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 *六月二十九日


 丸山と鈴木はいま目の前にいるこの男のことが少し、いや、かなり嫌いだった。

 大橋明、三十歳。東京大学の医学部に現役合格。その後、大学を学年七位の成績で卒業し現在は都内にある、この監察医務院に監察医として勤務。何人もの女に、結婚してほしいと言い寄られているが、まだまだ遊んでいたいので独身貴族を謳歌している。

 なぜ丸山がこんな情報を持っているのかというと、答えはいたってシンプルだ。大橋が事あるごとにこれらの自慢話を吹聴しているからである。

「それで身元は割れたのか」丸山は、鼻の穴が上を向いているという点を除けば、男前である大橋の顔を見て言った。大橋の机には、奥多摩の事件の被害者である女の司法解剖の結果が書かれた書類がある。

「被害者の名前は川藤美希、二十歳。東京都神山市にある神山大学の文学部に通う二年生です。それと彼女、フォロワー数が十万人を越えるインフルエンサーだったようです」

 大橋からさし出されたスマートフォンの画面には川藤美希のアカウントが表示されていた。タワーマンションでパーティーをしている写真や、高そうなレストランの料理など、きらびやかな写真が並んでいる。彼女のSNSが最後に更新されたのは三日前で、残念ながら昨夜の足取りを追う手がかりになりそうな投稿はなかった。

「死因は?」

「亀岡さんの見立てどおり溺死です。ただ、どうだろうな」大橋は椅子の上で組んだ脚を、優雅な動作で組み替えた。丸山は彼の芝居がかった仕草も嫌いだった。「右側頭部に打撲痕があったでしょう。あれって溺死する前に殴られた痕なんですが、そのせいで頭蓋内に出血が起こっていました。急性硬膜外血種です」

「つまり…、どういうことっすか」

「溺死しなくても、その出血がいずれ脳を圧迫して死んでいただろう、ということです。すぐに病院に連れて行けば助かったのになあ、かわいそうに。ああでも、犯人がそんなことするはずないか。はは」

「片方のピアスがなくなっていただろ」

「ええ、右耳だけ。生活反応があったので、おそらく犯人と揉み合っているうちに千切れちゃったんじゃないですか。それと爪の間から採取された皮膚片ですが、残念ながら警察のデータベースに一致するものはなかったそうです」

 つまり前科はなしということだ。

「あ、そうだ。川藤美希は都内の病院に何度か緊急搬送されていたそうですよ。病院のカルテに記録が残っていました」

「病気でもしてたんすか」

「いいえ、睡眠薬のオーバードーズです。キラキラのインフルエンサーでも闇を抱えているんですねえ」大橋が肩をすくめた。

 オーバードーズとは薬の過剰摂取のことだ。本来、一日の容量が決められている市販薬や睡眠薬などを一度に何十錠も服用する行為で、十代から二十代の若者たちを中心に行われている自傷行為の一種である。

「ほかにわかったことは?」と丸山。

「体内からアルコールと睡眠薬の成分が検出されました」

「その睡眠薬って被害者本人のものっすか」

「いやあ、それが川藤美希が病院で処方されていたものとは異なるんですよね。しかもこの薬、レイプドラッグとして悪用されるような、かなり悪名高い薬です。お酒と一緒に飲むとすぐに意識が朦朧としてきて、記憶があいまいになっちゃうんです」

「じゃあ、こういう可能性が考えられるっすよね。犯人は川藤美希にレイプドラッグを盛り、眠っている彼女を襲おうとした。しかし睡眠薬のオーバードーズを何度か行っていた川藤美希には効果が薄く、彼女は行為の途中で目を覚ましてしまった。抵抗する彼女に腹を立てた犯人は、頭を殴って気絶させ、自殺に見せかけて殺した。…どうっすか、僕の説?」鈴木は丸山の方を振り返った。

 しかし丸山は難しい顔で検案書に集中しており、彼の話を全く聞いていなかった。鈴木の視線はゆっくり宙をさまよい、大橋に向けられた。

 鈴木と目が合った大橋は肩をすくめた。「妥当な推理だと思います」

「先輩、先輩」大橋にお墨付きをもらった鈴木は得意げである。「犯人男っぽいっすよ」

 おそらく馬込との賭けのことを言っているのだろう。丸山は、ふんと鼻息を鳴らした。

「助かった。手間とらせて悪かったな」丸山が大橋に言う。

「丸山刑事のためなら喜んで」大橋は左胸に手を当てて忠誠のポーズをとったあと、右手をひらひらと振ってみせた。「僕はこのあと医学部の同窓生たちと伊豆まで小旅行に行く予定ですが、もしなにか聞きたいことがあったら、いつでも連絡してくれて構いませんよ。お二人とも捜査、頑張ってくださいね。チャオ」

 やっぱりこいつ嫌いだ。


 監察医務院を後にした丸山と鈴木は、山のふもとにあるコンビニに来ていた。

 日本全国にチェーン展開している有名なコンビニで、店先にはアイスクリームの写真がプリントされたのぼりが立っている。どうやら今、世間で流行しているアニメ映画とコラボした目玉商品らしい。自動ドアの脇には薪の束が積み上げられていた。キャンプに来た人が買うのだろうか。さいわい駐車場には車が一台も停まっていなかった。店内にも人影はない。これなら店員に嫌な顔をされずに聞き込みができそうだ。

 丸山は自動ドアをくぐった。

「らっしゃあせ~」

 やる気のない挨拶が二人を出迎えた。丸山はレジを待っている客がいないのを確認すると、店員に警察手帳を見せた。「すみません、ちょっとお時間よろしいですか」

「なにか事件っすか」二十代前半と思われる店員は途端に目を輝かせた。先ほどのやる気のなさは掻き消え、自分が刑事ドラマの登場人物になったかのような興奮がにじみ出ていた。「あっ、もしかして昨日、川で発見された死体のやつっすか」

「話が早くて助かります」丸山は手帳から取り出した写真を店員に見せた。写真には川藤美希が映っている。「この女性に見覚えはありませんか」

 店員は細めた目を写真に近づけて頷いた。「見ました、見ました。死体が発見される前の日の朝だったかな。男女四人でこの店に来たんすよ。たしか十時頃っす」

「男女四人というと、男二の女二ですか」と丸山。

「ええ、カップル同士で来たのかなって思ったんで間違いないっす。あの子すごくかわいかったでしょ。ニュースでインフルエンサーだったって聞いて納得しましたよ。男の方も恐ろしくイケメンだったから、あっちもインフルエンサーだったんすかね」

「彼らの様子に不審な点や、気になったことはありませんでしたか」

「んー…、ちょっとわかんないっす。ああでも、これからバーベキューをするんだろうなあとは思いました。『バーベキューなのに、焼き肉のたれを買い忘れるとかやばい』って言って笑ってたんで」

 このあたりでバーベキューができる場所と言えば、山中にあるキャンプ場か。

「その時、店番をされていたのはあなた一人でしたか」

「はい。同じシフトの子が急に熱出して休んじゃったんで、ワンオペでやってました」

「ご協力ありがとうございました」丸山はカウンターの上に置かれた写真を手帳に戻した。店の天井に設置されている監視カメラを指さし、言葉を続けた。「ちなみにあの監視カメラの映像を見せていただくことはできませんか」

「聞いてみましょうか」店員はバックヤードに顔を向けた。「店長ー。刑事さんが昨日の事件の捜査で、監視カメラの映像見せてくれって言ってますよー」

 店の奥から出てきた、気の弱そうな五十絡みの男は、快く監視カメラの映像を見せてくれた。

「たぶんこの四人組じゃないですかね」店長がパソコンを操作していた手をとめて言った。

 画面には二十七日の午前十時半頃の店内の様子が映し出されている。それと四人の男女が楽しげに会話をしながら買い物をしている姿も。

 川藤美希はまさかこの後、睡眠薬を盛られるだなんて思いもしていなかっただろう。

 マッシュルームカットの男と、センターパートの男、ショートカットの女、そして長髪の女。長髪の女は川藤美希で間違いない。先ほど店員が“恐ろしくイケメン”と言っていたのは、センターパートの男だろう。

 四人とも仲が良さそうだが、カップル同士というのは違うのではないかと丸山は感じた。

 五分ほどの映像の中で、川藤美希はセンターパートの男に対してしきりにスキンシップを取っているが、男から川藤美希へのスキンシップは皆無である。恋人同士というよりは、川藤美希が一方的に好意を寄せているといった方が正しい気がする。もちろん、単に人前でいちゃつくのが嫌いなだけかもしれないが。

 買い物を終えた四人の男女は、駐車場に停めていた黒のミニバンに乗り込むと、山の方に走り去っていった。

「すこし早送りしてもらえますか」と丸山。

「はい」店長が早送りのボタンを押す。

 映像の中の時間がものすごい速さで流れ、客や店員たちがせかせかと異常なスピードで動いている。画面の向こうの世界は、あっという間に朝から昼になり夜になった。

「あ、ストップ」鈴木が声を上げた。動体視力に関しては丸山よりも、若い鈴木の方に軍配が上がった。彼の目は深夜一時半過ぎに、コンビニの前の道路をかなりのスピードで走り去るミニバンの姿を捉えていた。「これ、さっき四人が乗っていた車っすよね」

 こんな真夜中に急いでどこに向かおうというのか。映像を現在の時刻まで早送りしてみたが、ミニバンが映像に現れることは二度となかった。

「すみません、店長さん」丸山が言う。「こちらの映像をお借りさせていただくことはできますか」

「ええ、もちろんです」

 二人は店長にお礼を述べ、そのコンビニを後にした。


 店を出た二人は車に乗り込み、山中にあるキャンプ場へと向かった。

 キャンプ場はいくつもあったが、さいわい三番目に当たったキャンプ場に、川藤美希ら四人が宿泊した記録が残っていた。

「ああ、あいつら」キャンプ場の管理人は、川藤美希の写真を見るなり顔をしかめた。「この女の子はよく覚えていませんけど、一緒にいたキノコ頭の男なら知っていますよ。時々ウチのコテージに泊まりにくるんですが、マナーが最悪なんですよ」

「その男の名前わりますか」丸山が尋ねる。

「ええっと…」管理人がパソコン端末を操作する。狭い管理人室の中に、マウスホイールを動かす音だけが響いている。せわしなく動いていた指先がぴたりと止まった。「ありました。岡田秀真です。十一時チェックインで、二十七日の朝から二十八日の朝九時までの、一泊二日の予約でした」管理人は二人の方にパソコンの画面を向けてくれた。

 男女で二部屋予約してあった。宿泊者の名簿から、ショートヘアの女は山本美穂、センターパートの男は間宮慧斗という名前だとわかった。

「この岡田って男、本当にマナーがなってないんですよ。ゴミは散らかしたままで片付けないし、夜中まで騒いでほかのお客様に迷惑をかけるし、備品は壊すしでもう最悪。それで昨日のあの事件でしょ。今朝ニュースを見てひっくり返りましたよ。やけに聞き覚えのある名前だなと思ったら、うちに泊まった子でしたからね。こんなことなら、さっさとあの男を出禁にしておけばよかった」管理人は話しながらヒートアップしてしまったのか、なかなか話が終わらない。「一カ月くらい前かな、コテージのガラスが割られていたことがあったんです。その日ウチに来ていたお客さんは、岡田とその仲間だけだったんですよ。しかも割られていたのは、彼らが泊まっていたコテージのすぐ隣。これってもう犯人が明らかですよね」

「…ええまあ」と鈴木。「被害届は出されましたか」

「いいえ。気がついた時にはもう彼らは帰っていましたし、ほかのお客さんの対応が立て込んでいたので。それにウチみたいな小さなキャンプ場に警察が来ると目立つでしょう」

「あなたは岡田たちとお会いになられましたか」丸山が訊く。

「チェックインのときに会いましたよ。たしかその川藤さんという女の子と、もう一人の髪の短い子、それとモデルみたいな男の子の四人でした。あ、それと夜の七時頃に四人がバーベキューをしているのも遠目で見ました」

「チェックアウトのときはどうでした?」

 丸山に尋ねられた管理人は天井を見上げ、そういえば、と呟いた。「チェックアウトに来たのは、間宮様一人だけでした」

「岡田と山本は一緒ではなかったのですか」と丸山。

「ええ。間宮様が私に言うんですよ。『このあたりにバス停はありますか』って。でも私は彼らが車で来ていたのを記憶していたので、逆に訊いたんです。『ここから二十分ほど山を下ったところにあります。たしか車で来られていましたよね。お連れ様は一緒じゃないんですか』って」

「彼、なんと言っていましたか」と丸山。

「友達に置いて行かれてしまいました、と頭を掻きながら言っていました。朝、目が覚めたら友達の荷物も車もなくなっていたと。私も学生の頃、悪ふざけで山中に置き去りにされた経験がありましたから、なんだか親近感がわいてしまって。暑いから気をつけてくださいねと言って、ミネラルウォーターのペットボトルを渡してあげました」

「間宮はどんな様子でしたか」

「どんなって、二、三言会話を交わしたくらいでしたからねえ…。普通だったんじゃないですか。水を受け取ったら、お礼を言って帰っていきましたよ。なかなかの好青年でね、岡田の仲間にもこんな礼儀正しい子がいるんだと感心しました」

「なるほど」

 四人は二十七日の十一時にこのキャンプ場にチェックインし、バーベキューに興じた。しかしその後、なんらかのトラブルが起こり川藤美希を殺害。岡田と山本は彼女の死体を川に捨て、深夜一時半過ぎに間宮をコテージに残して、キャンプ場を後にした。というところか。間宮が川藤美希殺害に関与しているかどうかはわからないが、少なくとも岡田と山本がなにかを知っていることは確かだ。

「彼ら四人のことで、なにか気になったことはありましたか」丸山が尋ねる。「どんな些細なことでも構わないので」

「気になったこと…」管理人はしばらく視線を宙にさまよわせた後、なにかを思い出したように口を開いた。「そういえば、部屋が片付いていたんですよ。岡田たちが来たあとっていつも食べ物のゴミや、ビールの空き缶なんかが部屋に散乱しているんですが、あの日だけはすごく綺麗に片付けられていました。珍しいこともあるものだと思ったのを覚えています」

「それは奇妙っすね」と鈴木。

 コテージ内で川藤美希を殺した岡田たちが、証拠を消すために掃除した可能性が高い。調べてみる価値がありそうだ。

「ちなみに、あなたは二十七日の夜から明け方頃はどちらにいらっしゃいましたか」

 丸山の質問に、管理人は「へえ、アリバイですか。刑事ドラマみたいでいいですね」と頬を緩めた。アリバイを聞かれること嫌う人は多いので、こういう協力的な態度は有難い。

「ここの管理人室にいましたよ。ウチは管理人が二十四時間常駐していることが売りのキャンプ場なので。あ、そうだ。監視カメラの映像もお見せしましょうか」

「ありがとうございます。助かります」と鈴木。

「すみません、管理人さん。申し訳ないついでにもう一つだけ」丸山が言う。「彼らが泊まったコテージを現場検証させていただいても構いませんか」

「えっ、現場検証ってドラマとかでよく見るあれですか。鑑識の人たちが写真や指紋を取ったりするような?」

 二人の刑事が頷くのを見た管理人は、大きく顔をしかめた。丸山の言葉の裏にある真意に気がついたのだろう。さっきまで協力的だった彼の態度が、途端に逃げ腰になってしまった。「いやあ、どうでしょう…。そういうことは私一人の一存ではなんとも…。上の者に確認しないと、ですね」

「では上の者に確認してください」

 丸山に正面から見据えられた管理人は、ぱちぱちと目を瞬かせた。そしてしばらく見つめ合ったあと、渋々といった様子で管理人室の奥に消えていった。

 管理人の背中を目で追いながら鈴木が呟く。「犯人は男であり女、の可能性が高くなってきましたね」


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