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 純也が自宅マンションの扉の前に立ったのは、午後六時を少し回った頃だった。

 太陽はもう頭上にないが、まだ完全に日が暮れたというわけではない。梅雨から夏に移り変わる時期に特有の、じめじめした空気と遅い日の入りが共存した、赤紫色の夕方だった。

 ドアノブに鍵を差し込んで開錠する。

 扉を開けた純也は、おや、と思った。リビングに続く廊下は真っ暗で、三和土には茂の靴も美代子の靴もない。いつもならば、両親はとっくに帰宅している時間だ。それなのに部屋には人のいる気配がまったくなかった。

 純也は三和土で靴を脱ぎながらスマートフォンを開いた。メッセージアプリに両親からの連絡は届いていない。

 リビングの扉を開けてみても、やはり真っ暗な部屋があるばかりで両親の姿はなかった。夕飯を作る美代子の姿も、ビールを飲みながらテレビを見ている茂の姿も。

 知人のお見舞いとかお葬式とか、そういったなにか急な用事でも入ったのだろうか。だとしても自分に連絡を寄越さないのはなぜだろう。純也はささやかな違和感を覚えつつ、ソファに腰を沈めた。

 念のため両親にはメッセージを送っておいた。気にはなったが、今日あった出来事が純也の心の中の大部分を占めていたため、両親の不在はすぐに頭の隅に追いやられてしまった。


 今朝、交番に出勤した純也は宮原に、神山大学の周辺を重点的にパトロールすることを提案した。三島咲月は何かしらの事件に巻き込まれて失踪した可能性があるため、パトロールを強化すべきだ、というのが純也の言い分だった。

 いちおう理屈は通っている。通ってはいるのだが、宮原は渋った。

 理由は簡単。宮原は長い付き合いの中で純也の性格を熟知していたからだ。この提案を許可すれば、純也はパトロールだけでなく、咲月を探すために神山大学の生徒たちに聞き込みを始めるだろうということは、容易に想像がついた。

 もしも大学から警察にクレームが入ったら? もしも川藤美希殺害事件の捜査をしている、刑事課の方々の邪魔をしてしまったら? 考えただけで宮原の胃はキリキリと痛んだ。そういうことは上からの要請があったときだけやればいいのだ。

 だが結局、事件に巻き込まれているかもしれない女性を放っておくのですか、と純也に詰め寄られた宮原は、しぶしぶ了承してしまった。咲月の父親の動揺振りを見ていた身としては、むげに断るわけにはいかなかったのである。

「ただし、話を聞いていいのは三島咲月と繋がりのあった人間だけだ」宮原は、いそいそとパトロールの準備に取りかかっている純也の背中にむかって、そう付け加えた。

 咲月がSNSで親しくやり取りをしていた人間のみ、聞き込みを行っていい。それが譲歩できるギリギリのラインだった。


「咲月? そういえば最近、学校に来てないみたいですよ」咲月の友人の女性は、大学から一番近いコンビニの駐車場でスナック菓子を頬張りながら言った。二人は高校からの付き合いらしい。

 その日、純也たちは一人の女性に話を聞くことができた。パトロール中に運よく咲月の友人と遭遇する確率など、ほとんど無いに等しい。パトロールを行う時間帯と、大学生が講義を受けている時間帯がかぶっているのだから当然だ。宮原はそれを見越して、あの提案をしたのだが。不幸にも純也は咲月の友人を見つけてしまったのだ。

「それはいつ頃のことですか」純也が尋ねる。

「いつだろ…」女はスマートフォンをポケットから取り出し、素早く指を動かした。「あ、五日前の二十四日です。学校にいなかったからメッセージを送ったんですけど、返信がなくて。いまだに既読がつかないんですよね」

「行先に心当たりはありませんか」

「さあ…。ていうか咲月、またいなくなったんですか」

「また?」と宮原。「以前にもこういうことがあったんですか」

「中学のときは父親と喧嘩したとかで、『こんな家出てってやるー』って叫んで、夜中に家を飛び出したみたいですよ。そのときは友達の家に転がり込んでいたところを、見つかって連れ戻されたって言ってました。高校のときも親子喧嘩で家を飛び出して、そのときは一週間くらい見つからなかったんですよね。父親が捜索願を出したみたいで結構な騒ぎになっちゃって、私の家にも警察が来ましたよ」

 なるほど。純也はあのとき、咲月の父親が捜索願を出すことに及び腰だったことに、ようやく納得がいった。咲月は過去に二度、家出をしており捜索願も出している。もしかしたら今回もただの家出なのではないか、また警察の手を煩わせ迷惑をかけてしまうのではないか。そんな風に考えてしまったのだろう。

「ちなみにこちらの方に見覚えはありませんか」純也がスマートフォンの画面を女に向けた。そこには咲月のマンションの部屋に住んでいた男の姿が映っている。

「ああ、間宮君? 彼がどうかしたんですか」

「お知り合いですか」純也が訊く。

「何度か話したことがあるってくらいですけど。あ、そういえば間宮君、咲月の家に住まわせてもらってるって言ってました。ほら、あの…、なんて言うんでしたっけ。部屋を無断で貸し出すやつ」女は何かを思い出そうとして、指でつまんだスティック状の菓子を頭のそばでくるくる回した。

「又貸し?」と宮原。

「ですです、それです。なんか間宮君、ギャンブルやりすぎて家賃が払えなくなったとかで」

 やはり当初の予想通り、間宮は咲月の部屋に住まわせてもらっていたらしい。隣人が隠しカメラを仕掛けているとは知らずに。

「二人は付き合っていたんですか」という純也の問いに、女は首を振った。

「付き合ってはいなかったと思います。あの子はホストの男と同棲してるみたいだったし。ああ、同棲って言うのもちょっと違うかな。咲月がよく、『頑張ってパパ活して、タワマンの部屋を買ってあげたのに彼氏が全然帰ってきてくれない』って嘆いてましたから。たぶんカモとしか思われてなかったんじゃないかな」

「それはその…、なんというか気の毒ですね」と宮原。

 パパ活していたうえにホストにマンションを買い与え、あげくカモとしか見なされていなかったなんて、父親が聞いたら卒倒しそうな話だ。女が教えてくれたホストのSNSアカウントには、咲月の話題は一つも投稿されていなかった。ひょっとしたら彼女が五日前に失踪したことすら気がついていないのではないか。

「この前も咲月のやつ、『彼氏から指輪もらった。やっぱり私は彼に愛されてるんだ』って喜んでたんだけど、あとで調べてみたらその指輪って一万円くらいの安物だったんです。その時はさすがに別れた方がいいって言ったんですけど、聞く耳を持たなくて」女はスマートフォンの画面を純也に向けた。「これです。人差し指につけている指輪。一万二千円」

 画面には咲月の自撮り画像が映っていた。どうやら彼氏にもらった指輪をSNSで自慢していたらしい。彼女の人差し指には、ジルコニアが横に五つ並んだピンクゴールドの指輪がはめられている。

「マンションとこの指輪では、つり合いが取れそうにありませんね」と純也。

「咲月は男を見る目がないから。間宮君も…」女はそこで不自然に言葉を区切った。前髪をいじりながら目を細める。それは太陽の陽射しが眩しいからではなく、なにか言いにくいことを言うべきか否か迷っている心の動揺が、無意識に行動に現れたといった感じだった。

「間宮君も?」純也が繰り返す。

 女はすこし迷った様子で視線を彷徨わせた。口はつぐんだままだ。

 もう一押しか。純也は彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。「あなたから聞いたことは誰にも漏らしません。もちろんあなたから聞いたということも。だからどんな些細なことでも構わないので、僕たちに教えてくれませんか」

 女は手に持っていたスナック菓子を袋に戻したあと、周囲に人がいないことを素早く確認し、声を潜めた。「間宮君に関して、ちょっと良くない噂があるんです」

「良くない噂?」

「いや、間宮君っていうか…彼の友達の噂です。彼の友達に岡田っていう男がいるんですけど、そいつちょくちょく女の子たちを誘って、バーベキューとか飲み会とかを開いてるんです。間宮君もそれによく参加しているみたいで。ただ、ちょっと変なのが…」女はさらに声を落とした。「どんなにお酒の強い子でも、岡田の開いた飲み会に参加すると、あっという間に酔っ払っちゃうんですよね。それこそ記憶が飛んじゃうくらいに。ねえ、これってちょっと変じゃないですか」

 純也の眉間の皺が深くなった。「まさかレイプドラッグですか」

「確証はないけど、たぶんそうです。ほんと最低」女も純也に同調して顔をしかめた。「だから私、咲月には何度も、彼とはあまり仲良くしない方がいいって忠告していたんですよ」

「三島咲月さんがその飲み会に参加したことは?」と宮原。

「さあ…そういう話は聞いたことないけど」

 女子大生の失踪に、部屋の又貸し、そしてレイプドラッグ。なんだかきな臭くなってきた。と同時に純也の心の内には、間宮と岡田に対する怒りがふつふつと湧いてきていた。

「私の友達にも、あいつの飲み会に参加した翌日から、大学に来なくなっちゃった子がいたんです。心配になってその子の家に行ってみたら、もともと華奢でかわいい子だったのに、ガリガリに痩せて見る影もなくなっちゃってて…。理由を聞いたんですけど教えてもらえませんでした。でも、あいつらに何かされたに決まってます」女は両の拳を強く握りしめていた。


 腕時計のアラームの音で純也は我に返った。

 時刻はいつの間にか七時になっていた。窓から差し込んでいた夕日は完全に消え、窓の外に広がるのは夜の闇である。ぽつぽつと細かな雨粒が叩く黒い窓ガラスには、ソファに座る純也の姿が映っていた。

 洗濯物を取り込まないと。純也はソファから立ち上がる前にメッセージアプリを確認してみたが、両親からの連絡はなかった。既読にもなっていない。

 掃き出し窓を開けてベランダに出ると、生温い湿気が肌に纏わりついてきた。

 雨に濡れてしまった洗濯物を部屋に放り込みながら、家の前の道路に目をやった。黒く濡れたアスファルトと、不規則に明滅する蛍光灯があるばかりで、両親の姿はおろか通りを歩く人影すらなかった。


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