3-1
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神山交番に到着した丸山たちを出迎えたのは、宮原という名前の巡査部長だった。白髪の目立つ初老のその男は過剰なほど腰が低く、一回り以上も年下である鈴木に話しかける時ですら敬語を崩さなかった。捜査一課の人間になにかトラウマでもあるのかと思ってしまうほどの恐縮ぶりである。
「神山大学に通う三島咲月さんという女性をご存じないっすか」鈴木がタブレットを宮原に向けた。画面には三島咲月の顔写真が写っている。
宮原は一瞬の逡巡の後、あいまいに頷いた。「存じ上げております」
「実はこちらの交番の巡査が、三島さんの行方を捜索しているという噂を小耳にはさみまして。その方とちょっとお話できないっすかね」
「それはたぶん、うちの伊崎のことだと思います。あいにく今日彼は夜勤なのでまだ出勤しておりませんで…。あのう、うちの伊崎がなにか捜査一課の方のご迷惑になるようなことを、してしまったのでしょうか?」
「そういうわけじゃないっす、全然。ただ話が聞きたいだけっす」
「伊崎は悪い奴じゃないんですよ。ただちょっと他人と比べて優しすぎると言いますか、正義感が強すぎると言いますか。困っている人を放っておけないんですね。そのせいで時々、勝手な行動を──」腕時計にちらちらと目をやっていた宮原がふと顔を上げ、交差点を渡る男にむかって手を振った。「来ました、来ました。おーい、伊崎」
丸山はこちらに小走りで駆け寄ってくる男の方を振り返り、そして、おやと思った。
伊崎巡査は鈴木と同世代くらいだが、鈴木よりも背が高く、引き締まった身体と意志の強そうな目を持っていた。鈴木と付き合いのある丸山ですら、彼ら二人のうちどちらが刑事に向いていそうかと問われれば、間違いなく純也を選んでしまうだろう。
しかしそんな彼でも、一点だけ鈴木に負けているところがあった。それは血色の良さである。あまり眠れていないのだろうか。整った顔立ちをしているが、充血した目の下には灰色の隈ができており、そのせいで少し病んでいるような印象を受ける。
「お疲れ様です、宮原さん。こちらの方は?」純也が宮原に敬礼した。
「こちらは警視庁捜査一課の丸山刑事と鈴木刑事だ。三島咲月さんの件でお前に話を聞きたいそうだ」宮原はさっと交番の扉を開けると、二人の刑事を中に入るよう促した。「ささ、立ち話もなんですから、中へどうぞ」
交番に入るときに丸山は背後で、宮原が伊崎に「どうしてお前はいつもいつも余計なことに首を突っ込むんだ」と耳打ちするのを聞き逃さなかった。どうやら宮原は彼の教育に手を焼いているらしい。
「へえ、隠しカメラっすか」純也から、三島咲月の部屋に隠しカメラが仕掛けられていたという話を聞いた鈴木は、腫れぼったい目を驚きに見開いた。「その情報ははじめて聞きました」
「隠しカメラを仕掛けた隣人は、三島さんが失踪する少し前に入院先で亡くなっているので事件性はなしと判断され、報告されなかったのではないかと思います」純也が答える。
「カメラに移っていた間宮の動きに不審な点はなかったか」と丸山。
「直近一か月分の映像を早送りでざっと確認しただけですが、なかったように思います。ですよね、宮原さん」
「ええ、ごく普通の大学生…あっ、又貸しは普通の大学生はやりませんね。すみません。不審な点はなかったと思います」
「その映像、もしお持ちでしたら後でお借りしてもよろしいっすか」
鈴木の申し出に宮原は快くうなずいた。「もちろんですとも」
「伊崎、お前はどうして三島咲月の行方を追っている?」
「はじめのうちは三島咲月さんのお父さんの力になってあげたくて探していました。ですが今は…」純也は目を瞑って首を振った。「三島さんを探しているというより、間宮を探していると言った方が正しいです」
「どうしてっすか」
「この四日間、両親と連絡が取れないんです。僕たちが通報を受けて三島さんの部屋に行ったのが、二十八日の朝。僕が神山大学周辺で三島さんと間宮について聞き込みを始めたのが二十九日の朝。そして両親との連絡が途絶えたのは、その日の夜です。もちろんただの偶然かもしれませんが、僕は間宮が両親の失踪に関係しているような気がして、彼の行方を追っています」
たしかに間宮を探り始めた途端、両親が行方不明になったというのは引っかかる。間宮を追っていた純也からすれば、なにか関係があるのではと勘繰ってしまうのも無理はない。
間宮が最後に目撃されたのは例の奥多摩のキャンプ場である。二十八日の朝九時、彼は一人で山を下りてバス停に向かい、それ以後はぷっつりと足取りが途絶えている。
なぜ間宮は警察に疑いの目を向けられるよりも先に姿を消したのか、丸山にはずっと疑問だった。
けれどもしも、キャンプ場から帰宅した間宮が、咲月の部屋の前にいる二人の警官の姿を目撃したとすればどうだろう。自分の身に捜査の手が迫っていると勘違いした間宮が姿をくらましたという線も十分あり得る。
もちろんこれは、間宮がなにかやましいことを抱えているという前提での話ではあるが。
「それで、間宮についてなにか掴んだのか」
「ええ、まあ…」純也は少しの間、あごに右手を当てて考え込んだ後、意を決したように視線をあげた。「逆にお二人はどうして三島さんを探しているのですか。いや…、探しているのは三島さんではなく間宮ですよね。間宮に関する情報の方が食いつきがいいし──」
「伊崎っ。変なこと言ってないでちゃんと話さないか」宮原が慌てて純也をたしなめた。「すみません、こいつ両親の件で少し参っているみたいで」
だが純也はなおも食い下がる。「奥多摩の事件で逮捕された男は間宮の友人ですよね。間宮はあの事件に関わっているのですか」
「あの事件には無関係っすよ」
その言葉を聞いた純也がはっとした表情で口を結び、うっかり余計なことを口走った鈴木の脛には、丸山の痛烈なキックがお見舞いされた。
「痛って、すみません」
「もしかしてお二人は、独自に間宮の行方を追っているのですか」純也が尋ねる。
「なぜそう思う?」
「警察としてちゃんと間宮と三島さんの行方を捜査しているのなら、真っ先に三島さんの父親に話を聞きに行くはずですから、隠しカメラの件は知っているはずです。なのにお二人は知らなかった。それに間宮が奥多摩の事件とは無関係ということは、警察は彼を追う理由がありません」
純也は背筋を伸ばして言葉をつづけた。「以上のことから、お二人は独自に捜査をしているのではないかと考えました。違いますか」
丸山はそうだとも違うとも答えなかった。しかし隣に座る鈴木が感心した様子で「たしかに…」と呟いてしまったので、彼の推理が正解であると認めたも同然だった。やはり鈴木よりも純也の方が刑事に向いているのではないか?
「警察としての正式な捜査でないならば、僕が協力する義務はありませんよね。僕の情報が欲しいなら、そちらの持っている情報も出してください」
「いい加減にしないか、伊崎」宮原が懇願するような声を上げた。「どうしちまったんだよお前は。ここ最近ちょっと変だぞ。顔色も悪いしパトロール中もうわの空だし。ご両親を心配する気持ちはわかるけど、ちゃんとお二人に知っていることをすべて──」
宮原は突然口をつぐんだ。いや、神山交番内にいた全員が口をつぐみ、通信指令室から入った緊急指令に耳を傾けていた。
それは、神山市内の山中にある廃ホテルにて女性の変死体が発見された、という連絡だった。死体はなんと屋上から逆さ吊りにされているらしい。よほど物好きな自殺者でない限り、まず間違いなく他殺だろう。つまり捜査一課の出番というわけだ。
四人があわただしく立ち上がり駐車場へと駆ける。
「先導します」
純也は、グレーのカローラに乗り込む丸山と鈴木にそう声をかけ、パトカーに乗り込んだ。
二台の車がその廃ホテルに到着したのは、まだ十六時半過ぎだったが、山の中はすでに闇に包み込まれていた。分厚い雲が太陽の日差しを遮っていたことに加え、雲から漏れ出たわずかな光さえも、周囲に立ち並ぶ背の高い鬱蒼とした木々が遮断しているせいだ。
そのため四人は、誰かがおぼつかない足取りで車両に近寄ってくるのを、視覚ではなく聴覚によって気がついた。
純也が音の方に懐中電灯を向ける。
光の輪の中に二人の男女の姿が浮かび上がった。
二人とも二十代後半くらいで、どちらもひどく青ざめていた。おそろいの派手な蛍光色のパーカーに、女の方は厚底のスニーカー、男に至ってはサンダル履きである。とても山に入る服装とは思えない。
「通報者の方ですね」宮原が男女に駆け寄る。「遺体はどちらに?」
男が震える指で斜め上を指さした。彼の顔は、くるくる回転するパトランプのせいで血のように赤く染まっている。「う、うら…。裏に回ったところに、ぶら下がってる…」そこまで言うと男は自分の二の腕をさすり、首を左右に小刻みに振った。
女の方はなにも言わず、男の服の裾を握りしめている。どうやら二人の精神はもう限界まで来ているらしい。
「つらかったですね。パトカーの中でお待ちください」宮原は彼らをいたわるように優しくパトカーに案内する。
残った三人はホテルに向かって歩き始めた。
その建物はどうやら、もとはラブホテルだったらしい。くすんだ外壁はひび割れて崩れ落ち、一階から八階までの全ての窓が割られている。駐車場の入り口にかかった、ぼろぼろに千切れた目隠し用の黒いカーテンは、女の髪の毛のようで、湿った風が吹くたびにゆらゆらと不気味に揺れた。
丸山たちは雑草の生い茂る地面を踏みしめながら、ホテルの裏手へ歩いていく。草木のこすれる音と、虫の声、そして自分たちの足音以外はなにも聞こえない。足元を照らすのは、純也と丸山の手に握られた懐中電灯の細い光だけだ。
息をふうふう弾ませた鈴木が言った。「あの人たち、どっかで見た気がするんすよね」
「ゆうゆりですよ」と純也がスマートフォンの画面を操作しながら答える。
「あっ、ゆうゆり。そうだそうだ、なんか久しぶりに見たっす。って伊崎君、こんな暗いところで歩きスマホは危ないっすよ」
鈴木に注意された純也は「すみません」と言って、それをポケットにしまった。
「ゆうゆりってなんだ?」と丸山。
「動画配信者っす。彼氏のゆうたろうと彼女のゆりなの二人で、カップルの日常やおもしろ動画なんかを配信している人たちっすよ。昔はけっこう人気があったんすけど、最近は新しい子たちに押されて、だいぶ苦戦してるみたいっすね。あ、てことは、ここへは撮影で来たのかな」
「…なるほど」丸山には結局彼らが何の仕事をしているのか、今一つわからなかったが、とりあえず頷いておいた。
ホテルの裏手に回った三人は足を止めた。奇妙な音が三人の鼓膜を震わせたからだ。機械が唸るような音と、なにかが水面に落ちるような音である。
──ブーンブーン、ぺちゃっ。ブーンブーン、ぺちゃっ、ぺちゃっ…。
それは三人の頭上から聞こえていた。
丸山は懐中電灯の光を音のする方へ向けた。丸く切り取られた光の輪の中に黒い影が浮かび上がる。
初めてそれを目にしたとき、それがいったい何なのか三人にはわからなかった。そこに死体があると予めわかっていたにも関わらず。これまで百体以上の死体を見てきた丸山ですら、それが人間の死体であると理解するのに数秒の時間を要した。
なぜならその死体は上下が逆さまで、そのうえ、皮膚全体を丸々と太った蛆や、黒光りする甲虫に覆われていたからである。
死体は地面から二メートルほどの高さの場所にぶら下がっていた。死体の足首には縄が巻き付いており、それは屋上まで続いている。おそらく足首を縄で縛られた状態で屋上から突き落とされ、そのまま放置されたのだろう。肌は腐敗によってどす黒く変色してしまっているため、女であるということ以外、年齢も顔の特徴もわかりそうにない。
死体の周囲をおびただしい数の蠅が羽音を立てて飛びまわり、皮膚の上をシデ虫や蛆虫たちがひしめき合うようにして這いまわっていた。ぽっかりと空いた眼窩と口内には蛆がぎっしり詰まっている。
真下の地面には、死体から出た体液によってできた黒い水たまりがあったが、時おりそこに、競争に負けて餌場から突き落とされた蛆虫が、ぺちゃっと水しぶきを上げて落下していた。
生温い風が三人の鼻先に腐乱臭を運んだ。それはなんとも形容しがたい、嗅いだだけで吐き気を催すような死体独特の臭いだった。
「うっ」鈴木が口元を抑えて茂みの奥へ駆けて行った。ゲエゲエと嘔吐する音が聞こえてくる。まあ、この状況なら無理もない。
丸山はちらりと隣に立つ純也に目をやった。
純也は顔色ひとつ変えず死体を凝視していた。死体を見慣れている鈴木ですら耐えられなかったのに。彼は懐中電灯の光をゆっくり動かして、死体の細部を観察している。その横顔からは、恐怖や嫌悪感といった表情は一切読み取れなかった。
丸山の脳裏に宮原の言葉が蘇った。
──伊崎は悪い奴じゃないんですよ。ただちょっと他人と比べて優しすぎると言いますか、正義感が強すぎると言いますか。
優しくて正義感の強い男? こいつが? こいつの目はまるで──。
「プレイキラーですか」純也は死体から目を離さずに言った。
彼の持っている懐中電灯のライトが死体の手元を照らしている。死体はバンザイをするように腕を地面に向かって伸ばしているが、その両手首は麻縄で縛られ、祈りを捧げるときのように指を組まされていた。
「僕がさっき言った話、考えてくれましたか」怪訝な顔で首をかしげる丸山に、純也は言葉を続ける。「お互いに持っている情報を交換しようという話です」
「悪いがこっちは間宮について、ほとんどなにも知らないんだ。交換したくてもできねえよ」
「だったら、さっきの二人の事情聴取に僕を同席させる、というのでも構いません。そうすれば僕は知っている情報をすべてお話しします。僕は事情聴取の間、一切口を挟みません。どうです、悪い話ではないと思いますよ」
「事情聴取に?」彼の意図がわからなかった。なぜ、ただの第一発見者に過ぎない彼らの事情聴取に参加したがるのだろうか。この遺体と間宮にいったいどんな関係が…。
そこまで考えたとき、ある考えが丸山の脳裏にひらめいた。
まさか。
丸山は純也の方に顔を向けた。
純也は死体から一度も目を離していなかった。ただその場に立ち尽くし、死体の足のつま先から頭のてっぺんまで、舐めるように観察している。懐中電灯の周りに虫が寄ってこようが、丸々太った蠅が顔の傍をかすめようがお構いなしに。
丸山は純也の横顔に懐中電灯の光を当てた。「本当に使える情報なんだろうな」
「ええ。保証します」純也が上を向いたまま言った。彼の充血した瞳には死体以外なにも映っていない。
悪い話ではないと思った。あの二人は単なる第一発見者で、何か重要な情報を持っているとは思えないし、犯人を目撃した可能性もほぼゼロに等しい。この男を彼らの事情聴取に同席させるだけで間宮の情報が手に入れられるのなら、安いものであると。
その時、突然起こった一陣の風が、水たまりの上に蛆虫の雨を降らせた。落下した蛆虫は黒い体液の上で身をくねらせている。突風にあおられた一匹の蛆虫が純也の足元に転がっていった。
純也はそこでようやく死体から目を離すと──、
ぷちっ。
その蛆虫を踏み潰した。
「伊崎、一つだけ教えろ。この遺体は」
純也はしばらく靴のつま先で地面を躙った後、丸山の方を振り返った。「おそらく三島咲月さんです」
彼の懐中電灯の明かりが死体の手元を照らした。その人差し指には光を反射させ、きらきらと輝くピンクゴールドの指輪がはまっていた。
狭いパトカーの車内に四人の男が座っていた。
運転席には鈴木が、助手席には純也、そして後部座席には丸山とゆうたろう──本名、木村悠太郎の姿があった。悠太郎の顔が青いのは冷房のせいではないだろう。
窓の外ではぽつぽつと雨が降り始めていた。先ほどまで草木のこすれる音と、虫の声以外なにも聞こえなかった森の中に、今は大勢の人間の話し声や慌ただしい足音が響いていた。
到着した所轄署の警官たちには現場の保全と周囲への聞き込みを命じている。さいわいなことに捜査一課の連中はまだ到着していない。つまり、交番の巡査を事情聴取に同席させていることについて、難癖をつけてくる人間はいないということだ。
「あの、ゆりなは…?」悠太郎がかすれた声で訊いた。
「お二人が乗ってこられた車の中で待機してもらっています」丸山が言う。「女性警官が付き添っていますので、ご安心ください」
「そうですか…よかった」
「おつらいとは思いますが、死体を発見された時の状況を伺っても構いませんか」
丸山の問いかけに、悠太郎は乾いた唇を舐めて頷いた。
「なぜお二人はこの廃ホテルに来たのですか」
「動画配信をするためです。僕たちゆうゆりチャンネルというチャンネル名で、カップル系の動画を投稿しているんです。今回は夏の納涼企画ってことで、知人から教えてもらった廃ホテルで一泊するという生配信をするつもりでした」
「所有者に許可は取っていますか」
悠太郎は気まずそうに視線を漂わせ、首を横に振った。「バレなければ、いいかなって…、すみませんでした」
薄々そうではないかと思っていたが。まあ、今はいいだろう。丸山は気を取り直して次の質問を投げかけた。「知人というのはどなたですか」
「阿川克彦さんという人です。僕たちの動画を編集してくれている人で、その人に、ここに行けばきっと面白いものが撮れるから、と強く勧められて来ました。はじめはもっと近場の有名な心霊スポットに行く予定だったんですけど、あんまり強く言ってくるので仕方なく…。やっぱり来るんじゃなかった」
わざわざ予定を変更させて二人を廃ホテルに行かせた? それにその阿川という男はまるで、この場所に死体があることを予め知っていたかのような口ぶりである。
「阿川さんの勤め先と連絡先はわかりますか」
「えっと…」悠太郎はスマートフォンをポケットから取り出して、阿川の電話番号とメールアドレスを読み上げた。「ソレイユという名前の映像制作会社で働いています」
「ありがとうございます。では、ここに来てから、死体を発見するまでの状況を詳しく教えていただけますか」
「ここに到着したのは、たしか…三時前くらいだったと思います。到着してもすぐにはホテルに入らず、暫くゆりなと一緒に車の中で機材の準備や、打ち合わせなんかをしました。それが終わってからホテルの中に入りました」
「何時ごろですか」
「三時四十七分です。ホテルに入る前に生配信の告知をSNSに投稿していたので、間違いありません」悠太郎はスマートフォンの画面を丸山に向けた。
画面には彼の自撮り写真とともに生配信を告知する文面が映っていた。
『夏の納涼企画!廃ホテルに泊まろう!
今日はなんと関東K市にある廃ホテルに一泊しちゃいます。ここは編集担当のAさんから聞いたイチオシの心霊スポットです。Aさんいわく、「ぶら下がる女の化物がいる」とのこと。
ここでは昔、女性の首つり自殺があったらしいし、もうすでに膝がガクガクです笑。
果たしてゆうゆりは生きて帰ることができるのか!?
生配信は本日午後七時から、お楽しみに!』
丸山は心の中で舌打ちをした。なぜ純也が、ただの第一発見者に過ぎない彼らの事情聴取に同席したがったのかを、今になって理解したからである。
純也は死体発見現場に行く前にスマートフォンで、この投稿を読んでいた。だから彼は、“知人のAさん“が悠太郎たちをこの場所に来させたことを、あらかじめ知っていたのである。つまり純也が事情聴取に同席することを望んだのは、知人のAさん──阿川克彦の身元を聞き出すためだったというわけだ。
丸山は助手席に座る純也の後頭部を睨みつけた。このクソガキ。
「死体を発見したときの状況を教えてもらえますか」丸山は苛立たしげに、ペン先で手帳をコツコツ叩いた。
「あ、はい。えっと…、二人でホテルの中を見て回りました。僕たち以外に人がいないかの確認と、撮影するのによさそうな場所を探すためです。一階から順番に見てまわったんですけど、いい感じの場所がなくて。それで二階も見てみようということになりました。階段を上ると、ものすごい異臭が立ち込めていました。窓の外に顔を向けると、なにかがぶら下がっているのが見えました。はじめはそれが何なのか、わかりませんでした。でも髪の毛がついているから、ああこれ人の頭だ、窓の外に女の人がぶら下がっているんだ、と思って…。腰を抜かしているゆりなの肩を抱いて、慌てて外に出て通報したって感じです」
話し終えた悠太郎が不安げな目で丸山をちらりと見た。彼の顔には、なぜこの刑事は苛立っているのだろう、と書いてあった。
「その際に不審な人物を見かけましたか」
「いいえ、見ていません」
「そうですか。ご協力ありがとうございました」手帳を閉じた丸山は、心のこもっていない形式的なお礼を述べた。それから運転席にいる相棒の名前を呼んだ。「鈴木」
鈴木が後部座席を振り返り、悠太郎にタブレット端末を向けた。画面には間宮慧斗の顔写真が映っている。「この男性、見たことないっすか」
悠太郎は、見たことない人です、と言って頭を振った。
狭いパトカーの車内に三人の男が座っていた。
運転席には丸山が、助手席には純也、そして後部座席には鈴木の姿があった。悠太郎は、遅れて到着した捜査一課の人間に引き渡した。
雨脚がいつの間にか強くなっている。雨の滴が透明な尾を引いて窓の外を滴り落ちていった。
「それで、お前は間宮についてなにを知っている?」
「今年の五月二十九日。ある女性が、男に襲われて殺されかける事件が起こりました。被害者の名前は森京香さん、二十歳。神山大学の経済学部に通う二年生。襲われた場所は神山市内の自宅マンションです」純也は手帳を開き、そこに書かれていたマンション名と部屋番号を読み上げた。
メモを取っていた丸山の手が止まる。「ちょっとまて。一か月前にそんな事件があったなんて聞いていないぞ」
「でしょうね。森さんは被害届を出していませんから」
「だったらその情報はどうやって手に入れた?」
「本人から直接聞きました。三島さんの行方を捜して神山大学周辺で聞き込みをしているときに、彼女の友人である女性から『自分の友人に、岡田たちが開いた飲み会に参加した翌日から、大学に来なくなった子がいる』という話を聞きました。それが森さんでした」
純也の言葉によると、その日の夜、彼女は岡田が開いた飲み会に参加していたのだという。参加者は男女合わせて十人ほどで、その中には間宮の姿もあった。
しばらくの間は楽しく会話に興じていたはずのだが、途中から記憶がぷっつりと途絶えている。自分がなにを飲み、友人たちとどんな会話をしていたのか、いつ眠ってしまったのかすらも覚えていないのだ。
京香は酒には強い質だったし、記憶が飛ぶほど酒を大量に飲んだとも考えづらい。今になって思い返してみると、あの中の誰かに薬を盛られたとしか考えられないと、京香は語った。
目を覚ました彼女の視界に真っ先に飛び込んできたのは、闇の中に浮かび上がる、能面をつけた不気味な男の姿だった。
男は京香の首に手をかけると、ぐいぐいと締め上げた。もちろん彼女も抵抗したが男の手から逃れることはできなかった。
地獄のような時間は永遠に続くかのように思われた。なぜなら男は、首を絞められた京香が死にそうになる瞬間を見計らって、腕の力を弱めるからである。そのせいで彼女は中途半端に蘇生してしまうのだ。
男は京香の反応を楽しむかのように、締めては緩め締めては緩めを繰り返し、執拗に京香を責めたてた。あまりの苦しみに、何度殺してくれと願ったかわからない。
それからどのくらい経っただろうか。彼女はようやくその地獄から解放された。男が腕の力を緩めずに彼女の首を絞め続けたのである。このとき京香は薄れゆく意識の中で、ようやく死ねることを心の底から喜んだのだという。
しかし彼女は生きていた。なぜ生きているのか自分でもわからなかったが、彼女が目を覚ましたときには周囲はすっかり明るくなっており、そのときになってようやく、自分が自宅のベッドの上で仰向けになって倒れていることに気がついた。
「それが間宮の犯行だったというのか?」純也の話を聞き終えた丸山が訊いた。
「森さんは後日、その飲み会に参加した友人に電話で話を聞いてみたそうです。すると、森さんと間宮はその飲み会を途中で抜け出していたことが、判明しました。もちろん彼女にはそんな記憶は一切ありませんでしたが。それで、能面男の正体は間宮だったのではないかと、思ったと話していました」
「なぜ被害届を出さなかった?」
「森さんは間宮に対して恋愛感情を抱いていました。そのため警察に言うのをためらってしまったようです」
「殺されかけたにも関わらず、間宮をかばったというわけか」丸山は運転席のシートに背中を沈めた。そのときに被害届を出してくれていれば、こんな状況にはなっていなかったのだが。
「それともう一つ。森さんが目を覚ましたとき、彼女の両手首はロープで縛られていました。こんな風に」純也はそう言って両手の指を組み合わせ、祈るようなポーズをとった。先ほどホテルの裏で見た、三島咲月がしていたのと同じポーズだ。
丸山は助手席の純也に身体を向けた。「間宮がプレイキラーだと…? 馬鹿な、そんなはずはない」
「僕も正直耳を疑いました。だって彼の犯行は、これまでのものに比べるとあまりにも杜撰ですから。あの状況で森さんを殺せば、一緒にいた間宮に疑いが向けられることは明白です。今まで一つも証拠を残していないプレイキラーが、そんな間抜けなことをするとは思えません」純也が、そうですよね、と丸山に同意を求める。
丸山はなにも答えなかった。余計なことを口走って、目の前にいる男にヒントを与えることだけは絶対にしたくなかった。
しかし純也と丸山の意見は一致していた。
プレイキラーは犯行を誰にも目撃されず、証拠も残さない秩序型の犯行である。それに対し、間宮の場合は話を聞く限り、何の計画性もない行き当たりばったりの犯行であり、プレイキラーのやり方とは似ても似つかない。
それに殺しの手口もまるで異なる。プレイキラーの場合、被害者にオキシドールを飲ませたり、石を抱えさせて水に沈めたり、屋上から逆さ吊りにしてみたりと、殺人をエンターテインメントとして楽しんでいるのが窺える。そんな人間が殺人の方法に単なる扼殺を選択するとは考えづらい。
やはり間宮はプレイキラーの模倣犯だと考えるのが妥当だろう。
「情報はそれだけか」
丸山の問いかけに純也は無言で頷いた。
丸山は、そうか、と言いドアハンドルに手をかけた。
「丸山刑事」純也が彼の背中に呼び掛けた。
丸山は半分ドアを開いた状態で動きを止めた。森の闇と喧騒が車内に流れ込み、雨粒が彼の手の甲を濡らした。
「もし三島咲月さんのお父さんに会ったら、伝えて欲しいことがあります。力になれなくて申し訳なかったと」純也の声はかすかに震えていた。
車を降りた丸山のもとに、神山市内にて老夫婦の変死体が発見されたという連絡が入ったのは、それから五分ほどたった後のことだった。老夫婦は両手首を縛られた状態で、水を張った狭い浴槽の中に向かい合って座っていた。浴槽には水面が見えなくなるほど大量の氷が浮かんでいた。
死因は低体温症による心肺停止だろう、とのことだった。
丸山は首の骨をポキポキ鳴らしながらため息をついた。なんだか今日はやけに疲れたような気がする。わずか一日の間にプレイキラーによる犠牲者が三人も発見されたのだから、それも当然だろう。
「先輩」所轄署員と話していた鈴木が、丸山のもとに駆け寄ってきた。「遺体の所持品から身元が割れました。あの遺体、三島咲月さんで間違いなさそうっす」
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