件以来、両親との関係がぎくしゃくしちゃってさ。結局両親は離婚、俺は十八で家を出て以来、二人と会うことはなかったとさ」

 阿川はわざとおどけた様子で締めくくり肩をすくめた。

「それはつらかったですね」純也が眉を寄せる。なぜ阿川があんなにも警察を嫌っていたのかが、ようやくわかったのだ。「すみませんでした」

「なんであんたが謝るんだよ」阿川が苦笑する。彼は重い空気を払うように右手を軽く振った。「辛気臭い昔話は終わり。事件の話に戻ろうぜ」

「二十八年前の事件と今回の事件には、異なる点があるって話っすよね。四つ目はなんすか」

 阿川が純也の方に顔を向けた。「昨日プレイキラーに殺害された夫婦。あの事件だけは例外なんだ」

「例外?」と純也。

「二十八年前にあの家で事件があったなんて記録は、俺が調べた限り一度もない。だからあの事件に限っては、模倣犯による仕業だと思う」

 純也は腕組みをして唸った。やはりそうか。殺害方法といい縄の結び方といい、あまりにも三島咲月のときと違いすぎていた。当初の予想通り間宮の仕業であると考えてよさそうだ。

「次に事件が起こるであろう場所を予測することはできますか」

 純也の質問に阿川が頷いた。「もちろんできる。ただチャンスは一度きりだ」

「どうして一度きりなんすか」

「二十八年前の連続殺人鬼は、五件目の犯行を最後にぱったりと殺人をやめてしまったからだ」

「つまりプレイキラーが殺人を犯すのは次で最後ということですか」純也が言う。

「かどうかはわからんが、犯行現場で待ち伏せして捕まえる機会は、これを逃すともう二度とないだろうな」

「それはいつどこで起こるんすか」

「今日だよ。七月五日の夜中」

 三人の間に緊張が走った。

 純也がとっさに腕時計を確認する。時刻は午後一時を少し回ったところだ。プレイキラーが次の犯行を行うまで、あとわずか十時間強しかないということか。

「場所は?」と丸山。彼の顔にもわずかな動揺が浮かんでいた。

「二つ候補がある。一つ目はここ」阿川は神山市内の北西に位置する工場にピンを立てた。「この工場の従業員が遺体で発見された。頭から灯油をかぶって火を放ったようだが、ガソリンを入れていた容器は見つかっていない。それに従業員が死ぬ前の時刻に、誰かが言い争っている声を聞いたという近所の証言もあったが、警察は自殺と判断した」

「二つ目は?」

「ここの公園なんだが…、これは他殺として処理されているんだよな」阿川は少し迷った様子で八王子市内の公園にピンを立てた。「北村みゆきちゃん殺害事件って知ってるか」

 若者二人は首をかしげていたが、丸山は頷いていた。

「覚えています。当時六歳だった北村みゆきちゃんが、知的障害を持つ三十五歳の男性に殺された事件ですね」

 丸山の説明によると、事件が発覚したのは七月六日の朝七時頃。犬の散歩のために公園に来ていた主婦が、滑り台の上に座る男を発見し通報したことによる。男が胸に抱いていた少女の顔面は蒼白で、左腕は真っ赤な血で染まっていた。

 男は刃渡り十三センチの果物ナイフを所持していた。少女の左手首にはそのナイフで刺されたと思われる刺創があり、それが彼女を失血死に至らしめた原因だった。

 警察は男を緊急逮捕して取り調べを行ったのだが、男はただ泣くばかりで何も語ろうとはしなかった。それどころか、厳しい取り調べに耐えかねた男は、その翌日に留置所で首を吊って自殺してしまったのだ。

 自供を引き出すことはできなかったが、男には少女に対する付きまとい行為で警察に通報されていた過去があったため、被疑者死亡という形で書類送検されたのだった。

「どうして六歳の少女がそんな時間に公園にいたのですか」

「シングルマザーだったみゆきちゃんの母親は、自宅アパートで売春行為を行っていたんだ」阿川が答える。「母親は部屋に客が来ている間は、みゆきちゃんを外に追い出していたそうだ。雨だろうが冬だろうがお構いなしに」

「酷い母親ですね」純也が顔をしかめた。苛立ちの表情を隠そうともしない。「でもその事件の犯人は死んでいるんでしょう。どうして候補に上げたのですか」

「冤罪の可能性がある」と丸山。「男が所持していたナイフの出所が不明だったんだ。男の家にあったものでも、みゆきちゃんの家にあったものでもない。それに男の母親の証言によると、みゆきちゃんが殺されたとみられる深夜一時から三時の間、男は確かに家にいたそうだ。まあ、息子をかばっている可能性も否定しきれないが」

「つまりみゆきちゃんを殺したのは、その男ではなく連続怪死事件の犯人かもしれないってことっすか」

「そゆこと。捕まった男は少女の遺体を抱いていただけで、殺したわけではない…かもしれない」

 阿川は公園の上に立っているピンを爪でトントンと叩いた。彼の眉間には深い皺が刻まれている。そういえば死んだ彼の妹とみゆきちゃんはどちらも七歳だった。「正直俺は一つ目の候補よりも、こっちの方がプレイキラーが来る可能性が高いと思ってる」

「どうしてっすか」

「工場で死んだ従業員には借金があったんだ。普通の人間がとうてい払えるものではないほど多額の借金が。おそらく他殺に見せかけて保険金をだまし取るための、覚悟の自殺だったのではないかと俺は睨んでる」

「でもガソリンの容器は見つかってないんすよね」

「従業員の妻が夫の死後、容器を持ち去ったんじゃないの。自殺だと保険金が下りないから」

「なるほどっす…」

 頷く鈴木に対し、純也と丸山は何の反応も見せなかった。

 純也はちらりと斜向かいに座る丸山の姿に目をやった。彼は純也同様、難しい顔で腕組みをしたまま考え込んでいる様子だった。おそらく自分と同じことを考えているのだろう、と純也は思った。

 工場で亡くなった従業員にしても、北村みゆきちゃん殺害事件にしても、どちらも殺し方にまったく面白味がない。独創性に欠けるのだ。この二件は果たして本当に連続怪死事件の被害者なのだろうか。

 しかしプレイキラーにつながる物証も目撃証言もない今、彼らは阿川の情報を信じるしか道はないのも事実だ。

「鈴木」丸山が相棒の名前を呼ぶ。「上に連絡して、今上がった二つの候補の周辺に人員を配備するよう伝えろ」

 はいっ、と返事をした鈴木が席を立ち、店の外へと消えた。

「阿川さん、今回は本当にご協力ありがとうございました」純也が阿川に頭を下げる。

「ああ、いや俺は別に」阿川は慌てて両手を振って否定した。「それより悪かったな。知らなかったとはいえ、ご両親を殺されたお前を傷つけるようなことを言って」

「いえ、気になさらないでください。阿川さんが警察を嫌いになってしまったお気持ちは、僕にも理解できますから」

「伊崎君、それと刑事さん」阿川が改めて姿勢を正して二人に向き直った。「こんなことを俺が言うのもなんだけど、この事件の犯人、絶対に捕まえてくれよ。被害者のためにも、遺族のためにも」

 純也は「もちろんです」と力強く頷き、丸山は「善良な市民の願いとあれば。公僕ですから」と彼の後に続けた。

「参ったな、いじめないでくれよ」阿川が苦笑する。


 店を出て、会社に戻る阿川の背中を見送った後、丸山は純也の腕を掴んで言った。「今回だけは大目に見てやるが、もう二度と捜査の邪魔をするな」

 純也は小首をかしげ、はあ、と肯定とも否定ともとれる曖昧な返事をした。けれどその声音に昨日の取調室のときのような頑なさはなかった。というのも先ほどの阿川の一件によって、二人の間には不思議な絆が生まれていたのだ。いや、絆というにはあまりにもささやかなものではあるが。

「これからのことは俺たち刑事課の人間に任せておけ」丸山は純也の腕から手を放し、肩を叩いた。「それとお前、本当に顔色が悪いぞ。倒れる前に今すぐ家に帰って寝ろ」

 純也は目を瞬いた。この男にも人を心配する優しさがあったのか。



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