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*六月二十八日
『八王子市内で起こっている連続殺人事件の犯人は未だ捕まっておらず、市民の間には不安が広がっています…』
六月二十八日午前七時、伊崎家のリビングには落ち着いたニュースキャスターの声と、少し焦げたトーストの香りが漂っていた。
純也はテーブルの上にのっているトーストには手をつけずに、頬杖をついてぼんやりとテレビ画面を眺めていた。向かいに座る父の茂も、まるで鏡合わせのように全く同じ姿勢でテレビを見ている。
美代子はお弁当を作っていた手をとめて顔を上げた。彼女がいるシステムキッチンからは、純也と茂の後頭部しか見えないが、彼らがどんな表情をしているかは見なくてもわかった。
「早く食べないと遅刻するわよ」
美代子が声をかけると、二人は同時に彼女の方に眠たげな顔を向け、「はあい」と気のない返事をした。
喋り方といい仕草といい、なんだか年々二人は似てきている気がする。二人の年齢は六十六歳と二十七歳で、茂は丸顔で、お世辞にもかっこいいとは言えない顔なのに対し純也は顎が細く、親の欲目を差し引いたとしてもかなり整った顔立ちをしている。全く似ていないのに瓜二つのように思えてくる。親子とは不思議なものだ。
ひょっとしたら純也も将来は茂のように頭髪が薄くなってしまうのかしら、と美代子は余計な心配をした。
「悪い、美代子。マーガリンとって」茂が美代子にむかって手を伸ばした。
「ちょっとだけにしときなさいよ。またコレステロール値が上がったんだから」
「わかってるって。ほどほどにするから」毎朝恒例のやり取りをしながら、茂は受け取ったマーガリンをほんの少しだけトーストに塗りつけた。そして後で美代子が見ていない隙にたっぷり塗る。これもまた伊崎家の恒例行事だ。
テレビでは警察官の汚職のニュースが流れている。
「いやね、正義の警察官が汚職だなんて」美代子はエプロンの裾で手を拭きながら言った。「純也は偉くなっても汚職なんかしちゃ駄目よ」
「しないよ」と純也。
「あのな、美代子。俺の息子がそんなことするはずないだろう。なんたって純也は中学三年の時にクラスメートのテスト用紙を──」
「冗談よ冗談」と美代子が慌てて言い、純也が「百万回聞いたからもういいって、その話は」とさえぎるが、茂は構わずに続ける。
「いいや、俺は何度でも言うぞ。今でもはっきり覚えている。あれはたしか水曜日だった。お前の担任の教師から電話がかかってきたんだ。息子さんがテストの時間中に突然立ち上がって、クラスメートたちの答案用紙をビリビリに破いて回りました。おたくの教育はどうなっているんですかって」
「はいはい。それで学校に行って純也から事情を聞いたのよね」
「そう、そしたら純也はなんて言ったと思う?」茂は、うんざりした様子でトーストかじっていた純也に顔を向けた。
彼はしばらく父親と見つめ合ったあと、観念したようにため息をついて言った。「一週間前、職員室に忍び込んだ木下君が、テストの問題用紙を携帯のカメラで撮って、それを友人たちにメールで一斉送信したんです。僕はあいつらの不正行為が許せなくて破りました」
「俺は感動したね。だから逆に、あの担任教師に言ってやったんだ。正義のために行動した純也を悪者扱いするあんたらの方こそ、どういう教育をしているんだって」茂はあの時の感動を噛みしめるかのように、目を細めてうんうんと頷いた。
「感動する要素なんてどこにもないよ」と純也。「クラスメートからは白い目で見られるし、先生からはもっと他にやり方があっただろうって怒られるし。散々だったんだから」
「私はそれでも、純也のやったことは間違っていないと思うけどね」
「俺はあの時確信したよ。純也は将来、絶対に警察官になるって」
「それはさすがに嘘だろ」純也はトーストを口に詰め込みながら慌ただしく立ち上がった。気恥ずかしいこの空間から一刻も早く立ち去りたかったのだ。「ごちそうさま」純也はお皿をシンクに置くと、リビングを後にした。
東京都八王子市と日野市に挟まれた市──神山市は人口十五万人ほどの小さな市である。新宿や池袋のような都会的な華やかさはないが、緑が多くのんびりとした雰囲気の住みやすい街だ。
その神山市の神山駅から徒歩五分の場所に純也の勤める職場、神山交番がある。交番の前の交差点を挟んだ向かい側には個人経営の診療所が、北側には幼稚園がある。そのため交番の付近はいつでも、子供たちのはしゃぐ声や、診療所の前で立ち話をする老人の声であふれている。
今朝、純也は小柄な老婆の手を引きながら神山交番に出勤した。
純也の先輩にあたる宮原巡査部長は椅子から立ち上がって、小さな目を瞬かせた。「おはよう伊崎…と、どちら様?」
淡い藤色のTシャツにグレーのズボン姿の老婆は宮原の質問に答えることはなく、ただニコニコと笑うばかりである。今日は三十度をこえる真夏日であるというのに、彼女は水筒を持っておらず、帽子すら被っていない。唯一持っているのは杖だけだ。
「おはようございます宮原さん。出勤途中に迷子の女性を見かけたのでお連れしました」純也は老婆をパイプ椅子に座らせてから、声を落として続けた。「おそらく認知症かと」
「身元がわかりそうなものは持っていないのか」
「ええっと…。あ、ありました」
彼女の持っていた杖の柄の部分に、家族の連絡先が書かれたシールが貼ってあった。
「連絡してみます」純也が受話器をとりあげる。
三コールほど鳴ったあとで電話がつながった。声の雰囲気からして中年の女性らしい。老婆を保護しているので神山交番まで迎えに来てほしい、という旨を伝えると女性は舌打ちをし、「放っておけばいいのに」と答えた。それきり電話は切れてしまった。
純也は乱暴に受話器を叩きつけた。
胃のあたりがムカムカした。失礼な態度を取られたことに関してはどうでもいい。ただあの女の、まるで自分の母親が見つかってほしくなかったかのような態度に腹が立ったのだ。
「伊崎。おばあちゃんがびっくりするだろ」宮原が書類から顔を上げずに注意する。純也が心無い人間の行為に腹を立てて不機嫌になるのは日常茶飯事なのだ。
「すみません」純也は老婆の前に座って、彼女にも詫びた。「ごめんね、おばあちゃん。びっくりしたね。もうすぐ娘さんが迎えに来てくれるから」
「気にしないで。洋介さんはいつも優しいから、たまには怒ってもいいのよ」老婆は微笑みを絶やさない。どうやら彼女は純也のことを洋介という男性と勘違いしているらしい。「そんなことより愛子は何時に帰ってくるのかしら」
「愛子さんってお婆ちゃんの娘さん?」純也が尋ねる。
「愛子ったらすごいのよ。小学校の頃に書いた作文が、市の作文コンクールで大賞をとったの。中学の頃はテストはいつも百点だったし、高校では生徒会長もやっていたのよ。それになにより、お母さん思いのとってもいい子なの」
「自慢の娘さんなんですね」純也が相槌をうつ。先ほどの電話対応からはちょっと想像できないが、彼女にもそういう一面があったらしい。
純也の相槌に気をよくした老婆は自慢の娘について長々と語り始めた。けれど老婆は話している途中で、自分が何を話して何を話していないのかを忘れてしまうので、彼女は壊れたレコードのように何度も何度も同じ話──愛子の小学生時代のエピソード──を、警官たちに繰り返し話して聞かせた。
それから二時間ほど経った頃。宮原は四十を過ぎてから少し薄くなってきた白髪頭を掻き毟り、天井を見上げてため息をついた。
「それでね、愛子がにっこり笑って言ったのよ。私、作文コンクールで大賞を取ったよって」
老婆の口から何十回と紡ぎ出された愛子の話は、神山交番の内部を漂い、苛立ちとなって宮原の両肩に降り積もっていた。宮原は首を回し、再びため息を吐いた。今日中に書かなければいけない書類が机に置かれているが、どうしても書く気にはなれない。
誰でもいい、早くこの婆さんを引き取ってくれ。宮原はただ一心にそう願っていた。
それなのに純也はというと、苛立った表情を微塵も見せずに老婆の話に耳を傾けている。宮原はほんの少しだけ顔をしかめた。
宮原は仕事柄、正義感の強い善良な人間をたくさん見てきたが、純也はその中でも群を抜いていた。とにかく曲がったことが大嫌いで、弱きを助け強きをくじく。典型的なヒーロー気質である。
だから老婆への対応も、彼のそういった人間性に基づいているのだということは理解している。しかし時々こんな風に純也の行き過ぎた善性を見せつけられると、うすら寒いものを感じてしまうのもまた事実だった。
と、そこへ六十代くらいの女性が交番の扉をくぐって現れた。宮原が待ちわびていた救世主である。女は椅子に座った老婆に目をとめると、顔を歪めてため息を吐いた。
「お母さん、もういい加減にしてちょうだい。警察の人にまで迷惑かけて」女が老婆の腕を掴んで立ち上がらせた。「ほら行くわよ」女は老婆を引きずるようにして交番の外に連れていく。
「ちょっとちょっと奥さん。もう少し優しくしてあげてください。痛がっているじゃないですか」
女は歩道の真ん中に仁王立ちして純也の方を振り返った。「こうでもしないと、ついてきてくれないのよ。部外者は黙っててちょうだい」
「いいえ」と純也。「我々がお婆さんを保護したんだから部外者ではありません。お婆さんはあなたを待っている間ずっと、僕たちにあなたの話を聞かせてくれていたんですよ。あなたは私の自慢の娘だって。自分のことをそんな風に愛してくれる母親を雑に扱うだなんて、人としておかしいと思いませんか」
「自慢の娘」女は甲高い声でそう言うと、純也にむかって嘲笑を浮かべた。「どうせ愛子が愛子がって言っていたんでしょう」
「そうですけど…」
「あのねお巡りさん、私の名前は明子。愛子は私の妹の名前よ。母親の介護をぜんぶ私に押し付けて、男と逃げていった妹のね」
純也はなにも言えなかった。
女は、その様子だと私の名前は一度も出なかったようね、と言って歩き去って行った。歩道には二人の後姿を見送る純也と宮原だけが残された。
「僕、余計なこと言っちゃいましたかね」
「気にするな、お前は間違っていないさ」宮原が純也の肩に手を置いた。純也は何とも言えない苦々しい表情を浮かべている。宮原は、正義感が強いが空回りしがちな純也のことが嫌いではなかった。「どうだ、今日終わったら飲みに行くか」
「僕、お酒が飲めないので遠慮しておきます」
純也に優しく払い除けられた宮原の手はしばらくの間、宙をさまよい、そしてぴしゃりと宮原自身の太ももを叩いた。「そうか」
前言撤回。宮原は職場の付き合いよりもプライベートを優先させる純也が好きではなかった。
二人でそんなやり取りをしていると、背後から声をかけられた。
「おはようございます宮原さん、純也君」
彼らの後ろに立っていたのは、車椅子を押した痩身の男だった。車椅子には八十代くらいの、マスクをつけた毛の薄い老人が虚ろな目で座っている。ガラス玉のような老人の瞳には何の感情も宿っていない。枯れ枝のような指先の皮膚はささくれ立ち、右足の靴ひもはほどけかけていた。
「あ、溝口先生。おはようございます」二人は声を揃えてそう言ったあと、慌てて歩道の端に寄った。自分たちが通路を塞いでいたことにいま気がついたのだ。
「お散歩ですか」と宮原。
「今日はクリニックが休みなので、僕の運動もかねて近所をうろうろしていたんです」溝口卓は柔らかそうな黒髪を掻き上げて言った。彼は溝口メンタルクリニックを経営している心療内科医である。純也は高校生の頃から不眠症の問題で彼のクリニックに通っているため、溝口とはもうかれこれ十年以上の付き合いだ。
宮原よりも年上のはずだが、溝口は彼よりもずっと若々しく、三十代半ばでも通用するルックスをしている。そのため宮原は彼と顔を合わせるたびに、少しだけ引け目を感じてしまうのだった。
「お父さん、今日は気分が良さそうですね」純也は車椅子の老人の前にしゃがみ、靴ひもを結び直してあげた。「ここのところずっと雨続きだったから、久しぶりに外に出られて嬉しいのかも」
老人は純也のことが見えていないのか、白内障で白く澱んだ目を前方に向けたまま微動だにしない。宮原には老人の感情の機微がわからなかったが、純也がそう言うのならそうなのだろうと思った。
「純也君に会えたからだと思うよ」溝口はそう言ってから顔を上げ、「あ」と呟いた。
交差点の信号がいつの間にか青に変わっている。
「それじゃあ僕たちはこれで」溝口は二人にむかって敬礼をすると横断歩道を渡っていった。
溝口らの後姿を眺めながら宮原が言う。「どの親子もあれぐらい仲が良ければいいんだがなあ」
二人の無線に、近所のマンションで大喧嘩している男女がいるからすぐに駆けつけてほしい、という旨の連絡が入ったのは、それから三分ほど経った後のことだった。
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