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 人間の感情の大部分は視覚からの情報によって左右される、というのが溝口の持論だった。角張ったものや先の尖ったものに囲まれていると、人間の心も棘々してくるし、逆に角の取れた丸いものに囲まれていると、不思議と心も丸くなるのだと、彼は信じている。

 そのため溝口メンタルクリニックの診察室には、患者の心を落ち着けるためのたくさんの工夫が凝らされている。床はぬくもりを感じさせる木製で、部屋の中央に置いてある、これまた木製のL字型の机は角が丸くなっている。暖色の照明と壁に飾られた森の写真、それから部屋の隅の観葉植物のベンジャミンは、患者に少しでも自然の木漏れ日の中にいるような気分になってほしいという溝口の計らいだ。

 しかしどんな小道具よりも一番患者の心を落ち着かせてくれるのは、医師である溝口の柔和な笑みだろう。

「最近調子はどう? ちゃんと眠れている?」溝口は机を挟んだ向かいに側に座る純也に訊いた。いつものお決まりの質問である。

「まあまあです。眠れたり眠れなかったり」純也もまたお決まりのフレーズで返した。不眠症で悩んでいた高校生の純也が、このクリニックに通いはじめて以来、ほぼ毎回このやり取りが行われている。

「最近またあの夢を見るようになりました」

 あの夢、とは純也が幼少期から幾度となく見続けている夢のことである。

 夢の中の純也は狭い畳敷きの和室にいる。ところどころ黒いシミの浮いた畳と、茶色く変色した漆喰の壁、破れた襖。部屋の中央にはちゃぶ台があり、その上にはサラダや、白い紙飾りのついたチキンやなどのクリスマス料理が並んでいる。純也のいる居間と台所を仕切るすりガラスの戸は閉め切られている。現代ではあまり見ないような、昭和の終わりごろをイメージさせる小さなアパートだ。

 その夢はいつもガラスが割れる音から始まる。次に荒い息づかいと、二人の人間が揉み合っているような音。すりガラスのせいで純也のいる場所からは、そこで何が起きているのかを見ることはできない。しかしなにか恐ろしいことが起こっているということだけはわかる。

 バンッという衝撃音とともに、すりガラスに赤い手形が張り付く。どうやら血に濡れた白い女の手がガラス戸を叩いたらしい。手はガラス戸を撫でるように、血の跡を残しながらずるずると下に落ちていった。

 純也の目に映るのは床に倒れ伏した女の姿と、その上に馬乗りになっている黒い影だ。すりガラス越しの光景であるため、どちらの姿もでこぼこで歪な形に潰れている。黒い影は何度も女の上にナイフのようなものを振り下ろしていた。

 室内には女の呻き声と、濃厚で生々しい死の臭いが立ち込めていた。

 これが純也の夢の大まかなあらましである。

 この夢は純也が幼い頃からときどき見ていた夢なのだが、高校に入ってから、とある事件がきっかけとなり週に二、三度くらいの頻度で夢を見るようになってしまったのだという。

 純也がはじめてクリニックにやって来たのは高校一年生の頃だった。

 溝口は彼を見てとても驚いたのを覚えている。純也の目の下にはどす黒い隈があり、睡眠不足のせいで充血し苛立った目で、溝口の向かいに座っていた。彼はその夢をひどく恐れていたのだ。

 それからは薬やウンセリングなどの治療によって、夢の頻度は週に二、三度から、週に一度、そして半月に一度と徐々に減っていった。現在、彼の不眠症はかなり改善され、夢も月に一度あるかないかくらいにまで抑えることができていたのだが。

「それはいつ頃から? きっかけに心当たりはあるかな」

「二カ月くらい前だと思います。週に一度くらいの頻度で。きっかけは…どうだろう、ちょっとわからないな…。ただ腹の立つ出来事があった日なんかは、たいてい見ている気がします」

「腹が立つことというと、今朝みたいな?」溝口の脳裏には今朝、交差点にいた母娘の姿が浮かんでいた。純也が腹を立てることと言えば、他人が傷つけられている場面を見たときくらいしかない。

 純也が苦笑する。「どこから見ていたんですか」

「女性がお婆さんの腕を乱暴に引いて、交番から出てくるところから」

「ほとんど最初からからじゃないですか」参ったな、と純也は頭を掻いた。「どうしても許せないんですよ、ああいう人が。なんとかしてあのお婆さんを救えたらいいんですけど…」

「純也君が、傷ついている人を放っておけないのは僕も知っているし、そういう正義感が強くて優しい心が警察官に求められるのもわかっている。だけどあまり背負い過ぎるのはよくないよ。今の純也君の心は、いろいろなものを抱え込み過ぎて悲鳴を上げている状態なんだ。だからプライベートの時間だけは、その人たちのことは頭から締め出して、自分のために時間を使うという風にはできないかな」

 純也は膝の上に置いた手に視線を落とし言った。「僕はそんな人間じゃないですよ」

「え?」溝口が目を瞬かせる。見間違いだろうか。いまの一瞬だけ、純也の瞳が薄暗く濁ったような気がしたが。

「仕事とプライベートは切り替えた方がいい、ということですね。難しそうだけどやってみます」そう言って笑顔を見せる彼の目には、先ほど見えた薄暗さはどこにもない。純也は、そうだ、とわざとらしく膝を叩いて溝口の方に身を乗り出した。「少し前に先生を殴った、あの酔っ払いが捕まりましたよ」

「ああ、そういえばいたね。そんな人」

 溝口の頭の中に、禿げ頭の太った小男の姿が蘇った。たしか先月。溝口は、肩がぶつかったと因縁をつけてきた男に殴られたのだ。さいわい騒ぎを聞きつけた人間が止めに入ってくれたので、大事にはいたらなかったが、その時に駆けつけてくれたのが純也と宮原だった。

「また人を殴って怪我をさせて、今度こそお縄です。先生が被害届を出さなかったから調子に乗ったんでしょうね」

「まあ、あの人もすごく酔っぱらっていたし、肩をぶつけてしまったのも事実だから。それに殴られはしたけど、実はけっこう嬉しかったんだ」

「嬉しかった?」

「だってあの生意気な高校生だった純也君が、立派な警察官として市民のために働いているところを、この目で見られたからね」

「先生は優しすぎます」純也は照れたような困ったような表情を浮かべ、唇を尖らせた。

 君ほどではないよ、という言葉を溝口は飲み込んだ。なんとなく、純也が嫌がるのではないかと思ったからだ。

 今まではそんなことはなかったのだが。自身の優しさを否定したくなるような、なにかしらの心境の変化があったのだろうか。

 だが結局、今回のカウンセリングではその訳を純也から聞きだすことはできなかった。溝口の心にはわずかなしこりが残った。




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