Mission1 身代わりとなって主君を助けよ②

 ……。

 身代わりを申しでたのはつい数日前の出来事だったが、どっぷりとつかれてしまった今となっては遠い昔のことにも思える。

 美緒は今朝、異国行きの船に乗って旅立っていった。まさか国外にいるとは夢にも思わないだろうから、いまさらにせものと知ったところで本物にたどり着けるわけはない。

 依都はつかまってしまったが美緒のあんたいは守りきったので、試合には負けて勝負には勝ったというところか……いや逆か?

「で、結局お前は何者なんだ」

 上の空だった依都の耳に冷たい声がさった。

 依都は再び、あいさつをした部屋へと連行──通されていた。正座をして向かいあい、品定めするような悠臣の視線を浴びている。先ほどはあんなにいとおしげだったのに、今や見るかげもなくぶつちようづらもどっている。

 いや、どちらかというとあきれているのだろうか。このじようきよう明後日あさつての方向に意識が飛んでいる依都に対して。

「少々護身術が得意で──」

「馬鹿言うな。あれは完全ににんとうを前提としたけんじゆつだった。お前、しのびなのか」

「……わかっていてくの、ずるくないですか」

 忍刀は日本刀とちがって反りが少なく、また全体的な長さも短くなっている。せんにゆう任務の多い忍びがせまいところでも戦いやすく、それでいて殺傷能力や間あいを十分に取れるように計算された武器だ。その形状ゆえにるというよりは突き刺すことにけており、依都がしゆうげきしやの後頭部をつかで突いたのもまさにそういった理由からだった。

「つまりお前は、有栖川家に仕える忍びということだな?」

「………………はい」

 ばれてしまっては仕方がない。いさぎよく認めると悠臣が目を見開いた。

「忍びなんて旧時代的なものがまだ生き残っていたんだな」

 旧時代的で悪かったわね。依都はぶすっと口をとがらせた。

 そもそもこの男こそいったい何者なのか。ぼつちゃんとあなどり油断していたことは認めるが、忍びの背後を取ったうえにナイフまで突きつけられるだなんて。どうせまぐれだろうがなつとくはいかない。

「あなたこそ何者なの?」

 声を低くして依都はたずねる。改めて見た悠臣の顔はたんせいで、しかしそのせいで作り物のような印象を受けた。青灰色のひとみからは体温が感じられず、無機物のような冷たさを覚える。白いはだには青筋ばった血管がかんでいて、この人には青い血が流れているに違いないと思った。

「当ててみろ」

 れいな顔を不均等にゆがめてにやりと笑い、悠臣が逆に訊ねてきた。それがかえって依都をいらたせる。それがわからないから訊いているのだ。反骨心をかくしもせずににらみつけるととうとつに悠臣が笑いだした。

「な、何?」

 思わず半歩身を引いてしんな目を向ける。対する悠臣はくつくつと笑い、依都が身を引いたぶんだけ前にでた。おもしろそうに依都の顔をのぞき込む。

「強気だな。俺がなんと呼ばれているか知らないのか」

「もちろん知ってるわ。人を呪い殺す夜叉の子なんでしょ」

「知っていて身代わりになったのならいい度胸だ。命がしくないのか」

「ない」

 そくとうして悠臣の冷たい瞳をまっすぐに睨み。

「主君のためにける命なら惜しくない。それが忍びの本懐というものよ」

「成るほど。実に旧時代的なたんさいぼう思考だな」

 ……今、なんと?

 あまりの言い草に聞きちがいかと思った。いや実際に聞き間違いだったのかもしれない。

 だって暴言をいた直後のくせに、悠臣は依都の左手を取るとおのれの口元まで持っていき──。

「なあ、その命俺にくれないか」

 あっと思ったときには、悠臣のくちびるが左手の薬指にれている。ちりっとするどい痛みが走り思わず依都が声をらすと、していたまぶたがわずかにあがり青灰色の瞳と目があった。

 悠臣の長いまつが月の光を反射してきらきらと光っていた。しばらくのあいだ依都はまばたきも忘れて見入ってしまう。

 唇のはなれたかんしよくがあり、ようやく依都はわれに返った。薬指には赤いあとが残っている。

「なんのつもり?」

けつこん指輪の代用。用意するのを忘れたからな」

「はい?」

 結婚指輪って……結婚する者同士でおくりあうあれのこと? 近年定番化しつつある西洋の文化だと知ってはいるが。

「なんでわたしに?」

にぶいな。俺と結婚して欲しいと言ったんだ」

「はあっ?」

 依都はむせ返った。手を引っ込めるとすかさずしりたたみをずってあとずさる。

「か、からかわないで」

「こんなことじようだんで言うか」

「金でよめを買おうとしたくせにっ」

「気が変わった」

 依都がげたぶんだけ悠臣もこちらにすり寄った。とんとかべに背中がぶつかりとうとう逃げ場がなくなって。とどめとばかりに悠臣は両手を壁についておおかぶさり。

「今はお前の意思でとついできて欲しいと思っている。書類上で嫁にしたところで、お前にその気がなければまた逃げられるからな」

「なんでそこまでしてわたしにこだわるのよ」

 訊ねて、しかしすぐに思い至った。

「……あの襲撃と何か関係があるの?」

「そうだ」

 やっぱり。依都は奥歯をんで視線をのがした。

 先ほど襲撃犯は〝有栖川美緒をわたせ〟と言っていた。つまり襲撃の理由はこちら側にあるというわけだ。そうなると最もあやしいのは高柳の伯父おじである。ぼつらくぞくである有栖川家をねらってもなんのうまみもないけれど、借金がらみとなれば話は別だ。伯父のせいで悠臣も何らかのがいを受けており、腹いせに美緒へとざんぎやくきわまりないこうをしようとしているのでは。悠臣の言う〝結婚〟とはおそらく〝殺す〟というたぐいのいんであり、これはこうみよういんぼうで──。

「強いお前にれてしまった」

「ほれっ」

 予想とまったく違う答えが返ってきて声が裏返った。

 あれで惚れたですって? おそれられるならまだしも、そんな展開は想定していない。

たのむ。どうせ死ぬつもりなら俺の物になってもいいだろう?」

「それとこれとは話が違う!」

「頼んでだめなら美緒をさがしてひとじちにし、結婚してくれなきゃ殺すとおどす」

「ちょっ、そんなのきようよっ」

「何とでも言え。どうせ俺はしやなんだろ」

 まさかこの男……夜叉と呼ばれてねている?

 なんだか調子のつかめない男である。ともあれ、まずはせまる悠臣を押し返そうとした。しかしじゆんすいな力比べでは完敗し、押し返すどころか首筋に顔をうずめられてしまう。すみいろかみの向こうには窓が見え、そこからは白い月が覗いていて。なんだか見られてはいけないものを覗かれているような気がしていたたまれない。頭が真っ白になる中で、悠臣のいきが首筋にかかった。

「愛してる」



 十六年の人生の中で最もめのよい朝だった。

 どこを見ているでもなかった依都の瞳に、雪見障子から秋晴れの日差しが差し込んだ。白いちりが光をはじいて暖簾のれんのようにらめく様をぼんやりとながめる。

「全部……全部このとんが悪いんだ。ふかふかがにくい……」

 ぼふん、とまくらうらけんらわす。このじようきよう下でじゆくすいしてしまった自分の図太さというか楽天的なところを正当化するために。

 昨夜追いめられた依都だったが、しかしそれはいつときのことだった。悠臣は歯の浮くような台詞せりふを吐いたあと、

「一晩考えてくれてかまわない」

 と言ってにこりと微笑ほほえみ依都をその場に置き去りにして。結局依都は美緒のために用意された部屋で一夜を明かした。

 初めはちゃんと逃げようとしたんだ……と、だれにともなく言い訳をする。

 しかしあのあと、書生を名乗る人物が布団をいて去っていき、それがあまりにもごこがよさそうだったので。

 ふかふかな布団に罪はない──そう思ってしまった。美緒を見送るために朝は早かったし、にせものとばれてはいけないきんぱくかんでひどくつかれていたせいもある。それに今逃げてしまっては、悠臣は本当に異国まで飛んでいって美緒をつかまえそうな気がしたし……。

 と、言い訳だけはたくさんでてくるが布団からはでられない。

(それにしても……〝愛してる〟だなんて)

 昨夜の光景が頭をよぎり、つい依都はしっちゃかめっちゃか暴れまわった。あんな台詞を実際に言う人間が存在しているだなんて。びっくりしすぎてだしそこねていたいかりを今さらながらに布団へとぶつける。断じてほだされていたわけではない。あれには必ず裏があるとわかっている。依都はまだ陰謀説を捨ててはいない。

「美緒様、お目覚めですか?」

 うだうだしていたところに声がかかった。人が近づいてくる気配は感じていたのでおどろきはしなかったが、起きなければならないという絶望は覚えた。

「起きてます」

 美緒じゃないけど。

 答えてもぞもぞと布団からいでた。乱れた寝間着(当然のように用意されていた。たけがぴったりなのが逆にこわい)を整える。

「失礼します」

 という声がして障子が開くと、二十代後半くらいの男性がろうに座していた。昨夜布団を敷きに来た書生である。はかまにスタンドカラーシャツをあわせたその人は、依都と目があうなり人のよさそうなみをかべた。

かしわと申します。悠臣様の身の回りのお手伝いをしております」

 頭をさげた柏木につられて、こちらもあわてて頭をさげた。

「えっと、依都です」

 しかしすぐに柏木が手で制し、「頭をあげてください」と困ったようにしようした。

「こちらの都合で大変申し訳ないのですが、あなたには美緒様として嫁いでいただきます。そのため我々はあなたのことを美緒様と呼びますし、はくしやくれいじようであり悠臣様の婚約者である美緒様には頭をさげる必要がありません」

「成るほど

 かくしておきたい気持ちはわかる。万が一にでも〝東堂園家のむすが伯爵令嬢に逃げられたあげくその使用人と結婚した〟なんて話が知れたら東堂園家は笑いものになってしまう。上流階級に連なるために伯爵令嬢を買うような家が、そんなしゆうぶんを許すわけがないだろう。

「って、まだ結婚するとは言ってないんですけど」

 せきめたいだけならばしきろうにでも閉じ込めておけばいい。そうしないということは〝何か〟に協力的な嫁が必要ということだ。

 昨夜のしゆうげきも気になるし、めんどうごとならえんりよしたい。

「断らないほうがよろしいかと」

「……どういうこと?」

 柏木のこわが一音さがりけんのんさを帯びた。知らず依都も表情がこわる。

 柏木がふところから一枚の写真を取りだして依都のひざ先に置いた。大きな船がていはくし、乗客が手をっている写真だった。港は見送りの人でごった返している。船はまさに出港するところで、かんぱんと港の人間とをつなぐ紙テープが数本ちぎれてはらりと揺れていた。

「悠臣様が入手した写真です。ここをよくごらんください」

「これは……美緒様?」

 柏木が指差したのは甲板の上だった。美緒と誠一が写っている。美緒の視線を辿たどってみれば、当然のように港で見送る自分もいる。

「悠臣様はすでに美緒様が乗船した船、寄港場所、とうちやく予定時刻など、すべてをあくしておいでです。お仕事がら外国に住まう知人も多いので、あなたが今回の申しでを断ればたちまち現地へとれんらくして下船直後の美緒様をこうそくするでしょう」

「なっ……」

 悠臣は依都が助けに入るまで、はなよめが偽者であることを知らなかった。ということは、襲撃にあってから今朝までの短い時間でこの写真を入手したということだ。ここまで来ると美緒を人質にするという発言もはったりには思えなくなってくる。

 東堂園悠臣……本当に何者なのだろう。

「悠臣様のお仕事って何なんですか」

このへい連隊の中隊長でいらっしゃいます」

「それは〝表〟のお仕事では?」

「……なんのことでしょう?」

 にこりと笑って柏木が言う。どうやら答える気はなさそうだ。

 あきらめて依都は質問の方向を変えてみる。

「じゃあ……昨夜みたいなことはよくあるんですか」

 やはりどうしても昨日の襲撃が気になっていた。

 襲撃に対してある意味、そのうえ依都という不測の事態に関してはしゆんに反撃してみせた悠臣。手慣れすぎている。

 あの襲撃は何なのか。何故なぜいったんはがいしやを演じたのか。予想通りに高柳が関係しているのか。そしてあの襲撃によって〝依都に惚れて〟きゆうこんしたというのは本当なのか──。

 明かされていない点が多すぎて、どうにも〝惚れた〟というのは信用できず、裏があるようにしか思えない。しかし昨日の求婚は真に迫っていて、それがうそにも思えなくて。

 至近きよで見つめてくる悠臣の顔を思いだし、依都の体温がぼんっとあがった。

「うーん、どうでしょう。わたしは使用人ですのでよくわかりませんね」

 柏木の声でわれに返った。浮かぶ笑みはいちも揺るがず依都に真意をつかませない。とはいえそのふんからして襲撃は初めてではなさそうだった。

 どんな生活をしていればおそわれるのが当たり前になるのか。それが当たり前の生活を当たり前のようにかんじゆするのはいったいどんな心地なのか。

 ……つらくは、ないのだろうか。

 柏木が背後から何かを取りだした。

「ではこちらにえてください」

 差しだされたのは一枚の着物だった。一目見て上等なものだとわかってしまう。

「こんな高価な物いただけません」

「悠臣様の婚約者である以上、よい物を身につけていただかなければなりません」

「でもっ」

「ちなみに悠臣様は本日ご用事があるため、ご家族との顔あわせは明日の予定です。ですので今日はほんていをご案内いたしますね。こちらには悠臣様とわたししか住んでおりませんので」

 勝手に話が進んでいって依都はめまいを覚えた。それに本邸を案内するということは、まさかこのしきはなれなのか? げるときに見た限り、ここでさえ十四の部屋と台所、つぼにわがあるのに?

 こんなごうていに住む人物が依都のようなかげに生きる者にれた振りをする理由なんて絶対にろくなものではない。

 となると……これ、どうしよう。

 目の前の着物をじっと見つめる。これを受けとってしまったら最後、本当にもうあと戻りができない。そでを通した瞬間に悠臣のおもわくに同意したことになってしまう。

おくり物を着てもらえないのはさびしいものだな」

 と、いきなり背後から手がびてきて目の前の着物をかっさらった。

 振り返ればスーツに身を包んだ悠臣が立っている。ばさりと着物を広げると、依都のかたにかけて着物ごと後ろからきしめた。

「なっ……」

「帰ってくるまでにこれを着て、答えを聞かせてくれ」

 顔をのぞき込まれ、再び依都の体温があがった。悠臣は満足そうに微笑ほほえんできびすを返す。

「いってくる。帰るまでに花嫁をめかし込んでおけ」

「はい」

 柏木が答えて頭をさげるが、一方の依都はこうちよくし、げんよくでていく悠臣の背中をぼうぜんと見送ることしかできなかった。



 ……絶対におかしい。

 依都は肩にかけられた着物をぎ捨てながら考えていた。自分にはできあいされるわれがない。悠臣は襲撃犯に立ち向かう姿に惚れたと言っていたが、つうは強い女なんてきらわれるはずだしあやしいものだ。絶対に裏でよからぬ仕事を行っており、依都に手伝わせるつもりにちがいない。そういうきたない仕事で東堂園家は億万長者になったのだ、きっと。

「やっぱり逃げよう」

 とりあえずいつものぼろを着て、人目をしのんで階段を下る。柏木は買い物にでかけており今が絶好の逃げ時である。

 悠臣が美緒をつかまえるつもりなら彼女のそばでそれをぼうがいすればいい。依都のとうぼうが発覚したたんに異国の知人とやらが美緒のことを拘束するかもしれないが、それなら今度こそ命がけで助けだす。それだけだ。

(それにしても、伯父おじ様は今どこで何をしているのやら……)

 気の弱い高柳がどうして三万円もの借金をかかえてしまったのか。やはりどうしてもに落ちなかった。同然の依都のことも〝家族〟と呼ぶくらいのお人しであったから、だれぞ困っている人の連帯保証人にでもなってしまったのか。となるとそんな高柳の連帯保証人になってしまったはくしやく様はさらにお人好しということになる。

 考え事をしながら勝手口を飛びだしたところで依都は何かにぶつかった。

「おおっと、危ない」

 その声で誰かに抱き留められたのだと気づく。

 しまった、集中できていなかった。後ろに飛びすさってかいけんを掴むと「待って待って。止める気はないよ」と声の主が両手をあげて降参を示した。

 そこにいたのは二十代前半くらいの下士官服を着た青年だった。長いまえがみで片方の目がかくれている怪しげな青年で、後ろ髪を上半分だけわえている。へらへらと笑って小首をかしげ、敵意のないことを示しながら歩み寄ってくる。

「東堂園中隊長の部下でおとしようっていいますぅ」

「……その部下というのは〝裏〟のお仕事でもけんしているの?」

「やだなあ、なんのことっすか?」

 とぼける早乙女。しかし……と依都は目を細めて早乙女をぎようした。どうしてもこの男がただの軍人とは思えなかったのだ。

 とはいえ目下の問題はこの男が悠臣の部下であることだ。表だの裏だのを差し置いたとしても、上司の婚約者が逃げるのをむざむざ見過ごす部下はいない。

 しかし早乙女は「ふーん」と品定めするようにながめてから、

「そんなにいやなら逃げちゃえば?」

 と、ひようけするほどあっけらかんとして言い切った。やる気なく笑ったその顔は油断をさそうための作り物には思えない。

「どうしてそんなことを言うの? あなた、それでも悠臣様の部下なの?」

 忍びからすればとうてい理解ができない行いだった。主の意にそむくだなんて。

「だって結婚が嫌なんでしょ? そんで君、見たところ逃げられるだけの技術があるよね。だったら迷うことなんてない。逃げちゃえばいいんだよ。借金なんてたおすためにあるんだし」

 なんなら手を貸すけど? とけいはくに笑ってつけ足して、本当に悠臣の部下なのかと疑いたくなるような提案をする。両手をあげたまま道を開け、どうぞと逃走経路をゆずってみせた。

「……」

 わな、ではなさそうだ。しかしいざ「逃げちゃえば」と言われると、ここで逃げるのもしやくさわると思ってしまうのが依都である。

 そのらいだ心をためすように早乙女がたたみかけてくる。

「若いうちは短いんだから、こんなところで時間をにしていたらご先祖様に顔向けできないよ。使

 その一言がじいさまくちぐせと重なった。

 と同時に、


〝まだここで死ぬわけには〟


 そう言った悠臣の顔も頭にかんだ。暴漢に襲われて肩から血を流しているくせに〝死ねない〟とこうとうけいな願望を言ってみせた男の姿。

 ……まあ、あのやられっぷりは演技であり、依都は見事にだまされたわけだが。

 しかしあれを本心だとすると、あの人の命の使い道はあの場ではないということだ。

 ならわたしを三万円で買ってまで、かなえたい命の使い道ってなんなのだろう。

「ま、いーや。逃げるなら今のうちに逃げといてよね。俺行くから」

 再び軽薄な声がかかった。気づいたときには早乙女はこちらに背を向けており、ひらひらと手をって歩きだしている。

「結局何しに来たんだろう……」

 その背中に向かって、依都はあきれた声をあげつつ。

 部下、ね……。

 歩き去る姿にやはりかんを覚えて、思わずじっと見つめてしまった。

 のだ。軍事訓練を受けた人間は歩き方に癖がでるものの、無音の足音というのはまた別の訓練を要するものだ。これがこの男をただの軍人ではないと思った所以ゆえんである。

 予備動作なく背後を取った悠臣と、その部下を名乗る足音のしない男──。

 よし。

 依都は小さくうなずくと、勝手口をあきらめて室内にもどり、えんがわの戸を開けてそこから外へと飛びだした。


    ● ● ●


 カフェーに来るなんて何ヶ月ぶりだろうか。最後に来たときには女給をめぐってちゃんばらそうどうぼつぱつし、とはいえ廃刀令のせいでせいになったのは撞球ビリヤードのキューで、真っ二つに折れて使用停止になっていた。それが今日はブラックテープで補強され、じやつかんごういんに競技が再開されている。

 き抜けになっている二階から一階の遊技場でたまきにいそしむ男たちを見おろしていると、こげちや天鵞絨びろうどの制服を着たボーイがメニューを持ってやってきた。珈琲コーヒーたのむとしばらくして、和服にエプロン姿の女給が危なっかしい足取りで運んでくる。カフェーは西洋の珈琲コーヒー茶館ハウスならって作られたが、見た目重視の女給と社交をかんちがいした男たちとでいつもごった返していた。

「高柳!」

 珈琲を飲み干したところで声がかかった。顔をあげるとスーツ姿の男が階段をけあがってくるところだった。やまたかぼうを持ちあげて軽くしやくをすると、そんなことはどうでもいいとばかりにせつまった顔で向かいに座った。

「しばらくれんらくが取れなかったから心配したぞ!」

「それは本当に申し訳なかった。少々、その、立て込んでしまって……」

 相手のはくに押し負けて高柳が口ごもると、相手はじれったそうに身を乗りだした。声をおさえて耳打ちする。

「それはわかってる。俺への分け前は忘れてないよな?」

「分け前?」

「とぼけるなよ! 警備の情報を教えたのは俺だぞ! ちゃんとアンプルは売れたんだろうな? へんも当然手に入ったんだろう? もうまんできないんだ、早く俺にも分け前をよこせ!」

 血走った目でまくしたてる様子は正気のではなかった。しまいにはむなぐらをつかんですごんでくる。

「ひいっ──」

 たまらず高柳は便所の中へとげ込んだ。戸を閉めようとしたが間に合わず、すべり込んできた男によって後ろ手にかぎを閉められる。せまい空間で二人きりになったたん

「逃げんじゃねえよくそろう!」

 と、男がなぐりかかってきた。

ばいこく

「は?」

 振りおろされた手を掴み、男を半回転させると背中にうでを押しつけた。たちまち男から悲鳴があがるが口を押さえてだまらせる。

 高柳はにやりとわらって。

 とうとつに首をいたかと思えば、次のしゆんかんには

「ば、ばけものっ……」

「よく見ろ、人工だ暴れるな」

 男が再びさけびそうになるのをいちべつすごんで黙らせる。

〝高柳〟の顔の下にはまた別の顔があった。青灰色のひとみすみいろかみを持つ端整な顔立ちをした男──東堂園悠臣が呆れた顔で暴れる男を見おろしていた。

「お前、だれだっ」

ていこく陸軍所属の情報将校とだけ名乗っておこう。お前の取り引き相手である高柳についてくわしくきたい。連れていけ」

 きい、と戸が開くとスーツ姿の男が二人立っていた。撞球ビリヤードをしていた男だった。

 陸軍所属と名乗るくせに軍服を着ていない。つまりはと思い至った取り引き相手がていこうを示したが、すかさず悠臣が手刀をたたき込んだ。ぐったりとうなだれた男に二人組はかたを貸し、ぱらった友人をかいほうするようにして連れていく。

「いやーさすがエージェントNNエヌツー。見事に敵をおびきだしましたねえ」

 と、けいはくな声がかかった。連行される男のさらに向こうへと視線を投げる。

 男とすれ違い様にブローをかまして酔っ払い演技にはくしやをかけさせてから、一人の青年がこちらに向かって歩いてくる。軍人にあるまじき長い前髪で片目をかくしている男──早乙女がうさんくさい拍手をした。

「世界中から指名手配されているのは伊達だてじゃないっすね。いいなあ、俺もすごうでスパイって呼ばれたい」

「お前、殺されたいのか」

 結構本気で言ったのだが早乙女は気にした風もなくひようひようとしている。悠臣はめ息をつくと店をでた。早乙女があとからついてくる。

 世間ににんされている悠臣の肩書きはこのへい連隊の中隊長だったが、それは表向きの身分である。

 本来の身分は帝国陸軍情報局所属の情報将校──いわゆるだった。

 帝国陸軍情報局は二年前に新設された新しい部署だ。そしてこの一見軽薄でやる気のまったく感じられない早乙女こそが情報局で悠臣の副官を務めている男だった。並み居るせいえいを押さえて副官を務めるくらいなので実力者ではあるのだが、それを言うと調子に乗るので口にはださないと決めている。

「それにしても、高柳も阿片中毒で確定っすね。入手先はやっぱりベルナールかなあ」

「軽はずみなことは言うな。しようがない」

 マリア・ベルナールはへんくつの運営、およびスパイ容疑がかかっている女である。

 機密情報の収集手口としては、まず政府要人を阿片窟に招いて中毒にし、〝薬が欲しければ機密情報を持ってこい〟と命じるのだそうだ。

 そして有栖川美緒の伯父おじ、高柳昌也はベルナールのきやくの一人だと悠臣はんでいる。

 高柳は阿片欲しさに機密情報を金で買ってベルナールにわたしていたが、とうとう借金で首が回らなくなり、切り札として自身が勤めるさいきん学研究所から生物兵器のアンプルを入手。〝アンプルが欲しければ阿片とは別に三万円をはらえ〟と取り引きを持ちかけた……というところまではわかっているが現在は行方ゆくえをくらましている。

 悠臣の今回の任務はそのアンプルのだつしゆ、およびベルナールのスパイ容疑を確定させることである。

「そういえばけつこんおめでとうございますぅ。〝名無しの〟と呼ばれる根無し草もとうとう所帯持ちですねぇ」

〝名無しの〟とは周囲が勝手に呼びはじめた悠臣のコードネームである。スパイに個人識別記号なんて必要ないとっぱねていたところ、あるとき敵組織が〝名無しのNomen Nescio〟と呼びはじめてしまった。以降Nomenノーメン Nescioネスキオかしらを取ったNNが悠臣のコードネームとして定着してしまったのだ。

どくばなちゃん、結構美人さんですねぇ」

「毒花?」

「ほら、まんじゆしやの着物でとついできたでしょう? あれ毒花じゃないっすか」

「お前はまたそうやって勝手に変なあだ名をつける……」

 組織内で最初に〝名無しの〟と呼びはじめたのも早乙女だった。というかこいつ、わざわざ見に行ったのか……。あきれて悠臣のつかれが増した。

「任務のために仕方なくだ」

 言い切って悠臣はきびすを返した。カフェーのある大通りかられて人の少ない道にでる。

 異国でちようほう活動をしていた悠臣だったが、今回の標的ターゲツトが外国人ということもありきゆうきよ呼びもどされていた。諸外国でもきなくさい動きが散見されるし、さっさと片づけてにん地に戻りたいのだが。

 ベルナールは用心深く、家以外で姿を見せるのは彼女がしゆさいする船上パーティーだけである。よってこの船で阿片窟も運営していると情報局は見ていたが……。

「例のパーティーにせんにゆうするために結婚したんですよね。確かぞくしか招待されないんでしたっけ?」

「なんだ、聞いていたのか。会議中ていたように思ったが」

「失礼な! 大事なところは起きてましたよ!」

「やっぱり寝てはいたんだな……」

 証拠を手に入れたい情報局にとってパーティーへの潜入は不可欠だったが、そこには一つの問題があった。

 そのパーティーにはいえがらの確かなもの──華族しか招待されないという決まりがあった。ゆえに調査がなかなか進まず頭をかかえていたところに、高柳の事件が飛び込んできたというわけだ。

 高柳はぬすんだアンプルをかんきんし、ゆいいつの肉親である美緒に金を渡そうとしていた。

 つまり美緒と結婚すればパーティーへの参加権を得るうえに高柳とせつしよくできる可能性もあった。ちょうど継母ははから結婚をせまられていた悠臣は任務もこなせるし一石二鳥だと美緒を金で買ったのだ。

(とはいえ足手まといの買い物に気がっていたが……思わぬものが手に入ったな)

 血のように赤い着物をひるがえし、いつしゆんのうちにしゆうげきしやをねじせたにせもの

 悠臣はその姿を思いだし、思わずにやりとほくそんだ。

「俺にれさせて絶対服従のこまとする」

 そして不要になったら切り捨てればいい。

 襲撃によって多少の不信感はあたえたかもしれないが、しのびなんて旧時代の遺物である。初心うぶそうだったし、少しちやほやすればすぐにでも落ちて正常な判断を失うだろう。

「隊長、ごくあく非道~」

「何を言う。今回の件、おそらく裏で手引きしている者がいる。捨て駒は多いにしたことはない」

「手引き?」

いつかいの金持ちにあれだけのわるが働くとは思えない。手に入れている情報もベルナールの手には負えないものばかりだ。おそらく〈ティアガルデン〉あたりが裏で糸を引いている」

「〈ティアガルデン〉ってあの、戦争賛美主義者が集まった世界規模のテロ組織のことですよね? 〝戦火で世界をじようする〟っていううさんくさい教義をかかげてる」

「それ以外にあんな組織があったら世も末だな。最近はうちの国の人間も仲間に引き入れているらしい。そんなことをする理由はただ一つ。この国で何かをやろうとしているときだけだ」

「またまた~。事なかれ主義のこの国の人間にそんな大それたことできないですって」

「それは自己しようかいか?」

「ひどっ。まあ誰が相手であっても俺一人で何とかしてみせるんで。大船に乗った気でいてくださいよ」

「一人?」

「毒花ちゃんがしちゃったんで」

「……は?」

 耳を疑う台詞せりふが聞こえて悠臣はり返った。

「逃がした?」

「だって忍びでしょ? そんな旧時代の遺物いります? 俺がいれば十分じゃないっすか」

「あのなあ……」

 どうしてこいつはいつもこんな感じなのかと悠臣は頭を抱えた。確かにゆうしゆうではあるが、つい先ほど捨て駒は多いに越したことはないと言ったばかりではないか。いやここに来る前に逃がしたのであれば、あの話をした時点ですでにおくれだったということか。

「……しきに戻るぞ」

 今ならまだ取り返しがつくかもしれない。

「もう逃げちゃいましたって。そんなにおよめさんが欲しかったんですか?」

 早乙女がへらへらっと笑ったときだった。

 木々のしげったけいだいを通りけようとして、悠臣は何かを感じて足を止めた。

 早乙女は気にも留めずに先を行く。せつ、土にまっていたなわが姿を現し、輪っかを踏み抜いた早乙女の足首をめあげた。

「うわ、」

 と声をあげた次の瞬間にはぐいんと勢いよく引っ張られ、高さ六尺はある木の枝へと逆さま状態でつりさがった。はっとして悠臣がナイフを投げ、

 とすとすとすっ。

 三本のナイフは見事、へと命中した。

「……」

 人の気配は確かに感じたはずなのに。

 しぶい顔をして振り返れば、地面に転がる丸太と、宙づりになっている早乙女と──早乙女ののどかいけんを突きつけている一人の少女が立っていた。


    ● ● ●


 悠臣が何者なのかを知りたかった。しかしそのこうりやくは容易ではないように依都には思えた。

 そんな矢先に現れた〝悠臣の部下〟。依都の前でなら簡単に攻略できると思った。

「悠臣様は何者なんですか。何故なぜ美緒様がねらわれるの」

 東堂園家から逃げて美緒を守りきる自信はあるが、何故、そしてだれから狙われているのかを知っていれば成功率はさらにあがる。ゆえに依都は早乙女をひとじちにして、はぐらかし続ける悠臣の口を割らせることにした。

 早乙女をこうし、先回りしてくくり縄をける。依都にとっては朝飯前だ。

 しかし懐剣をにぎる手はわずかにふるえていた。悠臣の正体について予測が立ってしまったからだ。

 依都の襲撃に反応してナイフをとうてきできるそくおう力、狙いの正確さ……身代わりの術を使っていなければいまごろ依都は死んでいた。

(……ちがいない。この男は)

 きんちようが走る。背筋にじとりとあせを感じた。

 尾行で得た情報も加味すれば、おそらく悠臣は予想した中でも最もあいしようが最悪な──。

「ふははっ」

 出し抜けに悠臣が笑いだした。今までに見てきた体温を感じない人工的な顔ではなく、心底こらえきれなかったというような笑み。ひようけして目をぱちくりとさせる依都を前に、悠臣はなおもかまわずに笑いこけ、

ざるか、お前は」

「野猿!?」

 部下の命がかかっているというのによくもまあそんなことが言えたものだ。ぶらさがっている早乙女のほうが「ちょ、たいちょっ」とあせった声をあげている。

「態度を改めなさい。そして大人しくいて。部下がどうなっても知らないわよ」

「いやすまない。降参だ」

 と悠臣は両手を掲げたが、ちっともそんなことは思っていなさそうに微笑ほほえんで。

「まさかこんなきようこう手段にでるとは思わなかったんだ。だからじっくりとかわいがって、ろうらくしてから話そうと思ってたんだがな」

「籠絡って……まさかあれ色仕掛けのつもりだったのっ」

 どうりで変だと思った。昨夜の悠臣を思いだし、わずかでもどきりとした自分をうらめしく思う。

「明かさないほうがよかったか?」

鹿言わないで。わたしは忍びよ。逆に利用してもよかったくらいよ」

 懐剣を握る手に力を込めると「ほんと隊長、そのへんでっ」と早乙女が情けない声をあげた。

じようだんだ。そんなにこわい顔するな」

 どこかじようげんそうに悠臣が言ってきびすを返した。ほぼ同時、早乙女をつっていた縄が切れて落下する。悠臣がナイフを投げたのだ。

 ものうばわれて依都はぶすっとにらみつける。目があったたんに悠臣はかたをすくめてみせた。

「説明してやる。うちへ帰るぞ」

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