1-3
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車から降りて川の岸辺の遺体発見現場に行くまでの間、丸山誠一郎は終始顔をしかめていた。
長いことじめじめと降り続いていた雨がようやく上がったかと思えば、この猛暑である。肌にまとわりつく湿気と、容赦なく照りつける日差しのせいで、歩いているだけで汗が噴き出してくる。それは奥多摩の避暑地であろうと例外ではない。おまけに足元の草むらからは、丸山の汗のにおいに引き寄せられた蚊が次から次へと湧き出していた。
「先輩、お疲れ様っす」現場の一画に張られたブルーシートの前で待機していた鈴木航太が、汗を拭き拭き丸山に会釈した。鈴木のワイシャツは通り雨にでもあったかのようにぐっしょりと濡れていた。
「雨降ったのか」
「いや汗っすよ、汗」
人間はこんなに大量の汗をかくことができるのか。
鈴木は丸山と同じ警視庁捜査一課に所属する刑事なのだが、丸山にはこの男について、どうしてもわからないことが一つだけある。
なぜこの男が警視庁の、それも捜査一課に所属できているのか。
鈴木は身長165センチと小柄だが体重は百キロを超える巨漢である。特別頭が切れるわけでも武道に長けているわけでもない。むしろ足手まといになることの方が多い。どうせすぐにどこかの部署へ飛ばされるだろうという丸山の予想に反し、なぜか鈴木はかれこれ五年もの間、しぶとく捜査一課に居座り続けていた。どう考えても人事課のミスとしか思えない。もしくは人事課の人間の弱みを握っているか。
「入んないんすか」鈴木がブルーシートをまくり上げた状態で訊く。
「おお、悪い」丸山はシートをくぐった。
ブルーシートで囲まれた内部には主任の馬込と、鑑識の亀岡がいた。
川べりに横たえられた遺体は二十代前半と思われる女性だった。白い半袖のTシャツにデニムのショートパンツという出で立ちをしている。靴は履いていない。さっきまで川に浮いていたため服も髪もびしょ濡れだ。
遺体の状態がきれいなのは死亡してからそれほど時間が経っていないからだろう。
左耳には直径六センチほどの大きなフープピアスがついているが、右耳には何もない。どうやら引き千切られたらしい。
奇妙な遺体だと丸山は思った。
「靴はあったのか」
「遺体発見現場の上流にある橋の上に、彼女の鞄と靴が置いてありました」
自殺に見せかけようとしたのだろうか。あまりにもお粗末な偽装だ。
丸山の後ろに立つ鈴木が言う。「この服の着方している女の子、最近よく見ますね。どうして前だけシャツインするんすかね」
「俺に聞くな。娘もよくやってるが何がいいのかさっぱりわからん」
「先輩、娘さんいるんすか。何歳っすか」
「今年で二十五」自分は今年五十五で、娘は丸山が三十歳の時にできた子供だからたぶん間違いない。というのも、これまで家庭よりも仕事を優先してきた丸山は、もう何年も前に妻子とは没交渉になっており、娘の交友関係はおろか正確な年齢すら把握していない。だから娘の年齢を聞かれた時は毎回頭の中で引き算をしなくてはならないのだ。
「僕と四つしか変わんないじゃないすか。今度紹介してくださいよ」
「…」
丸山に無言で睨まれた鈴木はすぐさま笑顔を引っ込めた。「すみません。冗談っす」
「殺しですか」遺体の脇にしゃがんだ丸山が尋ねる。
「十中八九、自殺にみせかけた殺しだ」と亀岡。「右側頭部に打撲痕がある。殴られて川に落とされてここまで流れ着いた、ってとこじゃないか。それと被害者の爪の間から犯人のものと思われる皮膚片が発見されたから、さっき鑑定に回しておいた」
「死亡推定時刻は?」
「死後硬直と死斑の具合から、死亡推定時刻はだいたい昨夜の夕方から早朝までの間だと思う」
「身元は?」という丸山の問いには鈴木が答えた。
「まだわかっていません。鞄の中には身元を示すような所持品は残っていませんでした。今朝の十時ごろ川の岸辺に浮いていたのを、釣りにきた男性が発見し110番したという次第っす」
「犯人、男か女どっちに賭ける?」馬込が品のない笑みを浮かべながら丸山に尋ねた。ただでさえ馬のような顔立ちをしているのに、笑うとより馬に近づく。丸山はこの男の笑顔が嫌いだった。「俺は男に一万。お前はどうだ、丸山」
「いつも言ってますけど、俺はそういうのやらないんで」
丸山にあしらわれた馬込は舌打ちして立ち上がった。「つまらない男だな」
丸山は、つまらない性格なのはあんたの方だよ、と言いたくなるのをぐっと堪えた。そして、ブルーシートを乱暴に払い除けて立ち去る馬込の背中にむかって「すみませんね」と詫びた。
「なんとかならんもんかね、あの不謹慎な性格。捜査一課の主任が聞いてあきれる」と亀岡。
「あれは死んでも治りませんよ」
「でも実際のところどうなんすか。先輩の予想では犯人は男っすか、女っすか」
丸山はため息まじりに答えた。「男であり女」
「なんすかそれ」
「まあとにかく」亀岡が言う。「早めの解決を頼むよ。ここ最近、上層部の汚職だのプレイキラーだので世間の風当たりが厳しくてかなわん。そのせいで家内の態度も冷たいし」
「亀岡さんの奥さんが冷たいのはいつものことでしょう」と丸山。
「でも早く解決した方がいいのは間違いないっす。プレイキラーが大人しくしている今のうちにこっちの事件の犯人を捕まえないと」
プレイキラーとはここ最近世間を騒がせている連続殺人犯の名称である。もうすでに三人が犠牲になっているが、警察はいまだに犯人につながる手掛かりを掴めていない。
一件目の事件で殺されたのは八王子市内の一軒家に住む四十代の夫婦だった。自宅で発見された夫婦の死体の周囲には、空になったカップラーメンの容器や、おにぎりやお菓子などの包装紙が散乱していた。夫婦の唇には瞬間接着剤が塗られており、胃の中からは二キログラムにも及ぶ大量の食べ物と、オキシドールが検出された。
死因は窒息死。
おそらく犯人は被害者に大量の食べ物を食べさせたあと、オキシドールを飲ませ、唇を瞬間接着剤でふさいだのだろう。オキシドールは胃の中で大量の酸素を発生させ、嘔吐を誘発する。しかし夫婦の口は塞がれていたため、行き場を失った吐瀉物が気道を詰まらせ、窒息死してしまったのだ。
二件目の事件では半裸の男が、八王子の山中にある霊園の池で溺死しているのが発見された。男は縦四十センチ、横二十センチほどの小ぶりな石造りのお地蔵様を胸に抱いて、池に沈んでいた。いや、抱いていたというよりは、抱かされていたという方が正しい。男の腹部には瞬間接着剤がべったりと塗られ、そこにお地蔵様を貼り付けられていたのだ。
そして奇妙なことに、一件目と二件目の被害者は全員、手首を麻縄で縛られ、指を組まされていた。まるで何かに祈りを捧げているかのように。この死体の特徴的なポーズから、犯人は“祈りの殺人者──プレイキラー”と呼ばれるようになったのである。
二件目の事件が起こって以降、ここ一カ月ほどの間はプレイキラーによる犠牲者は出ていないが、いつまた犯行が再開されるかわからない。大人しくしてくれているうちにさっさとこの事件の犯人を捕まえ、プレイキラーの捜査に人員を回さなければならないのだ。
「まあ善処しますよ」丸山はそう言って立ち上がった。
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