第一章 裂ける悪意
1
目覚ましの音楽が鳴り始めた。
次第に意識が自分の手に戻ってくるのを感じながら、重い瞼を薄く開いた。
穏やかな曲調が気に入ってアラームに設定したものの、今となっては眠りの終わりを告げる不愉快なメロディーにしか思えなかった。
時計は午前9時を指していた。カーテンの隙間から差し込む日差しが眩しい。
颯真は画面のロックを解除すると発信履歴の一番上にある亜月の名前をタップした。電話はワンコールで繋がった。
「あ、俺」
「おはよう。ちゃんと起きれたね」亜月の弾むような声が聞こえた。
次の日の起床時間を亜月に伝えておくのが颯真の習慣だった。予定時間を10分過ぎても電話がない場合は、亜月の方からかけてくることになっている。
「もう、ばっちり」颯真はあくびを噛み殺しながら言った。
「そうは聞こえないけど」
颯真はスピーカーボタンを押すと着替えを始めた。
「亜月、今夜大丈夫?」
「大丈夫だよ。今日は一日予定なし」
「そうか。敦裕と咲世ちゃんも予定通りだって」
「敦裕くんは休みだろうけど、咲世ちゃんは今日仕事でしょ。大丈夫なの?」
「あの子のことだから上司を蹴散らしてでも来るんじゃねえか」
電話の向こうで亜月が笑った。
「颯真は午前中、教習所だよね?」
「うん」
「免許とれそう?」
「そりゃあ、まあ」颯真は言葉を濁した。「しかし毎週土曜日に通うのはしんどいなあ。こんなことなら学生の時に取っときゃよかったよ」
「そうだけど、あの頃は車の免許なんて考えもしなかったしね」
「まあな」
あの頃は、か。颯真は考えた。そんな言葉でたどる思い出が随分増えた。この先も過ぎていく日々と同じ数だけ増えていくのだろう。
「で、俺らは『SOH’s』で待ち合わせってことでいい?」颯真が訊いた。「俺は1時には行けると思う」
「うん」亜月が答えた。「私は早めに行って先にお昼食べてようかな」
「そうしなよ。新作のランチメニューがあるかもよ。一昨日、板波()さんが言ってた」
「そうなんだ。絶対おいしいんだろうね。でも、やっぱりオムライス」
「だろうね」
亜月は『SOH’s』のオムライスが大好物だった。最後の晩餐はこれしかないと断言している。
「なによ」亜月が不満げな声をだした。口を尖らせているのが目に浮かぶ。
「なんでもないよ」
もう、と亜月が唸った。「その前に本屋に寄っていくね」
本屋とは亜月の部屋の近くにある大型のリサイクルショップだった。店の半分が古本売り場で、そこだったら何時間でもいられると亜月は言っている。
「わかった。けどちゃんと店に来いよ。本屋に行くといつも夢中になるんだから」
「分かってるよ」亜月はすねたような声を出した。
「それならいい」
「それで、咲世ちゃんたちは直接現地に来るの?」
「うん。ほんとあの二人はカラオケが好きだよな」
「そうだね。咲世ちゃん、自分のSNSに書いてたよ。週末カラオケに行くんだって。楽しみなんだね」
「誰に宣伝してんだよ。ていうか彼女、よくネットに顔出せるよな」
「部分的ではあるけど……そうだね。咲世ちゃんにも言ったんだけど……まあ、咲世ちゃん美人だから」
「おおらかって言うか能天気って言うか。それは敦裕も同じだけど。なんでもいいけど普通に居酒屋じゃだめなのかね。たまにはゆっくり飲みてぇよ」
「まあまあ」亜月が颯真をなだめた。
「はいはい」颯真はジーンズのファスナーを上げながら口元を緩めた。
「じゃあ颯真、後でね」
「うん、後でな」
着替えを済ませリュックを背負うと、颯真は部屋を出た。
2
颯真が教習所に通い始めたのは、雑誌で見つけた車中泊の旅に関する記事がきっかけだった。これといった趣味のない颯真は休日のプランを立てるのが苦手で、亜月とのデートはいつもお決まりのコースばかりだった。本屋を巡ったり、部屋で映画を観たり、日の沈まないうちから缶酎ハイをあけてみたり。颯真は以前からそのことを申し訳なく思っていた。亜月の方はまるで意に介していないようだったが、周りから色々と楽しそうな話を聞くたびに少し心が痛んだ。そしてそう感じさせている原因の一つが、会社の同期である敦裕だった。
敦裕との出会いは入社式の日、帰り道で飲みに誘われたのが最初だった。つまり社会人初日からの付き合いだ。誰とでもすぐ仲良くなれるという、おそらく人生において最も重宝するであろう特技と、それを裏付ける趣味の広さを敦裕は持っていた。しばらくして敦裕が付き合い始めた咲世もまた、良く言えば社交的、悪く言えば馴れ馴れしいタイプだった。当初、颯真は咲世が苦手だった。もっと言えば敦裕も決して得意なタイプではなかった。しかしどういう訳か、二人からはずいぶんと気に入られたようだった。ほどなく颯真も亜月を紹介し、時間が合うときは四人で遊びに行くようになった。
そんな友人二人は年中どこかに出掛けては、颯真と亜月に山のような土産話を聞かせた。他人の思い出話などうんざりしそうなものだが、二人の話は軽快な漫才を聞いているようで飽きることがなかった。
そんな敦裕と咲世を見る度に、颯真は軽い焦りのようなものを感じていた。代わり映えのしない自分との休日に、亜月は飽き飽きしているのではないか。それとなく訊いてはみたが、亜月は人混みは好きじゃない、休みの日はのんびりするのがいい、と笑うだけだった。彼女がそう言うのならと思いつつ、漠然とした不安は常にあった。
そんな颯真が目を止めたのがあの記事だった。これなら人混みもなく、二人でどこへでも行ける。
亜月とは高校二年のクラス替えで初めて出会った。ありきたりな言葉で言うなら「一目惚れ」ということになるのだろう。だがそんな言葉ではまるで足りなかった。心は大きくうねり、何日経っても静まる気配がなかった。それから一年間悩み続けたあげく、三年生の春に告白した。勝算があったわけではない。陽の落ちた薄暗い校庭を見つめながら、結局すべてを諦めようと決めた後に起きた偶然。忘れ物、そして誰もいないはずの教室。天が与えてくれためぐり合わせの結果、シナリオは最高の結末となった。
卒業後は二人とも大学に進んだ。別々の大学だったがキャンパスはどちらも県内だったので、会うことに不自由はなかった。とは言え大学生ともなれば世界が広がり、亜月の心がうつろうことも十分考えられた。自分よりも格好いい男、優秀な男が大勢いるだろう。会えない日は妙に落ち着かず、不安を紛らわすためにバイトのシフトを増やしたりした。けれど会えばいつもと変わらない亜月が目の前にいて、その笑顔を見ると胸に抱えていた灰色の霧が嘘のように晴れ上がった。
やがて社会人となり数年が過ぎた。亜月は今も自分のそばにいる。
教習所を出た颯真は急いで駅に向かい電車に飛び乗った。吊り革につかまりながら、ふと鉄道会社の広告に目を止めた。綺麗に色づく山肌の写真だった。こんな景色を二人でゆっくり眺めるのも悪くない。きっと亜月も気に入るだろう。だけど免許は間に合いそうにないな。それならそれでいい。来年もあるし、その前には桜も、夏だってある。
亜月と過ごす時間のことを考えると、いまでも颯真の胸は高鳴った。
3
ダイナー『SOH’s』の扉を開けると、いつもの窓際の席に亜月の姿が見えた。
「やあ颯真くん、教習所はどうだった?」
先にカウンターの中からマスターの板波
「問題なしです」
「そうかい、じゃあもうすぐだな」
颯真は板波に向かって親指を立てると、亜月の前に腰をおろした。
「ごめん、遅れた。道が混んでたせいで路上が長引いちゃって」
「ううん。大変だった?」亜月は読みかけの本を閉じた。
「いいや、全然」
「そっか」
「それ」颯真は亜月の読んでいた本を指した。「買ったの?」
「うん、さっき買ってきた」亜月は表紙を見せた。
「はいはい、それ評判いいよなあ」颯真は必要以上に頷いてみせた。
「ほんとに知ってるのぉ?」
亜月は笑うと目が柔らかい弧を描く。颯真は自分も笑いながらその目をしばらく
見つめていた。
「知ってる知ってる。ナンタラカンタラ賞を獲ったやつだろ」
「なんなのその、ナンタラカンタラって」
板波がやってくると颯真の前に水を置いた。「お昼は?」
「まだです。腹減ったあ」
「何にする?」板波はそう言うと得意げにランチメニューを差し出した。
「生姜焼ランチ」颯真はメニューを見ずに言った。
「おい」板波はメニューで颯真の頭を叩いた。
「痛っ」
「揃いも揃って、店長一押しの新作ランチをスルーするつもりか」
「あ」と言って颯真は亜月を見た。亜月はさっと目をそらした。
「もう一度訊こう。何にする」
颯真は頭をさすりながら「じゃあこれ」と一際目立つ文字で書かれた新メニューを指さした。
「承知しました、しばらくお待ちを」
板波はご機嫌な顔でカウンターの向こうへ戻っていった。
「まいったねもう」
「颯真に食べてほしかったんだよ?」
「そうかな」
「うん。だって『あいつは絶対気に入るはずだ』って言ってたよ」
「ふうん。で、亜月はオムライスを頼んだわけ」
亜月は小さく舌を出した。
昼食が終わり、食後のコーヒーを二人で頼んだ。
颯真が新作のランチを絶賛すると、板波はますます得意顔になり「そうだろう」と何度も頷いた。お世辞ではなく心の底からそう言ったのだが、ちゃんと伝わったかどうか心配になった。実際この店は何を頼んでも間違いない。特にこのコーヒーは日本で一番だと颯真は信じていた。
コーヒーを味わいながらしばらくは他愛もない話をしていたが、急に亜月がテーブルに乗り出してきた。そして颯真の目を覗き込むようにして悪戯な笑みを浮かべた。
「ねえねえ」
「うん?」
「さっきね、大変なことが起こったの」
「大変なこと?」颯真はコーヒーカップを口に運んだ。「さっきって、いつ?」
「ここに着いた時、お店の外で」
「なに? 事故?」颯真は亜月の体をしげしげと眺めた。怪我をしている様子はない。
「違うよ」
「じゃあ何?」
「へっへえ」
「なんだよ。もったいつけるなよ」
亜月は傍らに置いた鞄を開けると、中から白い封筒を取り出した。
「じゃじゃーん」
颯真は眼の前に突き出された封筒と亜月の顔を見比べた。
「なにそれ?」
「決まってるでしょ」亜月は扇子であおぐように封筒を揺らした。「ラ、ブ、レ、ター」
「なにい!」颯真は目を丸くして叫んだ。「まじで?」
颯真は次の言葉が出てこなかった。
「うーん」しかし当の本人は眉間にしわを寄せ首をかしげた。「たぶん」
「たぶんってなんだよ。読んでないの?」
「まだ」
「なんだよそれ。それで相手は誰なんだよ」颯真は苛立ったように体を揺すった。
「知らない男の人」
「そりゃそうだろうな。それで告白されたの?」
「ううん」亜月は首を振った。「お店の前でいきなり渡されて、そのまま走って行っちゃった」
「何も言わずに?」
「うん。でね、颯真が来たら一緒に開けようと思って」
「ラブレターを? けっこう悪趣味だなあ」
「え、そんなつもりじゃないよ」亜月は慌てて首を振った。「ただ颯真に隠すつもりなんてないし、それに……実を言うとちょっと怖くて」
悪趣味だ、などと自分で言っておきながら颯真は内心ほっとした。手紙の主にしてみれば気分の良いものではないだろうが、こうして全て話してくれる亜月に安心した。それに怖いと思う気持ちもよく分かる。赤の他人からいきなり手紙を渡されれば、誰だって嬉しいを通り越して気味が悪いだろう。しかも相手は何も言わずに走り去ったというからなおさらだ。
しかしそこで颯真はふと疑問に思った。
「その相手は何でこの店を知ってたんだ?」
亜月はぴたりと手を止めると「なんでだろう」と上を見上げた。「私のことを知っていて、このお店のことも知ってるって……」
颯真が亜月の手から封筒を取り上げた。
「えっ?」亜月はびっくりした目で颯真を見たが、それ以上は何も言わなかった。
颯真は封筒の表裏を確認したが、何も書かれていない。
「この手紙はいったん俺が預かる」そう言いながら封筒を自分のリュックにしまった。
「どうしてよ」亜月は口を尖らせた。
「嫌なの」
「嫌じゃなけど」
「勝手に開けたりしないよ。だけどストーカーだったらまずいだろう。中にGPSのタグとか入ってたらどうするの」
「やめてよ、もう」
「まあ、それは言い過ぎだとしても、なにが仕掛けがあるかも知れないし」
「それじゃあ颯真が危ないじゃない」
「ヤバいことになったら警察に持っていくよ。とにかく今日のところは俺に預けといて」
「わかった。でもちゃんと私にも読ませてよ」
ストーカーかも、と言ったのは半分本気だった。どんな罠が隠されているか分からない。亜月が渡る橋は、まず自分が渡る。だけどもし本当にラブレターだったらどうする? 純粋に亜月のことが好きなのだとしたら。
颯真はリュックの中の手紙を今すぐ開けたい思いに駆られた。
男なら亜月を好きになってしまうのは当然だ。好きにならないほうがおかしい。相手は一体どんな男だ? まさかイケメンか?
「どうしたの」亜月が言った。
「いや、何でもない」颯真はニコリと返した。「しかしなんだ、今どき手紙って……」
「うん、私も初めて」
「単なるナンパってわけではなさそうだけど、なんともレトロな男だな」
「だけどさ、手紙ってなんかロマンティック」亜月は両手の指をクロスさせた。
「なんだよそれ」
そこにコーヒーサーバーを片手に板波がやってきた。板波は何も言わず二人のカップにコーヒーを注いだ。
「このあと遊びにでも行くのかい」板波が言った。
「そうなんですよ。友達とその彼女、四人でカラオケに」颯真が答えた。
「それって、何度かうちの店に来たことのある、あの賑やかな二人?」
「そう、あれです」
敦裕と咲世を何度かこの店に連れてきたことがあった。最初の時はあまりの騒々しさに出入り禁止を言い渡されるのではないかと心配したが、板波はその後も二人を快く歓迎してくれた。
「そうかい、だったら楽しくなりそうだな」
「そうなんですけど、あいつらの場合は程度が問題なんですよ。この店にもいろいろ迷惑かけましたし」
板波は声を出して笑った。「颯真くんと亜月ちゃんの友達なら大歓迎だ」
「すみません」颯真は照れたように笑った。
「なあに、お客様が増えるのはウェルカムさ。それに君たちは僕の子供みたいなもんだ。好きな時にここを使ってくれていいよ。なんなら二人で店を継いでくれると助かるんだけどなあ」
そう言い残すと、板波はまた笑いながら戻っていった。
「子供だってよ」亜月を見ながら颯真がにやけた。「やっぱり子供っぽいんだよ、亜月は」
「颯真でしょ。だって『君たち』って言ったじゃん」亜月が微笑みかえした。
「そうだっけ」
「そうだよ。私は息子が連れてきた彼女だもん。板波さんは便宜上『君たち』って言っただけ」
「そういうところが子供なんだよ」
亜月がさらに何か言おうとしたので、颯真は慌てて話題を変えた。
4
いつものように『SOH’s』で長居をし、陽が傾き始めたころ二人はようやく店を出た。それから電車に乗り繁華街に出ると、賑わう大通り沿いをカラオケ店めざして歩き始めた。
通りの両側には大小様々なビルがひしめき合うように立ち並び、それらはすでに眩しいネオンで包まれていた。街には人や車が溢れ、空気そのものが軽くなり浮かれているように思えた。
駅からしばらく歩くと、二本の幹線道路が交わる大きな交差点に出た。もともと時間を問わず人出の多い場所だが、今日はいつにも増して混雑していた。
「夕方になると一気に人が増えるな」颯真が感嘆するように言った。
「ねえ、見て」亜月が颯真の袖を引いた。
「うん?」颯真は亜月が指差す方向に目をやった。
幾重にも重なる人混みのさらにその向こう、交差点の斜め向かいの角に大型のダンプカーが突っ込んでいた。ダンプは前半分を店の中にめり込ませ、後ろ側、荷台の部分を歩道に突き出していた。交差点の中央から店にかけてダンプが積んでいたと思われる黒い土が散乱している。既にパトカーが駆けつけており、群がる野次馬を警察官が遠ざけているのが見える。しかし現場はまだ混乱のさなかにあるようで、交通は完全に麻痺したまま、ときおり何かを指示するような怒鳴り声が聞こえてくる。通行人は交差点で立ち止まり次々と現場に向かってスマホを向けた。事故現場をバックに自撮りをしたり、中にはライブ配信を始める者もいた。
「こりゃひどい」颯真は溜息を漏らした。
パトカーがさらに到着し、救急車や消防車のサイレンも次々と近づいてきた。
「ついさっき起きたみたいだね」亜月が怯えるように言った。「大丈夫かな。ケガした人とかいるのかな」
「どうだろう。人が多い場所だから心配だな」
やがて交通整理をしている警察官から進むように指示が出た。。
颯真は心配そうに事故現場を見つめる亜月の手をとって先を急いだ。
繁華街の中心部から離れるにつれ、次第に人の数は減ってきた。もっと駅に近い場所にもカラオケはあるのだが、あの二人はお気に入りの店を譲ろうとはしない。
不意に、つないだ亜月の手に力が入った。
「本当に免許とるの?」
「ん? どういう意味」颯真は亜月の顔に視線を落とした。
「危ないよ」
「ああ」颯真は理解した。「事故なんて起こさないよ」
「颯真、運転上手そうに見えないし」
「おおい、そういうこと言うなよ」
「車なんてなくていいよ」亜月は歩きながら下を向いた。
「そりゃあ俺は運動神経よくないけどさ」そう言って颯真は肩を落とした。「そう面と向かって言われるとなあ」
「ごめん。でもそういうことじゃなくて。ね、分かって。免許を取るなとは言わないけど」
先程の事故の光景が目に焼きついてしまったのだろう。亜月が何よりも颯真の身を心配していることを、誰でもない颯真自身が一番よく分かっていた。
「考えておくよ」
「私、今のままで楽しいよ」
顔を上げた亜月はすがるような目で颯真を見上げた。
颯真は頷いた。「そうか。ありがとう」
亜月は嬉しそうに腕を絡めてきた。
「けどさ、男としてはコンプレックスなんだぜ」
「何が?」
「運動神経の話」
「そうなの? なんでそんなこと気にするの?」
「だってイケてる男子はだいたいスポーツができるだろ」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「そんなの、ただの特技の一つでしょ」
男としてはそう単純に割り切れないところもあったが、だんだんどうでもいいことに思えてきた。亜月が本当に気にしていないのならそれでいい。
5
「帰りが面倒なんだよな」
颯真はいつもと同じ愚痴を亜月にこぼした。目的のカラオケ店が入るビルは駅からだいぶ離れた場所にあった。そのぶん料金が安く、週末だろうとなんだろうと、たいてい空室があった。食べて飲んで、何時間でも歌えるこの店が敦裕と咲世の行きつけであり、必然的に颯真と亜月もそれに巻き込まれる形となっていた。
ビルの前に着いた颯真は辺りを見回した後、敦裕にメッセージを送った。するとすぐに返事が返ってきた。
亜月が背伸びをして画面を覗き込んだ。「あれれ、もう中にいるの?」
「そうらしい。なに気合入ってんだか」
颯真と亜月はビルの前面にあるエレベーターに乗った。エレベータの箱に入ると正面の鏡に二人の姿が映った。颯真は鏡やガラスに映る亜月を見るのが好きだった。そうやって亜月の姿を客観的に見る時、激しく心を揺さぶられたあの瞬間が蘇る。
鏡の中の自分が笑っていることに気づき、颯真は慌てて背中を向けた。
建物の4階と5階がカラオケ店で、敦裕たちは4階の部屋にいるとのことだった。エレベーターを降りた二人は、4階にある受付カウンターを過ぎ、細い通路を奥へと進んだ。受付カウンターの奥には厨房があり、低く漏れてくる音響と香ばしい匂いがフロアに充満していた。
颯真は教えられた部屋番号のドアを開けた。その瞬間、ラップミュージックの重低音が突風のように押し寄せてきた。
「あ、颯真くん!」部屋の中から咲世が叫んだ。そして後ろにいる亜月の顔を見ると、手首が折れるかと思うほど激しく手を振った。「亜月ちゃん! 久しぶりい!」
「咲世ちゃん! 元気だった?」亜月も負けじと手を振り返した。
「見れば分かる」颯真はつぶやいた。咲世はまだ手を振り続けている。「あの腕の速さを見てみなよ」
亜月は颯真の尻を叩いた。
「咲世ちゃんのチャンネルいつも見てるよ」亜月が言った。
「ほんと? ありがとう!」咲世は亜月に抱きついた。
「そのうち咲世ちゃん有名人になっちゃうよ」
「ならないならない。だってフォロワーなんて敦裕と亜月ちゃんくらいのもんだし」そう言ってから颯真に視線を投げた。「誰かさんはいつまでたってもフォローしてくれないしね」
颯真が肩をすくめながら部屋の奥を見ると、敦裕がマイクを握ったまま片手を上げた。颯真も手を上げて返事を返した。
「何飲む?」咲世が壁の受話器に手をかけながら言った。
二人は咲世の向かいに腰をおろした。
「俺はハイボール」
「じゃあ私も」
しばらくして一曲歌い終えた敦裕がソファーに戻ってきた。
「ヘイメーン、調子はどうだい」
「普通にしゃべれよ」
そこにトレーを持った店員が入ってくると、テーブルの端にグラスを四つ置いた。店員が一礼して出ていくと、敦裕がさっさと自分の酒を手に取った。
「ではでは、まずは乾杯といきますか」
颯真は咲世、そして亜月にグラスを渡した。
「この俺の輝ける未来、亜月ちゃんと咲世の健康、そしてそろそろ颯真が亜月ちゃんに振られることを祈って――」敦裕がグラスを掲げた。「乾杯!」
咲世と亜月が敦裕の後に続いた。颯真は振られねえよと吐き捨ててからグラスを合わせた。
全員が一口目を飲むのを待って敦裕が言った。
「亜月ちゃん、こいつが嫌になったらいつでも言ってくれ。そうしたら三人で盛り上がろう」
「あのなあ」
「大丈夫だよね」咲世が身を乗り出した。「だってさ、颯真くんてなんだかんだ言って、そこそこカッコいいと思うんだけど」
「褒めてないよね?」
「ね、亜月ちゃん」
亜月は可笑しそうに口を開けて笑った。
敦裕が悟ったような顔で腕を組んだ。「確かに、顔はまあまあといったところか」
「中身はどうだって言うんだよ」
「颯真くん、それは俺の口からはちょっと……」
咲世が手を挙げた。「はい、その件については私からお伝えします」
「伝えなくていいよ」
颯真の横で亜月がまた笑った。
四人が順番に歌い、曲の合間は敦裕と咲世の漫談のような話で盛り上がった。その漫才コンビが80年代のデュエットソングを歌っている間に、颯真は亜月にスマホを見せた。
「これ、さっきの事故。ニュースになっている」
亜月が颯真の肩に頬を寄せた。
「ほんとうだ」
<本日午後……で事故がありました。ダンプカーは近隣の建設現場から大量の土砂を運んでおり……警察はこのダンプカーが右折をする際、重さで交差点を曲がり切れず……なお、この事故による死者はいないとのこと>
「亡くなった人はいなかったんだね。よかった」
そう言ったきり亜月は黙った。ただ膝の上で拳を強く握りしめているのが分かった。颯真はその固くなった拳にそっと手を重ねた。
「おいそこのオーディエンス! いちゃいちゃしてないで聞け!」
スピーカーから敦裕のシャウトが聞こえた。颯真は手を上げ、亜月は手拍子を打った。そうして気がつけば二時間が過ぎていた。
「ねえ、どうするう?」酔いの回り始めた咲世が敦裕にもたれかかった。
「延長しとくか。どうする、颯真」
「帰ろうかな」
「おい!」
「冗談。延長でいいよ。ついでにドリンクも――」
その時だった、鼓膜を突き破るようなベルの音が鳴り響き、四人はその場に固まった。
「なんだ?」敦裕が目を丸くした。
「非常ベル?」
「なんか臭い」咲世が鼻の下を押さえた。
入り口の近くに座っていた颯真が立ち上がりドアを開けた。その瞬間、熱気と共に黒い煙が部屋の中に流れ込んできた。咲世が小さな悲鳴をあげて敦裕の腕に抱きついた。颯真が部屋の外に出てみると廊下の先、エレベータの前で大きな火柱が上がっていた。床から湧き上がる炎が大木の幹のように上まで届き、天井を這うようにその腕を広げている。強烈な熱と鼻を突く刺激臭が襲いかかってきた。店内は黒煙により視界を奪われつつある。
「おい、逃げるぞ」颯真は部屋の中に顔を突っ込んで言った。
「うお!」ドアから顔を出した敦裕が叫んだ。「こいつはヤベえ」
何人もの客が次々と部屋から出てきた。皆がみな目を細め、口元を手で覆い、困惑の表情で目の前の事態を理解しようとしていた。
「エレベータはだめだ。反対側の非常階段で――」
そう言いかけた颯真の肩を、誰かが勢いよく押しのけた。颯真は半開きのドアに頭を強く打ちつけると、低く呻いて額をおさえた。
誰かの絶叫が店内に響き渡った。
するとそれが合図だったかのように、客は一斉に非常階段に向かって走り出した。その中には店員の姿もあった。廊下が狭い上、非常階段には他の階からの客も流れ込んできたため人の流れは鈍い。厨房の方で何かが破裂する音が聞こえ、ビルの壁が重く震えた。
炎と煙、悲鳴と怒号。狭い廊下はパニックとなった。
天井のスプリンクラーが作動した。
理性を失いかけた人の波と頭上から浴びせられる水に、颯真はたまらず敦裕を押し返して部屋に戻った。
「颯真」亜月は泣き出しそうな顔をした。
「あれじゃ階段で将棋倒しになるかも」
「でも、火が」亜月の体が激しく震えだした。颯真はその肩を抱きしめた。
「大丈夫、落ち着いて行動すれば大丈夫」
そう言った自分の手も震えていることに颯真は気がついた。
颯真は亜月の肩を離すと敦裕に向かって言った。
「スプリンクラーも動いてるし、他の客を先に行かせたほうがいいかもしれない」
敦裕は頷いた。「小さい店だから、そんなに客もいないだろうしな」
「颯真、血が」亜月がハンカチを颯真の額に当てた。
「思い切り突き飛ばされたよ」
少しして悲鳴と足音が小さくなったのを見計らって、颯真は部屋の外に出た。続いて敦裕がドアを押さえながら咲世、そして亜月を部屋の外に出した。店内にはまだ人の声がする。火柱の勢いは衰えていないものの、スプリンクラーのおかげで火の回りは鈍化しているようだった。煙を吸わぬよう、全員濡れたおしぼりを口に当てた。
エレベータの方から男が歩いてきた。この非常時にふらふらとおぼつかない足取りで颯真に近づいてくる。その目は大きく開かれているが、焦点が定まっていない。男は何かを捕まえようとするかのように両手を前に出すと、颯真に向かって口をパクパクと動かした。
「何してるんですか、早く逃げないと!」
そう声をかけた時、男の首に赤い亀裂が真一文字に走った。
「えっ?」
大きく横に伸びた亀裂はパックリと口を開け、そこから吹きこぼれた鍋のように血があふれ出てきた。血は泡と混ざり、見たこともない量となって男の首から胸を染め上げた。
颯真は悲鳴を上げた。
「どうした!」
敦裕が振り返った。そこに血を噴き出しながら意思のない目で首を揺らす男を見ると、同じように叫び声を上げた。咲世が頭を抱えるようにして膝から崩れ落ちた。亜月は両手で口を押さえ声を上げることもできなかった。
男が大きく口を開いた。喉の奥で血の詰まった水風船が割れたように、そこから赤い塊が一気に吐き出された。それから男の体はゆっくりと前に倒れた。そしてその向こうから、炎と煙を背に別の人間の姿が現れた。その姿を目にした時、颯真の全身が粟立った。
男と思われるその人物は黒い全身型のレインウエアを着ており、頭はフードで覆われている。だが恐れたのはそれではない。身長が高い。2メートル近くあるように思われた。そして特筆すべきはその細さだった。異様なまでに痩せているのがレインウェアの上からでも分かる。
炎の放つ逆光の中で、その長い影が揺れた。
颯真は視線を落とした。その手に刃渡り30センチはある包丁が握られている。
「なんだ……あれ」敦裕の声が震えている。
そのときレインウェアの男の後ろ、受付カウンターの中から一人のアルバイト店員が飛び出してきた。店員は男の横をすり抜け非常階段へ逃げようとした。だが男はその身長を考慮しても長すぎると思える腕を伸ばすと、店員の髪を鷲掴みにして一気に引き寄せた。苦痛に顔を歪めた店員は、腕を振り払おうと激しく体をよじった。
颯真と敦裕は全身の筋肉が硬直し、動くことができなかった。
急に店員の動きが止まり、唇をねじ上げるようにして歯を食いしばった。突然、白いワイシャツの胸元が三角形に盛り上がった。その頂点が一気に高くなったかと思うと、シャツを突き破り巨大な刃が現れた。赤い飛沫が颯真の顔に飛び散った。引きつっていた店員の顔が凍ったように静止した。刃は一度引き抜かれると次は胃袋の辺りから飛び出した。シャツの中から湯気が立ち上っている。不意に店員の目から光が消え、眼球がぐるりと上を向いた。店員は白い目を虚空に向けたまま、自分の体から放たれた血の海に沈んでいった。
後ろから亜月のしゃくり上げるような声が聞こえ、颯真は我に返った。
亜月――
颯真は亜月に向かって走った。だが敦裕の横を通り過ぎたところで、そこにうずくまる咲世の体に足を取られ転倒した。床に倒れ込んだ颯真は後ろを振り返った。咲世の向こうで立ち尽くしたままの敦裕の背中、そしてその前に長い男が立っていた。
「敦裕!」
男はフードの奥から敦裕を覗き込んだ。
「お前、なんなんだ」
敦裕が呻きとも呟きとも分からない声で男に言った。
颯真は亜月に這い寄り、頭を胸の中に抱えた。そしてもう一度振り向いた。
「敦裕、逃げろ!」
男は敦裕のはるか上から腕を振り下ろすと、髪の毛を鷲掴みにして上へ引き上げた。敦裕は苦悶の声を上げ男の腕にすがりついた。男は顔を近づけ、敦裕の額から顎の先まで舐めるように見回した。そして浮き上がった顎の下に包丁を当て、一気に横に薙いだ。敦裕の体が大きく一度跳ね上がり、それから小刻みに痙攣し始めた。首から孔雀の羽のように血が吹き上がり、長い男の胸に飛び散った。男は血を浴びながらゆっくりと手を離した。敦裕の体は糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちていった。
颯真は亜月を抱いたまま、はるか上まで伸びる長い影から目を逸らすことができなかった。
男は敦裕の体を跨ぎ、床の上で丸くなったまま震えている咲世に近づいた。そしてその前で腰をかがめると、髪を掴んで頭を持ち上げた。咲世は涙と恐怖でぐしゃぐしゃになった顔を床から引き剥がされた。男は敦裕の時と同じように咲世の顔をじっくりと眺めた。そして包丁を頭上高く振り上げると、何のためいもなく咲世の背中に振り下ろした。刃が根元まで背中に吸い込まれると、咲世が大きくのけぞった。男は包丁を抜くともう一度振り下ろした。さらにもう一度、もう一度。刃が引き抜かれるたびに血しぶきが宙を待った。咲世はもう身動き一つしない。その背中に男は何度も包丁を振り下ろした。
やがて男は満足したかのように立ち上がり、そして颯真を見た。
一瞬、颯真は男と目が合った。ガラス玉のように温度のない無機質な目。
颯真の腕の中で亜月はマネキンのように生気を失い、震えながら男を見上げた。
颯真は覚悟した。亜月を抱えて非常階段まで走るのは無理だ。俺が何としてでもあの男を止める。
そのとき気づいた。
あの男は自分など見ていない。眼中にあるのは亜月だ。
フードの隙間から覗く男の口が大きく開いた。
笑っている。
殺そうとしているのは亜月だ。
だめだ、それだけは絶対にだめだ。
理由を考えている暇などなかった。
放課後の校庭、薄暗い教室、沢山の日々。
颯真は少しだけ笑った。刺し違えてでも止めてやる。
そして長い男に突進した。あの男もろともを炎の中に。
そのとき厨房に充満していたガスに引火し、フロア全体を瞬時に吹き飛ばした。
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