3-2
*七月四日
阿佐ヶ谷駅に到着した電車がため息と共に乗客を吐き出した。老若男女さまざまな顔ぶれの乗客たちが左右に分かれ、それぞれの目的地へ歩いていく。彼らの背中を見送った電車は、再びため息をついて扉を閉めた。
発車を告げるメロディが駅のホーム内に鳴り響く。電車は徐々にスピードを上げて遠ざかり、やがて見えなくなった。
ホームはそれほど混雑していなかった。大学生らしい若い男女や、スーツを着た会社員、制服姿の高校生たちが一定の間隔をあけて立ち、次の電車を待っている。みんな手元のスマートフォンに夢中だったため、誰一人として、ベンチに座るやたらに目つきの鋭い男の存在に気がつく者はいなかった。
純也はホームの端から端へ、充血した目をゆっくりと巡らせた。先ほどから彼の目はホームの上を何往復もしている。寝不足のせいで朝の日差しがやけにまぶしく感じ、頭痛もしたが彼は少しも構わなかった。
純也は腕時計に目をやった。もうすぐ彼が探している男──阿川克彦がここにやって来るはずである。昨日会社から退勤した阿川を尾行して、最寄り駅や自宅、彼が帰りに立ち寄るレンタルビデオ店まで突き止めたので間違いない。
本当は自宅に押し掛けてもよかったのだが、阿川の自宅近くに警察の捜査車両らしき車が停まっていたので、やめておいた。おそらく死体のある場所を予め知っていたので、重要参考人としてマークされているのだろう。
もしもただの交番巡査である純也が、勝手に阿川と接触していたことが露見すれば一体なにを言われるか。そうなれば宮原の胃にはきっと穴が開くだろう。彼にはこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。
と、純也の目が向こうからやってくる阿川の姿をとらえた。
黒縁の眼鏡をかけた四十代くらいの男。肩まであるふんわりした長い髪と、黒目がちの大きな目のせいで、雨の日のマルチーズを連想させた。
阿川はタイミングよく到着した電車に乗り込んだ。純也もそのあとに続く。
電車内は鮨詰めというほどではないが、それなりに人はいた。純也と阿川は扉の傍に立っており、その周囲を取り囲むように高校生の集団が立っている。これなら阿川を尾行している刑事がいたとしても、彼らの目を盗んで阿川と接触できそうだ。
電車が静かに発車した。
「阿川克彦さんですね」純也は小さな声で阿川に話しかけた。
声をかけられた男は一瞬ぎょっとした表情を浮かべてから頷いた。「そうですが…あなたは?」
「神山交番巡査の伊崎といいます」
純也は“神山交番”という言葉をわざと早口かつ小声で言い、巡査という単語だけを強調するように言った。なぜなら今日は非番で警察手帳は持っていないし、なぜ交番の巡査が事件の捜査をしているのかと聞かれると困るからだ。
「ああ警察」阿川は顔を歪めた。
「教えてください。なぜあなたはあの廃ホテルに死体があることを予め知っていたのですか」
「何回来たって無駄だよ。悪いけど警察の人間とは話さないって決めてるんだ」
「どうしてですか、人が死んでいるんですよ。もしなにか知っているのなら教えてください。それに現時点であなたは、事件の重要参考人として疑いをかけられています。疚しいことがないのなら、きちんと証言して疑いを晴らすべきです」
「疑いねえ」阿川が鼻で笑う。「じゃあ聞くけど、あんたら警察は、疑いをかけられた人間がその後どんな人生を送るか考えたことがあるわけ?」
「…どういう意味ですか」
電車が減速して高円寺駅に停車した。
「つまり、俺はあんたら公僕とは同じ空気を吸いたくないってこと」阿川はそう言うと駅のホームに降り立ち、雑踏の中へと姿を消した。
純也だけを乗せた電車はため息とともに扉を閉め、ゆっくりと走り出す。
車内ビジョンには、千葉県の鹿野山の山中から男女二人の人骨とみられるものが発見されたことを報じるニュースが映っていた。
神山駅で降車した純也は自宅に続く道を歩いていた。今日は気温三十六度の猛暑日で、ただ歩いているだけで汗が噴き出してくる。はじめのうちは日陰を選んで歩いていたのだが、今はもうどうでも良くなってしまった。日向だろうが日陰だろうが暑いことに変わりはない。日光で炙られるか否か程度の違いである。
純也はただ機械的に足を動かし続けていた。暑さと寝不足のせいで頭は断続的に鈍い痛みを発しており、少しでも立ち止まると倒れてしまうような気がしたのだ。
後ろから声をかけられたのはそんな時だった。
「純也君?」
聞き覚えのある声に振り返ると、溝口の姿があった。「あ、溝口先生。おはようございます」そう言いながら純也は二、三歩たたらを踏んだ。振り返った拍子に、立ち眩みを起こしたのだ。
溝口の顔が途端に険しくなった。純也の腕を引っ張り、日陰へと誘導する。「あまり眠れていないね?」
彼は純也を一目見ただけで不眠を見抜いたらしい。それとも自分はそんなに顔色が悪いだろうか。「まあ、少しだけ…」純也は片手で頬を撫でながら答えた。
「最後に寝たのはいつ?」
「最後…いつだろう…」昨日は眠っていない。その前はどうだったか。眠っていないような気がするが記憶があいまいで自信がない。じゃあその前は?
「そんな寝不足の状態で、この炎天下の中を散歩していたわけ?」
溝口の顔がますます険しくなった。純也はしまったと唇を噛んだ。こうなったときの溝口は非常に面倒くさい。患者と医師が治療を二人三脚で行うことの重要性について、懇々と語り聞かされるのだ。ほらきた。
「純也君、何度も言うようだけど、僕がどれだけ薬を処方しようが、君自身が不眠を克服しようという気持ちがなければ、なんの意味もないんだからね。不眠症の治療は医師と患者が二人三脚でやっていくものなんだから。いいかい、ご両親を心配する気持ちも──」
「今日はお父さんは一緒じゃないんですか」純也は溝口の話を遮って質問をした。
「うん、ちょっと交番に行くだけだから──」溝口はそこまで言って、はたと口をつぐんだ。彼の顔には、余計なことを言ってしまった、と書かれていた。
「交番って、なにかあったんですか」
「いや、べつに…そういうわけじゃないけど」
「僕は警察官ですよ。先生がなにか困っていることがあるのなら、力になりたいんです。話してください」
「でも君、今日は非番だろ。大したことじゃないし、宮原さんに相談するから大丈夫だって」
「だったら」純也が溝口の肩をつかんだ。「警察官としてではなく、ご近所さんとして話を聞かせてください」
溝口の視線が宙をさまよう。彼は明らかに困った表情を浮かべていた。もう一押しだ。
「悪いけど、そんな顔色の悪い人間には相談する気にはなれない。君は今すぐ家に帰って寝るべきだ」
純也はなにも答えず、ただじっと彼の目を見つめ続けた。十年以上の長い付き合いの中で、溝口は押しに弱いこと──とくに無言の圧力に弱いことを純也は心得ていたからだ。
しばらくの間続いた睨み合いは純也の方に軍配が上がった。
「わかった、わかったから」溝口は両手を上げて降参のポーズをとった。「話すから、そのかわり今日はちゃんと家に帰って寝るって約束しろよ」
「約束します」
溝口は腰に両手を当てて純也の顔を見、それから道の先を指さした。「ここから少し行った先に、空き家になっている家があるのわかる? 二階建ての家で、庭に松の木が植えてある家なんだけど」
「ええ、わかります。たしか以前は老夫婦が住んでいましたよね」純也は歩きだした。後ろから溝口が、まさか行くつもり、と非難めいた声を上げるのを聞きながら。
「その家がどうかしたんですか」
「二、三日前から、家の前を通ると異臭がする」純也に追いついた溝口はぶっきらぼうに答えた。「家に帰って寝るって約束は?」
「もちろん守ります。この件が片付いたら」
溝口がため息をついた。純也は超能力者ではなかったが、彼が今なにを考えているのかは手に取るようにわかった──この男を信用した僕が馬鹿だった。
「ここですね」
純也は件の民家の門扉の前に立ち、中を確認した。玄関に向かって右側には屋根付きの駐車場があった。左側には庭があるが、雑草が生い茂り小さなジャングルと化している。
そしてこの家の周囲にはたしかに異臭が漂っていた。
「ほらあそこの窓」溝口が二階のすりガラスの窓を指さした。「前はあんな黒いカーテンは掛かっていなかったはずなんだけど」
純也はなにも答えず、門扉を押し開けた。アプローチを進む。
先ほどから鼻を突くこの臭いも、あの窓にかかる黒いカーテンも、なにが原因なのか彼には見当がついていた。口には出さなかっただけで。
「純也君、それはまずいって。不法侵入だから」
純也は腕をつかんで引き止めようとする溝口を振り払い、ドアノブに手をかけた。扉はすんなりと開き、ドアの隙間から異臭が流れ出てきた。魚やチーズなどの生ごみを何日もかけて発酵させてような、強烈な臭いだ。
「先生、警察に通報してください」
口元を抑えて小刻みに頷く溝口を横目に、純也は玄関へと足を踏み入れた。
日が高いおかげで電気がなくとも室内は十分明るい。
玄関の正面には廊下を挟んで、障子戸の開いたままの和室が二部屋並んでいた。純也は靴を脱ぎ、左側にある階段に足をかけた。階段の隅には埃が溜まっていたが、踏板の真ん中あたりには埃はそれほど積もっていない。足跡こそなかったが、最近誰かがこの階段を使用したのは間違いなさそうだ。
二階に上がると異臭はより一層強くなった。それにブーンブーンと機械が唸るような音も聞こえてくる。吐き気を催す腐乱臭も耳障りな羽音も、すべてあの廃ホテルで嗅いだ臭い、聞いた音とまったく同じだった。
「うっ」純也の後をついてきた溝口が呻き声をあげた。二階に色濃く漂う死の気配に、胃の内容物がせり上がってきたのだ。
純也は廊下を進んだ。床板が軋む音に混じって、コツン、コツンと爪でガラスを叩くような音が聞こえていた。音源は廊下の一番奥の部屋からだ。
二人は閉め切られた障子戸の前に立った。格子状の枠にはまったすりガラスの向こうには、黒い小さな生き物がびっしりと張り付いているのが見えた。その正体は丸々太った蠅である。彼らは六本の細い足を蠢かせ、ガラス戸にコツンコツンと体当たりしながら、部屋から出ようとしているのだ。
純也は障子戸に手をかけて開いた。
夥しい数の蠅が黒い煙となって二人に襲いかかった。
「ぎゃっ」と悲鳴をあげた溝口が耳を抑えて、その場にうずくまる。あまりにも強烈な腐乱臭によるものか、彼の目からは涙がこぼれた。
二人の周囲には大量の蠅がブンブン羽音を唸らせながら飛び回っている。
「と…さん…」純也の呟きはその不快な羽音によって搔き消された。
「…え?」うずくまっていた溝口が顔だけを上げた。彼の瞳に映ったのは、その場に立ち尽くす純也の横顔だった。純也はまるで蠅など存在していないかのように、両腕をだらりと垂らし立ち尽くしていた。
「母さん…」純也は呆然と部屋の中を見回した。
広い和室の壁にも天井にも、至るところに大きな黒い蠅が止まっており、畳の上には数えきれないほどの白い蛆虫が蠢いている。壁、畳、天井、すべてが無数に蠢く虫たちに覆いつくされているせいで、まるで部屋全体が歪に波打っているような錯覚を抱く。
その部屋の中央に、仰向けに寝そべる茂と美代子の姿があった。
純也は覚束ない足取りで二人のもとに歩み寄った。
一歩踏み出すごとに、足の裏で蛆虫や蛹がプチプチと音を立てて潰れ、体液が靴下を濡らした。耳元では蠅たちが羽音を唸らせて飛んでいたが、彼は少しも気にする素振りを見せなかった。
純也は両親の傍にひざまずいて二人を見た。
手前には茂が、その奥には美代子が肩を並べて寝そべっている。
二人がいなくなった六月二十九日に殺されたとしたら、五日もの間ここに放置されていたことになる。
二人の皮膚は茶色く変色し、そのほとんどの部分を蛆虫と蠅が覆っていた。ぽっかり空いた眼窩と口には蛆虫がぎっしり詰まっているし、顔は生前の面影がまったく見当たらないほど醜く膨張し変色していた。けれど純也は一目でこれが両親であることを見抜いた。だって純也はこれまでの二十七年間、毎日彼らと顔を合わせていたのだから。
純也は血走った目でなおも二人を見続けた。
美代子の左の首筋には深い裂創があり、それは茂も同様だった。おそらく頸動脈を切られたのだろう。畳は流れ出た血によって、どす黒く変色していた。
二人は靴を履いていなかった。たしか玄関の三和土には靴はなかったはずだ。畳に広がる血の量から推測するに、犯行現場はこの部屋であることは間違いないので、靴は犯人が持ち去ったのだろう。
二人の両手首は麻縄によって胸の前で縛られ、祈るようなポーズをとっていた。
プレイキラーか、それとも間宮による模倣犯か。おそらく後者だと純也は思った。
なぜなら三島咲月の手首の縛り方と、両親の手首の縛り方がまったく異なっていたからだ。咲月の場合はただの固結びだったが、両親の場合は蝶々結び──それもいわゆる縦結びと呼ばれる結び方である。
しかし一点だけ気になる点があった。それは両親の手首を縛っている縄が、三島咲月のときのものと同一であるように見えたことだ。縄の種類も太さも色もそっくりだ。これは偶然の一致だろうか。間宮とプレイキラーは共犯関係にあるという可能性も、視野に入れておいた方がいいかもしれない。
家の外でパトカーのサイレンが聞こえても、警官が階段を上がって来る足音が聞こえても、純也は二人から目を離さなかった。
三島咲月の遺体を見たとき、この家の玄関に入ったとき、障子戸に手をかけたとき。純也は最悪の事態を想定していた。いや、本当はもっと前から両親が死んでいる姿を何度も想像していた。
だがこんなものは違う。絶対に違う。頭の中で思い描いていた両親の死はもっと奇麗なものだった。虫にたかられ、肉を食い漁られ、卵を産みつけられる姿など、一度だって想像しなかった。三島咲月の死体を見た後ですら。
「…違う」
純也は二人を見つめながら呟いた。
こんなことは絶対にあっていいはずがない。善良で優しかった両親の死が、これほど壮絶なものであっていいはずなど。
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