ホライズン

瀬山 将

序章

 暗く狭い部屋の中で、パソコンのディスプレイだけがぼんやりと光っていた。

 座卓の上に開いた古いノートパソコンの前に座り、彼はひたすら画面を見つめていた。

 マウスを動かす時もキーを叩く時も、その顔が画面から離れることはなかった。大きく開かれた目は上下左右とせわしなく動き、白くひび割れた唇はわずかに開いたままぴくりともしない。彼はもう何時間も一人でそうしていた。食事もとらず、夜が更けてもなおパソコンの前から動こうとしなかった。

 と、彼は顔を上げて首を回した。視界の中を壁と天井がゆっくりと巡った。


 築三十年、2Kのアパート。近くをバイパスの高架が走っており、静かな夜などまるで縁がない。この狭い部屋が世界の全てだった。外の世界がどれくらい大きいのか、そこにはどんな景色が広がっているのか。そんな興味はとうに失くしている。この部屋で朝を迎え、昼と夜を過ごし、いつの間にか眠る。一日中聞こえ続ける車の音。誰とも交わることのない毎日、交わる必要のない人生。それが普通だとは思っていない。それくらいの常識はまだある。

 物心ついた時から人の顔をみるのが苦手だった。なぜ自分がそんなふうに生まれついてしまったのかは分からない。他人と一緒にいることが嫌で、誰とも馴染むことができなかった。話すことも、話しかけることも怖かった。幼少の頃の記憶はないが、いつも何かに追い詰められていたあの恐怖だけは今でもはっきりと蘇ることがある。

 やがて学校にあがると、毎日が耐え難い苦痛となった。教室の中ではいつ、どこを見ても他人がいる。下っ腹の方から常に何かがせり上がってきて、突然大きな声を出したい衝動に駆られた。他の生徒に自分から近づいたことはない。なのに色々な人間が自分に近づいてきた。優しく語りかけてくる者もいたが、たいていの人間は心無い言葉を投げつけ、侮蔑に満ちた笑い声をあげた。中には叩いたり蹴ったりする人間もいた。それは何年経っても変わらなかった。大人たちもやってきた。彼らは数え切れないほどの質問を繰り返し、最後には君の気持ちはよく分かる、などと言って去っていった。

 やがて当然のように世間からこぼれ落ちた。表通りから抜け出し、路地裏の湿った排水溝に身をひそめ、誰の目にも触れないように生きようとした。そのまま放っておいてくれればよかったのだが、世間はそれを許さなかった。

 またしても他人がやって来た。今度は無理やり服を引き剥がし、腹を裂いて中を覗き込んだ。そして内臓の奥まで手を突っ込み探っては、次々と不適合者の判を押していった。

 どうしてそんなことをするのか。何の意味があるのか。自分の腹の中をかき混ぜて何を探していたのか。それは未だに分からない。だが確かなことが一つある。探し物が何であれ、彼らは見つけることができなかった。そしていつしか諦めた。

 自分の中には何もなかった。意味あるものなど何もなかったということだ。

 意味と存在は同義だろうか?

 月日を追うごとにより奥へ、より暗い場所へと後ずさりしていった。やがて明かりは見えなくなり、人の声も聞こえなくなった。

 何かを恨みたかった。自分ではない何かのせいにしたかった。だがいつしかそんなことさえも面倒に思えるようになった。

 膝を抱えたまま何年かが過ぎた。

 ある日、新しい世界が開けた。手に入れたパソコンは数年前の旧型ではあったが、それは狭い部屋の中の全てを塗り替えた。パソコンのことやインターネットのことを夢中で学び、その先に忽然と現れた未知の世界に飛び出した。

 顔のない人がたくさんいた。

 音のない声がたくさん聞こえた。

 その間をすり抜けるように泳いだ。毎朝、毎日、毎晩。時が経つのも忘れて彷徨い続けた。泳いでいるだけなら誰も話しかけてこない。気にも留めない。

 怖くなかった。


 暗い部屋の中には乾いたクリック音だけが響いている。画面からの弱い明かりを受けた彼の体は薄い影となり、時折壁の上でゆらゆらと揺れた。

 体の疲労はピークに達していた。もう少しすると神経が悲鳴をあげる。やがて蝋燭の火を吹き消したように倒れて眠る。

 突然、彼は画面に飛びついた。鼻先が触れるほど顔を近づけ、にわかに呼吸が荒くなった。そして短い歓喜の声を上げた。

 彼は上体を戻し座布団の上に座り直すと、慌ただしくテーブルに手を伸ばした。掴みそこねたマウスが床に落ち耳障りな音を立てた。彼は舌打ちをして拾い上げると、ひときわ激しくマウスを縦横に走らせ、キーを叩き、またマウスを走らせた。やがてその手を止めると、満足気に大きく息をついた。念のため彼は操作が正常に行われたことを確認した。彼は瞬きも忘れて画面を見つめた。

 そこに彼女はいた。こっちを向いて可愛らしい笑顔を彼に投げかけている。

 彼は耳をすませた。そうしていると何かが聞こえたような気がした。

 彼女の声だ。そうだ、彼女に会わなくてはならない。彼女はそのためにここで待っていたのだ。どこにいる? それを教えてくれたら、この部屋を出ることだって厭わない。

 彼はそこでようやく部屋が真っ暗であることに気づき、卓上の時計に目をやった。

 もうこんな時間だ。

 彼は両手を広げ、背中を力いっぱい伸ばした。背骨がポキポキと鳴った。凝り固まった筋肉が引きつるように痙攣し、首から肩へ重い痛みが走った。その痛みに顔をしかめながらも、彼の口元は綻んでいた。それからもう一度時計に目をやった。

 このことは黙っていよう。

 そこで彼は思わず吹き出した。

 黙ってられる自信はなかった。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。


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