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 通報を受けた純也と宮原が向かったのは神山市内にあるマンションだった。五階建てで各階に六部屋、計三十戸を抱える小規模マンションである。塗装の剥げた薄緑色の看板には、大久保ハイツと書かれていた。

 通報があったのは五階の一番奥の部屋、506号室である。

 男女の怒声はマンションの外にいる二人の耳にも届いた。かなりヒートアップしている様子だ。そこに住む夫婦は以前にも何度か、痴話喧嘩で近隣の住民から通報されているので、純也たちからすれば「ああ、またか」といった具合である。

「伊崎、お前は階段から行け。俺はエレベーターで行く」宮原はここ最近腰の調子が良くないため、階段の上り下りが辛いのだ。

 純也は「はいっ」と返事をして勢いよく階段を駆け上がった。

 五階にはものの一分とかからぬうちに着いた。宮原の乗ったエレベーターはまだ来ていない。

 純也の目に、504号室の扉の前に座り込んでいる中年女性の姿が飛びこんできた。女性は大学ノートを胸に抱えていた。

 駆け寄って声をかける。「大丈夫ですか。けがはありませんか」

 女性は純也の腕にすがりつき、「すみませんでした、すみませんでした」としきりに謝るばかりで、らちが明かない。その間にも506号室からは激しくののしり合う声が響いていた。

「通報されたのはあなたですか」

「通報っていったい何の話ですか…? 息子の件で来たんじゃないんですか」女性が涙に濡れた目で純也を見上げた。

「えっ、息子さん? 自分は506号室で喧嘩をしている男女がいるという通報があって駆けつけたのですが…」

 と、そこへ宮原が走ってやってきた。「なにやってんだ伊崎、けが人か」

「あ、いえ、そうではなく…」

「まあとりあえず、俺は506号室に行ってくるからそっちは任せた」宮原はそう言い残すと506号室へと小走りで駆けて行った。

 純也は女性に尋ねた。「息子さんがどうかしましたか。なにか困っていることがあるのなら僕に教えてください」

「あの、私さっきまで亡くなった息子の遺品整理をしていたんです。息子はこの部屋で一人暮らしをしていたんですけど、コロナに罹ってしまいました。もともと体が丈夫じゃないうえに基礎疾患を患っていたので経過が悪く、三カ月ほど長期入院していたんです。だけど一週間前に亡くなってしまって…。それで遺品整理をしていたら息子の日記が出てきたんです」

「日記、ですか」

「たとえ親子だとしても、勝手に読むのはよくないというのは、わかっていたんですがつい読んでしまいました。そしたら日記のなかに目を疑うような恐ろしいことが書かれていました」母親は口元を手で押さえ嗚咽を漏らした。彼女が胸に抱いた大学ノートは強く握りしめられたために、いびつな形に変形していた。

「いったい何が書かれていたんです?」純也は訊いた。母親の肩が小刻みに震えている。いったい何が彼女の心をここまで追い詰めたのだろう。まさか重大な犯罪に関する記述があったなんてことは…。

 母親は隣の503号室を指さして言った。「息子が……、隣の女性の部屋に監視カメラを仕掛けたようなんです…」

「か、監視カメラですか」純也は目をぱちぱちと瞬かせた。てっきり殺人や強盗などの重大犯罪を予想していただけに、肩透かしを食ってしまったのである。

「日記には女性の生活の様子が逐一記録されていました」母親は大学ノートのページを開いて見せた。たしかに彼女の言う通り、ノートには日付と時間ごとの隣人の行動が、神経質そうな小さな文字で、事細かに記されていた。「読んでいるうちに私、パニックになってしまって…。そこにタイミングよくパトカーとお巡りさんが現れたものですから、てっきり息子の件で来たのだと勘違いしてしまったんです」

 なるほど、二人の間に齟齬があったのはそういうわけか。つい拍子抜けしてしまったが、息子が人様の部屋を覗き見していたなんて、母親からすればショックに違いない。

「この場合、私はどうすればいいのでしょうか」

「息子さんの妄想という可能性もありますから、部屋の中に本当に監視カメラがあるかどうか確認しないといけませんね。とりあえず管理人さんに事情を話してみましょう」


「参ったなあ、困るよ、参ったなあ」

 六十がらみと思われる管理人は、鍵の束を順番に503号室の鍵穴にさしこみながら、しきりにそう呟いていた。彼の禿げあがった後頭部には玉のような汗が浮いている。容量の悪い彼の手つきは、わざともたつかせて時間を稼いでいるようにも思えた。

 ただでさえ506号室の夫婦喧嘩のせいで住民離れが相次いでいるというのに、そのうえ盗撮騒ぎまで起こっているだなんて、管理人からすれば胃の痛い話に違いない。

 管理人の後ろには純也と504号室の母親、夫婦喧嘩の仲裁を終えた宮原、そして503号室の女性の父親である三島が立っていた。

「あの、早くしてくれませんか」三島が苛立った口調で急かす。彼は電話で純也から盗撮の件を聞いた時からひどく取り乱していた。聞けば、この部屋に住む三島の娘──三島咲月と五日ほど前から連絡が取れなくなっているのだそうだ。ひょっとして娘が何かしらの犯罪に巻き込まれたのではと心配しているのだろう。

「あ、開きました、開きました」管理人はぺこぺこ頭を下げて扉を開いた。やはり最初からどの鍵が正解の鍵なのかわかっていたらしい。

 三島を先頭に純也たちは部屋の中に入った。

 部屋は玄関を入ってすぐ左手にキッチン、右手がトイレと洗面所、廊下の奥の扉を開けた先には洋間とバルコニーがある1Kの間取りだった。

 シンクに目をやった三島がはっと息をのんだ。シンクには使用済みの食器や、カップ麺のゴミなどが散乱しており、何匹ものコバエが羽音をうならせて飛び回っていた。とても女性の部屋とは思えない散らかり具合である。

 洋間に足を踏み入れたとき、その場にいた全員が確信した。この部屋には男が住んでいるのだと。そして三島咲月はもう長いことこの部屋に足を踏み入れていないということも。

 なぜならその部屋の床に散らばっている服はすべて男物で、開け放たれたクローゼットには女物の服が一枚もなかったからだ。それにベッドの脇には白い小さな化粧台が置いてあるが、その上には煙草の空き箱とティッシュのゴミの山があるばかりで、化粧品の類が一つもなかった。

 同棲している男女の部屋といった雰囲気ではない。おそらくこの部屋に住んでいるのは男一人だけだ。となると答えは一つしかない。

「又貸しかなあ…」という宮原の呟きを聞いた管理人は天井を仰いだ。頻発する夫婦喧嘩とそれによる住民離れ、そして盗撮事件に又貸し。しかも又貸しの張本人である咲月は五日前から連絡が取れなくなっているのだ。もう上を向くしかないのだろう。

「すみません、奥さん」純也は504号室の母親に言った。「息子さんの日記には、部屋のどこに監視カメラを仕掛けたと書いてありましたか」

「ええっと…たしか収納ラックにある、ぬいぐるみの中だったと思います」

 部屋にはたしかに木製の収納ラックがあった。棚は三段あり、一番上の段にはデジタル式の置時計と小さな観葉植物が、二段目にはクマのぬいぐるみ、三段目には心理学関係の本が置いてあった。

 三島がテディベアを手に取った。持った瞬間、彼は重さで中にカメラが仕込まれていることを察したのだろう。「鋏っ」と声を張り上げた。

 四人は慌てて周囲を見回して鋏を探すが、物が散乱した部屋の中から鋏を見つけるのは至難の業である。四人がまごまごしているのに痺れを切らした三島は洋間を飛び出すと、キッチンのラックから包丁を引き抜いた。

 ぬいぐるみを調理台の上に叩きつける。そして鈍い光を放つ刃をテディベアの腹に突き立てた。布を引き裂く甲高い音が室内に響き、白い綿が調理台の上を舞った。三島はテディベアの腹の中からカメラを乱暴に引き抜いた。

 三島が管理人に言う。「管理人室にはたしかパソコンがありましたよね」



 五人は管理人室のパソコンの前にいた。純也と三島はパソコンの画面を睨みつけ、504号室の母親は申し訳なさそうに肩をすくめ、管理人はしきりに自分の禿げ頭を撫でさすっていた。宮原はというと、一歩引いたところで彼らの様子を見ていた。

 五人の視線の先、画面上には二十代前半の痩身の男が映っている。長身で鼻の高い、切れ長の目をした整った顔立ちの男だ。

 カメラには約一カ月分の動画が保存されていたが、映像に写っているのは男の姿ばかりで、咲月の姿はどこにもなかった。やはり彼女はこの男に部屋を又貸ししていたという説が濃厚なようだ。

 しかしそうなると咲月はいったいどこに住んでいるのか、という疑問が湧いてくる。彼氏の家か、友人の家か、はたまたネットカフェか。

 純也が尋ねる。「三島さん、この男に心当たりは?」

「ありません。恥ずかしながら娘の交友関係については、ほとんどなにも知らないんです。ただ年齢からして、娘が通っている大学の知り合いという可能性もありそうですね」

「娘さん大学生なんですか」と宮原。

「神山大学心理学部の二年生です」

「大学の授業には出席しているのですか」という純也の問いに、三島は首を振った。

「それがどうも五日前から授業に出ていないようなんです。講義をさぼることはこれまで何度もあったんですが、五日も音沙汰なしだとやはり心配で…。やっぱり行方不明者届を出すべきなのでしょうか」

 純也が答える。「出しておいて損はないですよ。見つかったら取り下げればいいだけですから」

「そうですよね…。ううん、でも…」けれど三島は少し渋った様子を見せた。

「どうかしましたか」と純也。

「いえ、なんでもありません。今日、出しに行きます」

 と、そこで二人の会話の間に管理人が割って入った。「あの、ちょっといいですか。三島さんは監視カメラの件を警察に話すんですか? そんなことをしたら自分もオーナーに又貸しの件を報告しなくちゃいけなくなりますが、それでいいんですかね」

 宮原は呆れた。要するにこの男は、又貸しの件を黙っておいてやるから監視カメラの件は警察に言うなと言っているのだ。

「もちろん構いませんよ。娘がルールを破っていた件に関しては謝りますし、違約金もお支払いします。この件は警察の方に報告させていただきますから、管理人さんもオーナーにしっかりご報告なさってください」三島が嫌味たっぷりに言い返した。

 管理人はなおも食い下がる。「し、しかし娘さんと連絡が取れなくなったのは五日前で、504号室の息子さんは一週間前に亡くなっているんでしょう。娘さんの失踪とカメラの件は無関係だから、どうせ警察はまともに捜査してくれませんよ」

「それでも警察には行きます」と三島。

 宮原は管理人の話を聞きながら、余計なことを言うなと心の中で叫んでいた。これ以上純也の正義感に火をつけないでくれ。このままでは純也は、プライベートの時間を削ってまで三島咲月の捜索に乗り出してしまう。

 無事に見つかったならまだいい。だが万が一、咲月が何らかの事件に巻き込まれていた場合のことを考えると、胃がキリキリしてくる。交番の巡査が勝手に事件関係者の捜査をしていたことがバレたら、一体なにを言われるか。

「伊崎」宮原は、管理人を睨みつけている純也の耳元に口を近づけて言った。「くれぐれも余計なことはするなよ」

「わかっています」

 わかっていない。絶対にわかっていないことだけはわかる。その証拠に、純也は三島から咲月の顔写真を自身のスマートフォンに送信してもらっているではないか。

 宮原は天に祈ることしかできなかった。どうか面倒なことになりませんように。


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