私が日高時雄とはじめて話したのは高校三年生の春。ちょうど桜が葉桜へと移り変わる時期だった。

 その日は美術の課外授業で近所の自然公園に野外スケッチに来ていた。よく晴れていたが、時おり頬を叩きつけるような強風が吹いていたので、紙が飛ばされないように気を張っていなければならなかった。

 クラスメートたちは思い思いの写生スポットに陣取り、熱心に鉛筆を動かしていた。一、二年生の頃はさぼってばかりいた生徒たちも、三年に上がって受験を意識するようになってからは、真面目に授業に取り組むようになっていた。

 私はというと彼らとは逆に、三年になってから美術の授業に身が入らなくなってしまっていた。受験によるストレスや睡眠不足もあったのだろう。当時の私にとって副教科の授業は睡眠時間と化していたのだ。

 私は小さな池のほとりの、パーゴラの下に設けられたベンチに座って暇を持て余していた。木製のテーブルの上を歩いているテントウムシを、鉛筆の尻でつついたりしながら。授業が始まってからもう三十分以上経っていたというのに、課題用に配られた紙はいまだ白紙だった。

 パーゴラの屋根部分には、青々と茂ったアイビーの蔓が巻き付いており、その隙間から春のうららかな日差しがさしこんでいた。風が吹くたびにアイビーの葉は音をたてて揺れ、テーブルに映ったまだら模様の木漏れ日が、さざ波のように寄せては返していた。

「なにしてんの?」

 聞き覚えのある声に、私はぎくりと肩を震わせた。一瞬だけ彼の胸元に視線を向け、すぐさまテーブルの上に視線を戻した。時雄の顔を見ることができなかった。

「ああ、テントウムシ」

 私の右隣に腰掛けた彼が言った。

 私はテントウムシをつついていた鉛筆を両手で握りしめ、蚊の鳴くような声で「うん」と答えた。

 日高時雄は不思議な男だった。女子からも男子からも慕われ、みんなと仲がいいのに、彼と親しい人間は一人もいなかった。学校の中では時雄のまわりには常に人がいるのに、帰り道はいつも一人だった。クラスの人気者であり一匹狼。そういう掴みどころのない男だった。

「退屈だなあ」

 時雄が伸びをする。

 何と返せばいいのかわからなかった私は、また小さな声で「うん」と頷いた。私の右半身は石化してしまったかのように固まっていた。

「描かないの?」

「うん」

「俺もまだ何も描けてない。やっぱ怒られるかな」

「うん」

「美術の高野先生って鹿に似てない?」

「うん」

「そういえば俺、君と話すのって初めてだっけ」

「…うん」

 彼と話をしているうちに私はどんどん小さくなっていき、そのかわりに自己嫌悪が心の中で大きく膨らんでいった。もういっそのこと、このまま見えなくなるまで小さく萎んで彼の前から消え去りたいとも思ったが、少しでも長く彼と二人きりで過ごしたいという気持ちもあった。

 時雄がふっと頬を緩める気配が伝わってきた。

「こんなつまんない授業放り出してさ、どっか遊びに行かない?」

「えっ?」

 私は驚いて時雄の方を見た。彼は小首をかしげて微笑んでいた。

 長い前髪の隙間から覗く、黒い大きな瞳には私の姿が、私の姿だけが映っていた。

「やっとこっち向いた。なあ、行こうよ。このままここにいたって退屈だろ」

「いや、でも…課題、描かないと…」

 答えはとっくに決まっていたが、私はわざと悩んでいるふりをした。以前に時雄が、真面目な子が好きだと話していたのを聞いたからだ。

 と、時雄は私が握っていた鉛筆を取り上げ、そして池にむかって放り投げた。綺麗な放物線を描いた鉛筆は、ポチャンと音をたてて池に落ちた。そばを泳いでいたマガモが慌てて飛び立っていった。

「これで描けなくなった」

 立ち上がった時雄が、行くぞ、と言って私の肩を叩いた。


 それから私たちは自然公園を抜け出して、行く当てもなく街をうろついたのだが正直なところ、道中に彼とどんな会話をしたのかよく覚えていない。いや、そもそも会話が成立していたかどうかすら怪しい。時雄が一方的に私に話しかけ、私はただひたすら相槌を打っていただけだったようにも思う。

 しかしそれでも夢のような時間だったのだ。なんだかデートのようで私の胸はどうしようもなく高鳴った。制服のまま歩く私たちに、街の人は怪訝な目を向けたが、注意してくることはなかった。

 小さなオフィスビルが立ち並ぶ通りに来たときだった。私たちの視界に異様な光景が飛びこんできた。

 小太りのスーツ姿の男が道路にうつ伏せで寝ころんだまま、私たちのことを凝視している。酔っ払いだろうかと思ったが、近づいてみて気がついた。男の後頭部から滲み出した赤黒い血液が道路を汚していた。黄色く濁った眼に生気はなく、だらしなく開いた口からは涎が糸を引いて垂れていた。

 飛び降りだ。

 私は横目で時雄の顔を盗み見て、そしてはっと息をのんだ。

 時雄は笑っていた。


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