2-4
*
クリニックに現れた純也を見た溝口は、一目で彼の不眠を見抜いた。
前回来たときには、あんな隈は目の下にはなかったはずだ。しかも純也の診察は二週間に一度のペースで行われている。それなのに前回の診察からまだ四日しか経っていない今日、このクリニックを訪れたということは、なにか精神的に追い詰められるようなことがあったということだ。
「こんな早いペースで来るのは珍しいね。なにかあった?」
「両親が家に帰ってこないんです」溝口の向かいの椅子に浅く腰掛けた純也は、膝の上に置いた両手に視線を落とした。「二人とも二十九日に職場を早退してから音信不通なんです。仕事も無断で休んでいるみたいだし、何度もメッセージを送っているんですが、既読にもなりません。こんなことは今まで一度もなかったから、もしかしてなにか事件に巻き込まれたんじゃないかと思うと心配で」
「知り合いや、警察には?」
「思いつくところは手あたり次第に連絡を取りましたが…」純也は首を横に振った。「今朝、行方不明者届を出しました。でも事件性がないから、受理しただけで探してくれないでしょうね」
なるほど。ここ最近低下していた睡眠の質に加え、両親の失踪。純也の顔色が悪くなるわけだ。
「僕、ひどい顔していますよね」溝口の心を見透かしたように、純也が自虐的な笑みを浮かべた。片手で自分の頬に触れる。「この三日間、ろくに眠れていません。目を瞑るとあの夢の光景ばかりが浮かぶんです」
「ご両親と連絡が取れなくて、心配する気持ちが睡眠の質に影響しているんだろうね。二人が見つからない限り、改善できそうにないか…」
「ええ、おそらく。良くない方にばかり想像してしまって、それが頭の中でぐるぐる渦巻くんです」
「それはつらいね。少しだけ薬の量を増やしてみようか。それと心を落ち着かせる薬も処方しておくよ」
純也は無言で頷いた。こんなに元気のない彼を見るのは何年振りだろう。
溝口は本来、むやみに睡眠薬の量を増やすことには反対だったが、今回ばかりは仕方がないと思った。ボールペンがカルテの上を走る音が室内に響く。
「たぶんあの夢は」
俯いていた純也がぽつりと呟いた。その声は酷く小さくて低かったので、溝口は返事をせず、ボールペンを動かしていた手を止めて顔を上げた。先ほどの声を純也の声としてではなく、なんらかの音として認識したからである。
「えっ、なにか言った?」
純也と目が合い、そして溝口はぎくりと身体を強張らせた。彼がひどく薄暗い目をしていたからである。いつもの純也とは違う、虚ろな目だった。
──その目。
しかしそれもほんの一瞬のことで、純也はすぐに元の優しい目に戻っていた。その目に先ほどまでの薄暗さはどこにも無い。「なにも言っていませんよ」純也が微笑む。
溝口はボールペンを置いて、机の上で両手を組んだ。自分の心臓がいつもより速く脈打っているのを感じた。
雲が太陽を覆い隠した。窓から差し込んでいた日差しが無くなり、診察室の中がほんの少しだけ暗くなった。
──殺しておくべきだった。
十一年前、純也が言った言葉はいまだに溝口の耳の奥にこびりついていた。
「先生、どうかしましたか?」
純也の声で我に返った溝口は、悪い考えを振り払うかのように小さく頭を振った。「いや、なんでもない」
「純也君、今日仕事は?」
「今日は夜勤なので十五時に出勤です。それまでは神山大学の周辺で、失踪した女子大生についての聞き込みを行おうかと思っています」
「神山大学ってたしかこの前、女子学生が死体で発見されたところだよね?」溝口は目を瞬かせた。「どうして純也君がその女子大生を探しているの、もしかしてその事件と関係が?」
「関係があるかはまだわかりませんが、彼女のお父さんがすごく心配している様子だったので、力になってあげたくて。僕の両親を探すついでに、平行して彼女の行方も調べています」
溝口は眉間を押さえてため息をついた。また純也は自分の時間を他人のために使っているのか。彼の正義感の強い性格は評価しているが、こればかりは、やめさせなければならない。でないと彼の身体が壊れてしまう。
「夜勤は何時まで?」
「明日の朝十時までです」
溝口は腕時計に目をやった。時計の針は午前十時半を指している。「今から明日の十時まで二十四時間、動き続けるつもり?」
「仮眠の時間もありますよ」
「故障寸前の君の身体が、たかが数時間の仮眠で回復するとでも? あのね、純也君。僕がどれだけ薬を処方しようが、君自身が不眠を克服しようという気持ちがなければ、なんの意味もないんだ。不眠症の治療は医師と患者が二人三脚でやっていくものなんだから。それに仮眠と言ったって寝られるとも限らないし」
そこで溝口は、はたと口をつぐんだ。一言余計な言葉を口走ってしまったようだ。彼はわざとらしく咳払いをして続けた。「とにかく、仕事を休めとは言わないけど、せめて仕事の時間までは家でゆっくり体を休めること。いいね?」
「…はい」純也は不承不承ながら頷いた。
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