4-1
*
卓上に置かれた湯呑からは熱い湯気が立ち上っていた。
開放感のあるリビングダイニングには丸山と鈴木と、沖田健の姿がある。
丸山の向かいの席に腰かけた沖田は恐れ入った様子で頭を下げた。「すみません、うちの母親ちょっと天然で」彼の視線は、先ほど母親が出してくれた湯呑に注がれている。「こんな暑い日に出す飲み物じゃないですよね」
「いやあ、冷房で冷えていたのでちょうど良かったっす」と鈴木。
滝のような汗をかいている鈴木の見え透いたフォローを、沖田は素直に受け取り、「すみません」ともう一度だけ頭を下げた。
「沖田さんは高校時代、間宮慧斗と仲が良かったそうですね」丸山が言う。「大学に入ってからも交流は続いていたと聞いています。間宮の行き先に心当たりはありませんか」
「交流と言っても時々ふらっとうちに来て、金の無心をするくらいですからね。最後に会ったのも半年くらい前だし、どこにいるかなんて想像もつきません」
「女性関係についてはどうです? 誰かと付き合っていたという話は聞いていませんか」
「女性関係か…」沖田は視線を宙にさまよわせた後、気まずそうに口を開いた。「それはないと思いますよ。あいつゲイでしたから」
手帳にメモを取っていた丸山の手が止まった。「それは確かですか」
「たぶん。向こうはうまく隠していたつもりだったんだろうけど、俺からしたらバレバレでしたよ」
「では男性関係については?」
「まったく知りません。仮にいたとしても、誰にも言わないと思います、あいつは」
丸山が、なるほど、と相槌を打つ。メモを取り終えた丸山は、先ほどから気になっていたことを沖田に訊いた。
「高校時代の友人が殺人未遂で指名手配をされているというのに、ずいぶん冷静ですね。たいていの人は、多少なりとも驚かれるものなんですが」
「はあ…、まあ…。あいつには前科がありますからね」
「前科?」警察のデータベースにはそんな記録はなかったはずだが。
「あっ、違います違います」沖田が慌てて両手を振った。「逮捕されたとか、そういう意味の前科ではありません。そういう比喩っていうか、やらかした過去があるって意味の“前科“です」
「どんな過去ですか」
「さっき間宮がゲイだって言ったでしょう。俺がそのことに気がついたのって、高校二年のときです。あいつ春先に赴任してきた数学の男の先生に一目惚れしたみたいでした。それまでは授業なんてまともに受けていなかったのに、急に数学だけ真面目に取り組みだして、放課後も熱心に先生のところに質問に行ったりして」
「すごい熱の上げ方っすね」と鈴木。
「すごいどころじゃないですよ。先生が、眼鏡をかけている子が好みだ、と話した翌日に眼鏡をかけてきたり。先生が好きだと言っていた昔の漫画を全巻揃えたり。それにその先生の近くに女子生徒が近づくと、ものすごく怖い顔で睨むんです。しまいには先生の口癖まで真似するようになるし。恋を通り越してもはや狂気でしたよ」
普通の冴えないおじさんって感じの先生だったのに、なにが良かったんでしょうね、と沖田が首をかしげる。
「事件が起こったのは、それからしばらく経ってからです。学校内に噂が流れました」
「噂?」
「ある女子生徒が、数学の先生とデキてるって噂です。なんでも二人がホテルに入っていくところを見た生徒がいるとか。その女子生徒ってパパ活をやってるような子でしたから噂というより、ほぼ間違いなく事実でしょうけど」
沖田はお茶を一口飲んでから言葉をつづけた。
「で、噂が流れてから少し経った後に、その女子生徒が学校の階段から突き落とされる事件が起こりました。彼女は腕を骨折しちゃったんですが、結局犯人は見つかりませんでした」
「それが間宮の仕業だというのですね」
「一度だけ聞いたんです。あの事件お前がやったのかって。そしたらあいつ、『俺を裏切ったからいけないんだ。だから大事なものを奪ってやった』と言いました。冗談めかして言っていましたけど、目はまったく笑っていませんでした。俺、なんかゾッとしちゃって。ああこいつ本当にやったんだって思いました」
好意を寄せていた相手が、女子生徒と関係を持っていたことに逆上した間宮は、その報復として彼女を階段から突き落とした。その話が真実だとすると、間宮はそうとう嫉妬深く、危険な男であることがうかがえる。
もしも間宮が、茂と美代子を殺した動機が嫉妬だったとしたら? 純也に好意を抱いていた間宮が、何らかのきっかけによって逆上し、彼の両親を殺したという可能性もあり得るのではないか。
けれど、なぜプレイキラーを模倣する必要があったのだろうか、という疑問についてはいまだ謎のままであった。
丸山のスマートフォンに着信があったのは、ちょうど沖田宅を後にした二人がカローラに乗り込んだ直後だった。
画面に表示されていたのは監察医の大橋の名前だった。
「あ、丸山さん? 僕です、大橋です」
大橋の無遠慮な声が通話口から聞こえてきた。丸山は車を運転している鈴木にも聞こえるように、スピーカーをオンにした。
「伊崎夫婦の解剖が終わったんで、お電話しました」
「何かわかったか」
「ええ、まあ。犯人につながる決定的な手掛かりはありませんでしたけど。なかなか利口な犯人ですよね。仕事が増えるばっかりで本当嫌になっちゃいます」
丸山は、無駄口はいいから報告だけしろ、と言いたくなるのをぐっと堪えた。「それで、検死の結果は?」
「二人とも、死因は頸動脈を切断されたことによる失血死でした。死後五日ってとこですかね。殺害現場の写真を見ましたが、血の飛び散り方からして、夫婦はあの場所で殺されたと見てまず間違いないでしょう。茂の方は抵抗した形跡は全くありませんでしたが、美代子には手や腕にいくつかの防御層がありました」
防御層とは被害者が犯人と格闘した際に、手や腕にできる切創や刺創のことである。
「つまり犯人は二人をあの空き家に呼び出し、不意打ちで茂を殺害。その後、美代子も殺したということか」
「ま、そんなとこですかね」
捜査員の調べによると、二十九日の午後一時三十四分に茂の職場に電話があり、その五分後の三十九分には美代子の職場に電話があった。どちらも公衆電話からだ。取り次いだ人間に訊いたところ、どちらも若い男の声で、電話を終えた二人は血相を変えて職場を飛び出したのだという。
その公衆電話の近くに設置されている監視カメラの映像に間宮の姿が映っていたので、おそらく電話の主は彼だろう。
しかし間宮は何と言って二人をそこにおびき出したのかについては、まだわかっていない。
「あ、それともう一つ気になることがありました。二人の手首の皮膚に、二種類の縄の繊維が付着していたんです」
「どういう意味だ?」
「犯人は、夫婦を殺害した後に縄──便宜上、縄Aとしましょう──で手首を縛った。それからしばらく経った後、なぜか犯人は縄Aをほどいて、別の縄Bで夫婦の手首を縛ったということです」
「その縄はなにか特殊なものなのか」
「縄Bの方は、過去のプレイキラー事件で使用されていたのと同一のものでした。ひょっとすると、プレイキラーが結び直した可能性もありますよ」
「だが結び方が違っていただろ。過去四件はただの固結びだったのに対して、今回のは蝶々結びだ。それも縦結びの」
丸山の言葉に大橋は、気になるなら犯人を捕まえて聞いてみればいいじゃないですか、と投げやりな返事をよこした。どうもこの男は、少しでも早く会話を終えたがっている様子である。
「どちらもホームセンターなどで大量に出回っているものなので、ここから犯人を特定するのは難しいとは思いますけど。ま、頑張ってください。僕はこれから美人女医とランチなんで」
大橋は一方的にそう言い残すと、こちらの返事も待たずに通話を切った。
プレイキラーが間宮の犯行に手を加えた? そんな馬鹿な。
「一度ほどいて結び直すって、なにが目的なんすかね」と鈴木。「結び方が気に食わなかったとか?」
「鑑識の報告によると、遺体があった部屋の中には二種類の靴跡が残されていたそうだな」
「たしか二十七センチと二十八センチの靴跡っす。大きい方の靴跡の上に重なるようにして、小さい靴跡が残っていました。第一発見者の伊崎君と溝口さんは玄関で靴を脱いでいたから、二人のものではない。となると、二十八センチの靴跡が間宮のもので、二十七センチの方は縄Bを結び直した人物の靴跡…ってことになるんすかね」
「伊崎茂の靴のサイズは何センチだ?」
「二十七っす」鈴木が即答する。彼は人の顔を覚えるのは苦手だが、紙に書かれた文字や数字を覚えることに関しては、誰よりも長けているのだ。
「現場に夫婦の靴がなかったことを考えると、後から来た人物が持ち去った可能性が高い」
「靴なんか持ち帰って何になるんすか、戦利品?」
「自分の靴跡を残さないために、玄関に置いてあった伊崎茂の靴を履いて家の中に入ったとしたら?」
「あっ、それで二十七センチ…」鈴木が言う。「ええっと、つまり整理すると…。二十九日の午後に間宮は、伊崎夫妻を空き家に呼び出して殺害、手首を縄Aで縛り、現場を立ち去る。このとき、二十八センチの間宮の靴跡が残った」
鈴木はハンドルを操作しながら言葉をつづける。
「それからしばらくして、空き家にプレイキラー…、かどうかはわかりませんが、二人目の人物がやって来る。そいつは玄関にあった茂の靴を履いて、二階に上がった。そして伊崎夫妻の手首を縛っていた縄Aをほどき、縄Bを結び直した。この際に二十七センチの靴跡が現場に残った。その後、そいつは茂の靴から自分のDNAが出ることを恐れ、靴を持ち帰った…。ってことっすか」
「そう考えれば辻褄は合う…が」丸山はまだ納得がいっていない表情である。
「なぜ二番目にやってきた人物は、あの家の中に死体があることを知っていたのか、っすよね。間宮と面識のある人物か、もしくは共犯者か」
「それと縄を結び直した目的についても不明だ。そんなことをして何になる」
「考えれば考えるほど、わかんないっす」
鈴木がそう言って頭を振ったのとほぼ同時に、丸山のスマートフォンが振動した。
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