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 *


 ようやく二人が取調室から解放されたのは、午後二時を過ぎたころだった。溝口と純也は肩を並べ、けれどなにか会話を交わすわけでもなく、ただ黙々と家路を歩いていた。

 太陽は傷心の二人の頭上に、容赦のない日差しを降り注いでいる。

 東京都内とはいえ、どちらかというと田舎に属する神山市は、新宿や池袋のような都会的な賑やかさとは無縁だ。そのため閑静な住宅街であるこの辺りは、この時間帯になるとほとんど人の通りが絶えてしまう。会社員や学生たちがみんな出払ってしまうからである。

 溝口はその静かな時間帯に街をぶらぶら散歩するのが好きだった。しかし今日は違っていた。足取りは重く、二人の間に横たわるのは息が詰まるほどの沈黙である。

「その、なんて言ったらいいか…。今回のことは本当に残念だったね」

 溝口はかすれ気味の自分の声を聞きながら、なんて情けないのだろうと思った。人の心を癒す心療内科医でありながら、傷ついた純也の心を慰める気の利いた言葉がひとつも出てこない。これでは医師失格だ。

「悔しかったでしょうね。あんな無残な殺され方」

「ごめん、僕がもっと早く通報していれば…」溝口の脳裏には、夥しい数の蛆虫に群がられる二人の姿がフラッシュバックしていた。

「悪いのは両親を殺した犯人ですから、先生が気に病む必要はありません。むしろあんな状態でも見つかってよかったと思っています。あのまま誰にも発見されず、骨になって朽ちていくよりはずっとマシですから」

 溝口はただ無言で小さく頷くことしかできなかった。

 再びの沈黙。住宅街には二人の足音と、どこかの家から聞こえてくるピアノの音だけが響いていた。あまりにも耐えがたい静けさだったため、純也が住んでいるマンションが道の向こうに見えたとき、溝口は内心ほっとしたくらいだった。

「先生は五日前、二十九日の夕方から夜にかけて、どこにいましたか」

「七時ごろに診療所を出た後、まっすぐ家に帰ったよ。お父さんが家にいたけど、証人にはならないかな。僕が帰った時にはもう寝ていたから」もう何度も警察に話した内容であったため、溝口の答えには淀みがなかった。

「すみません、先生を疑っているわけではないんです。ただ…」

「わかるよ。気にしなくていい」もしも自分の愛する人があんな殺され方をしたら、溝口だって同じことを純也に聞いていたに違いない。

 駐輪場の前で純也は立ち止まった。溝口もつられて足を止めた。マンションの入り口はもう少し先にある。なぜこんなところで止まっているのだろう。彼の視線は、駐輪場に停めてある黒い自転車の前カゴに注がれていた。

「子猫…?」溝口が首をかしげる。

 あれはたしか純也の自転車だったはずだ。以前に乗っているところを何度か見た記憶がある。その前カゴには二匹の子猫が仲良く並んで寝そべっていた。キジトラと黒猫だ。

 純也は無言で自転車に近づくと、右手でその二匹の子猫をまとめて掴み上げた。

「ちょっと純也君?!」

 だが子猫はそんな状況でも嫌がる素振りひとつ見せず、純也の手に身をゆだねていた。よく見ると二匹は目を見開いたまま絶命していた。刃物によって首元には大きな裂創ができており、頭と胴体がほとんど千切れかかっている。

 頸動脈から流れ出た血が純也の手を滴り落ち、地面に赤黒い染みを作った。

 純也の手の中で横たわる二匹の猫は彼の両親を彷彿とさせた。

「け、警察呼ばないと」

 溝口が震える手でスマーフォンを取り出し、警察に通報しようとしたが、純也の手がそれを阻んだ。純也は溝口の手首を掴んだまま首を振る。

「必要ありません」

「でも…」

「時間の無駄です」純也はぐるりと首を巡らせ、周囲を見回した。「この辺りには監視カメラはありません。どうせ目撃者もいないでしょうし、無駄に警察に拘束されておわりです」純也はそう言って踵を返すと、マンションの入り口へと歩き始めた。

「純也君っ」今度は溝口が彼の腕を掴んで引き止めた。「やっぱり警察に言うべきだ。これは君の自転車だろ。もし君の両親を殺した犯人の仕業だとしたら、家も自転車も特定されているってことになる」

 溝口はまるで、親が聞き分けのない子供に噛んで含めるような口調で言葉をつづけた。「犯人が君を殺しに来るかもしれないんだよ」

「その時は」純也は血走った瞳の中に溝口の姿をとらえながら言った。「その時は僕が殺します」

 彼は溝口の手をそっと払い除けると、マンションへと歩き去っていった。溝口はただ茫然とその後姿を見つめることしかできなかった。

 溝口の頭の中で十一年前の言葉が鮮やかに蘇った。

 ──殺しておくべきだった。

 溝口は胸を押さえ、二、三歩たたらを踏んだ。激しく脈打つ心臓の音が耳の奥で鳴り響いていた。

 十一年前、純也が高校一年生のころ。彼の同級生の男子生徒が全治二か月の怪我を負い、女子生徒は手首を切って死んだ。

「化学準備室の中からかすかに悲鳴が聞こえたので、扉を開けてみると、彼女が襲われていました」

 まだあどけなさの残る十六歳の純也は、初めて訪れたクリニックの診察室で、そう言った。彼の隣には母の美代子が苦しげな顔で座っていた。

 純也の話によると、自殺した女子生徒は彼が高校に入ってから初めてできた彼女で、その日は二人で一緒に帰る予定だったらしい。だが化学実験室に忘れ物をしていたことに気がついた彼女は、純也を校門の前に待たせて、忘れ物を取りに行った。

 純也はしばらく校門で待っていたが、なかなか帰ってこない彼女のことが心配になり、化学実験室に向かった。

 実験室に彼女の姿はなかったが、化学準備室の中からくぐもった悲鳴が聞こえてきた。扉を開けた純也の目に飛び込んできたのは、彼女の上に覆いかぶさる男の後姿だった。

 その後のことはよく覚えていないらしい。気がつくと純也は、騒ぎを聞いて駆けつけた先生によって羽交い絞めにされていた。あとで目撃者から聞いた話によると、純也は血まみれになった男子生徒に馬乗りになり、首を絞めていたとのことだった。

 さいわい騒ぎになることを恐れた学校と保護者たちのおかげで、警察沙汰になることは免れた。けれど噂が広まったことを苦にした女子生徒は、その事件からしばらくも経たないうちに自殺してしまった。

 純也の不眠症が悪化したのはその日からである。

 診察室で溝口の向かいに座った純也は血走った目で言った。

 ──殺しておくべきだった。

 先ほどの純也は、十一年前のあのときと同じ目をしていた。



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