Mission1 身代わりとなって主君を助けよ②
……。
身代わりを申しでたのはつい数日前の出来事だったが、どっぷりと
美緒は今朝、異国行きの船に乗って旅立っていった。まさか国外にいるとは夢にも思わないだろうから、
依都は
「で、結局お前は何者なんだ」
上の空だった依都の耳に冷たい声が
依都は再び、
いや、どちらかというと
「少々護身術が得意で──」
「馬鹿言うな。あれは完全に
「……わかっていて
忍刀は日本刀と
「つまりお前は、有栖川家に仕える忍びということだな?」
「………………はい」
ばれてしまっては仕方がない。
「忍びなんて旧時代的なものがまだ生き残っていたんだな」
旧時代的で悪かったわね。依都はぶすっと口を
そもそもこの男こそいったい何者なのか。
「あなたこそ何者なの?」
声を低くして依都は
「当ててみろ」
「な、何?」
思わず半歩身を引いて
「強気だな。俺がなんと呼ばれているか知らないのか」
「もちろん知ってるわ。人を呪い殺す夜叉の子なんでしょ」
「知っていて身代わりになったのならいい度胸だ。命が
「ない」
「主君のために
「成る
……今、なんと?
あまりの言い草に聞き
だって暴言を
「なあ、その命俺にくれないか」
あっと思ったときには、悠臣の
悠臣の長い
唇の
「なんのつもり?」
「
「はい?」
結婚指輪って……結婚する者同士で
「なんでわたしに?」
「
「はあっ?」
依都はむせ返った。手を引っ込めるとすかさず
「か、からかわないで」
「こんなこと
「金で
「気が変わった」
依都が
「今はお前の意思で
「なんでそこまでしてわたしにこだわるのよ」
訊ねて、しかしすぐに思い至った。
「……あの襲撃と何か関係があるの?」
「そうだ」
やっぱり。依都は奥歯を
先ほど襲撃犯は〝有栖川美緒を
「強いお前に
「ほれっ」
予想とまったく違う答えが返ってきて声が裏返った。
あれで惚れたですって?
「
「それとこれとは話が違う!」
「頼んでだめなら美緒を
「ちょっ、そんなの
「何とでも言え。どうせ俺は
まさかこの男……夜叉と呼ばれて
なんだか調子の
「愛してる」
十六年の人生の中で最も
どこを見ているでもなかった依都の瞳に、雪見障子から秋晴れの日差しが差し込んだ。白い
「全部……全部この
ぼふん、と
昨夜追い
「一晩考えてくれてかまわない」
と言ってにこりと
初めはちゃんと逃げようとしたんだ……と、
しかしあのあと、書生を名乗る人物が布団を
ふかふかな布団に罪はない──そう思ってしまった。美緒を見送るために朝は早かったし、
と、言い訳だけはたくさんでてくるが布団からはでられない。
(それにしても……〝愛してる〟だなんて)
昨夜の光景が頭をよぎり、つい依都はしっちゃかめっちゃか暴れまわった。あんな台詞を実際に言う人間が存在しているだなんて。びっくりしすぎてだし
「美緒様、お目覚めですか?」
うだうだしていたところに声がかかった。人が近づいてくる気配は感じていたので
「起きてます」
美緒じゃないけど。
答えてもぞもぞと布団から
「失礼します」
という声がして障子が開くと、二十代後半くらいの男性が
「
頭をさげた柏木につられて、こちらも
「えっと、依都です」
しかしすぐに柏木が手で制し、「頭をあげてください」と困ったように
「こちらの都合で大変申し訳ないのですが、あなたには美緒様として嫁いでいただきます。そのため我々はあなたのことを美緒様と呼びますし、
「成る
「って、まだ結婚するとは言ってないんですけど」
昨夜の
「断らないほうがよろしいかと」
「……どういうこと?」
柏木の
柏木が
「悠臣様が入手した写真です。ここをよくごらんください」
「これは……美緒様?」
柏木が指差したのは甲板の上だった。美緒と誠一が写っている。美緒の視線を
「悠臣様はすでに美緒様が乗船した船、寄港場所、
「なっ……」
悠臣は依都が助けに入るまで、
東堂園悠臣……本当に何者なのだろう。
「悠臣様のお仕事って何なんですか」
「
「それは〝表〟のお仕事では?」
「……なんのことでしょう?」
にこりと笑って柏木が言う。どうやら答える気はなさそうだ。
「じゃあ……昨夜みたいなことはよくあるんですか」
やはりどうしても昨日の襲撃が気になっていた。
襲撃に対してある意味冷静に被害者を演じ、そのうえ依都という不測の事態に関しては
あの襲撃は何なのか。
明かされていない点が多すぎて、どうにも〝惚れた〟というのは信用できず、裏があるようにしか思えない。しかし昨日の求婚は真に迫っていて、それが
至近
「うーん、どうでしょう。わたしは使用人ですのでよくわかりませんね」
柏木の声で
どんな生活をしていれば
……つらくは、ないのだろうか。
柏木が背後から何かを取りだした。
「ではこちらに
差しだされたのは一枚の着物だった。一目見て上等なものだとわかってしまう。
「こんな高価な物いただけません」
「悠臣様の婚約者である以上、よい物を身につけていただかなければなりません」
「でもっ」
「ちなみに悠臣様は本日ご用事があるため、ご家族との顔あわせは明日の予定です。ですので今日は
勝手に話が進んでいって依都はめまいを覚えた。それに本邸を案内するということは、まさかこの
こんな
となると……これ、どうしよう。
目の前の着物をじっと見つめる。これを受けとってしまったら最後、本当にもうあと戻りができない。
「
と、いきなり背後から手が
振り返ればスーツに身を包んだ悠臣が立っている。ばさりと着物を広げると、依都の
「なっ……」
「帰ってくるまでにこれを着て、答えを聞かせてくれ」
顔を
「いってくる。帰るまでに花嫁をめかし込んでおけ」
「はい」
柏木が答えて頭をさげるが、一方の依都は
……絶対におかしい。
依都は肩にかけられた着物を
「やっぱり逃げよう」
とりあえずいつものぼろを着て、人目を
悠臣が美緒を
(それにしても、
気の弱い高柳がどうして三万円もの借金を
考え事をしながら勝手口を飛びだしたところで依都は何かにぶつかった。
「おおっと、危ない」
その声で誰かに抱き留められたのだと気づく。
しまった、集中できていなかった。後ろに飛びすさって
そこにいたのは二十代前半くらいの下士官服を着た青年だった。長い
「東堂園中隊長の部下で
「……その部下というのは〝裏〟のお仕事でも
「やだなあ、なんのことっすか?」
とぼける早乙女。しかし……と依都は目を細めて早乙女を
とはいえ目下の問題はこの男が悠臣の部下であることだ。表だの裏だのを差し置いたとしても、上司の婚約者が逃げるのをむざむざ見過ごす部下はいない。
しかし早乙女は「ふーん」と品定めするように
「そんなに
と、
「どうしてそんなことを言うの? あなた、それでも悠臣様の部下なの?」
忍びからすれば
「だって結婚が嫌なんでしょ? そんで君、見たところ逃げられるだけの技術があるよね。だったら迷うことなんてない。逃げちゃえばいいんだよ。借金なんて
なんなら手を貸すけど? と
「……」
その
「若いうちは短いんだから、こんなところで時間を
その一言が
と同時に、
〝まだここで死ぬわけには〟
そう言った悠臣の顔も頭に
……まあ、あのやられっぷりは演技であり、依都は見事に
しかしあれを本心だとすると、あの人の命の使い道はあの場ではないということだ。
ならわたしを三万円で買ってまで、
「ま、いーや。逃げるなら今のうちに逃げといてよね。俺行くから」
再び軽薄な声がかかった。気づいたときには早乙女はこちらに背を向けており、ひらひらと手を
「結局何しに来たんだろう……」
その背中に向かって、依都は
部下、ね……。
歩き去る姿にやはり
足音がまったくしないのだ。軍事訓練を受けた人間は歩き方に癖がでるものの、無音の足音というのはまた別の訓練を要するものだ。これがこの男をただの軍人ではないと思った
予備動作なく背後を取った悠臣と、その部下を名乗る足音のしない男──。
よし。
依都は小さく
● ● ●
カフェーに来るなんて何ヶ月ぶりだろうか。最後に来たときには女給を
「高柳!」
珈琲を飲み干したところで声がかかった。顔をあげるとスーツ姿の男が階段を
「しばらく
「それは本当に申し訳なかった。少々、その、立て込んでしまって……」
相手の
「それはわかってる。俺への分け前は忘れてないよな?」
「分け前?」
「とぼけるなよ! 警備の情報を教えたのは俺だぞ! ちゃんとアンプルは売れたんだろうな?
血走った目でまくしたてる様子は正気の
「ひいっ──」
たまらず高柳は便所の中へと
「逃げんじゃねえよ
と、男が
「糞野郎はお前だ、
「は?」
振りおろされた手を掴み、男を半回転させると背中に
高柳はにやりと
「ば、ばけものっ……」
「よく見ろ、人工
男が再び
〝高柳〟の顔の下にはまた別の顔があった。青灰色の
「お前、
「
きい、と戸が開くとスーツ姿の男が二人立っていた。
陸軍所属と名乗るくせに軍服を着ていない。つまりはそういうことだと思い至った取り引き相手が
「いやーさすがエージェント
と、
男とすれ違い様にブローをかまして酔っ払い演技に
「世界中から指名手配されているのは
「お前、殺されたいのか」
結構本気で言ったのだが早乙女は気にした風もなく
世間に
本来の身分は帝国陸軍情報局所属の情報将校──いわゆるスパイだった。
帝国陸軍情報局は二年前に新設された新しい部署だ。そしてこの一見軽薄でやる気のまったく感じられない早乙女こそが情報局で悠臣の副官を務めている男だった。並み居る
「それにしても、高柳も阿片中毒で確定っすね。入手先はやっぱりベルナールかなあ」
「軽はずみなことは言うな。
マリア・ベルナールは
機密情報の収集手口としては、まず政府要人を阿片窟に招いて中毒にし、〝薬が欲しければ機密情報を持ってこい〟と命じるのだそうだ。
そして有栖川美緒の
高柳は阿片欲しさに機密情報を金で買ってベルナールに
悠臣の今回の任務はそのアンプルの
「そういえば
〝名無しの〟とは周囲が勝手に呼びはじめた悠臣のコードネームである。スパイに個人識別記号なんて必要ないと
「
「毒花?」
「ほら、
「お前はまたそうやって勝手に変なあだ名をつける……」
組織内で最初に〝名無しの〟と呼びはじめたのも早乙女だった。というかこいつ、わざわざ見に行ったのか……。
「任務のために仕方なくだ」
言い切って悠臣は
異国で
ベルナールは用心深く、家以外で姿を見せるのは彼女が
「例のパーティーに
「なんだ、聞いていたのか。会議中
「失礼な! 大事なところは起きてましたよ!」
「やっぱり寝てはいたんだな……」
証拠を手に入れたい情報局にとってパーティーへの潜入は不可欠だったが、そこには一つの問題があった。
そのパーティーには
高柳は
つまり美緒と結婚すればパーティーへの参加権を得るうえに高柳と
(とはいえ足手まといの買い物に気が
血のように赤い着物を
悠臣はその姿を思いだし、思わずにやりとほくそ
「俺に
そして不要になったら切り捨てればいい。
襲撃によって多少の不信感は
「隊長、
「何を言う。今回の件、おそらく裏で手引きしている者がいる。捨て駒は多いに
「手引き?」
「
「〈ティアガルデン〉ってあの、戦争賛美主義者が集まった世界規模のテロ組織のことですよね? 〝戦火で世界を
「それ以外にあんな組織があったら世も末だな。最近はうちの国の人間も仲間に引き入れているらしい。そんなことをする理由はただ一つ。この国で何かをやろうとしているときだけだ」
「またまた~。事なかれ主義のこの国の人間にそんな大それたことできないですって」
「それは自己
「ひどっ。まあ誰が相手であっても俺一人で何とかしてみせるんで。大船に乗った気でいてくださいよ」
「一人?」
「毒花ちゃん
「……は?」
耳を疑う
「逃がした?」
「だって忍びでしょ? そんな旧時代の遺物いります? 俺がいれば十分じゃないっすか」
「あのなあ……」
どうしてこいつはいつもこんな感じなのかと悠臣は頭を抱えた。確かに
「……
今ならまだ取り返しがつくかもしれない。
「もう逃げちゃいましたって。そんなにお
早乙女がへらへらっと笑ったときだった。
木々の
早乙女は気にも留めずに先を行く。
「うわ、」
と声をあげた次の瞬間にはぐいんと勢いよく引っ張られ、高さ六尺はある木の枝へと逆さま状態でつりさがった。はっとして悠臣がナイフを投げ、
とすとすとすっ。
三本のナイフは見事、丸太へと命中した。
「……」
人の気配は確かに感じたはずなのに。
● ● ●
悠臣が何者なのかを知りたかった。しかしその
そんな矢先に現れた〝悠臣の部下〟。依都の前で足音を消してしまう程度の男なら簡単に攻略できると思った。
「悠臣様は何者なんですか。
東堂園家から逃げて美緒を守りきる自信はあるが、何故、そして
早乙女を
しかし懐剣を
依都の襲撃に反応してナイフを
(……
尾行で得た情報も加味すれば、おそらく悠臣は予想した中でも最も
「ふははっ」
出し抜けに悠臣が笑いだした。今までに見てきた体温を感じない人工的な顔ではなく、心底
「
「野猿!?」
部下の命がかかっているというのによくもまあそんなことが言えたものだ。ぶらさがっている早乙女のほうが「ちょ、たいちょっ」と
「態度を改めなさい。そして大人しく
「いやすまない。降参だ」
と悠臣は両手を掲げたが、ちっともそんなことは思っていなさそうに
「まさかこんな
「籠絡って……まさかあれ色仕掛けのつもりだったのっ」
どうりで変だと思った。昨夜の悠臣を思いだし、わずかでもどきりとした自分を
「明かさないほうがよかったか?」
「
懐剣を握る手に力を込めると「ほんと隊長、そのへんでっ」と早乙女が情けない声をあげた。
「
どこか
「説明してやる。うちへ帰るぞ」
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