第16話

 流離い人になったばかりの頃は、よくこうやって病に倒れたものだった。その度に、あの人は笑って私を介抱してくれた。

 私を流離い人に誘った人。名前は知らない、ただフィドとしか。

 優しくて、温かくて、大きな手を持った人だった。


 私がこの生活に慣れるまで、何時も一緒にいて色々教えてくれた。

 その人に負けないようにと、歩きすぎて歩けなくなって、おぶって貰った事もある。

 白髪混じりの髪が頬に辺り、くすぐったかったのを覚えている。


 不思議な安心感。安らぎと、暖かさ。

 もし私が姫ではなく、ごく普通の娘として生まれていたら、父親はこういう人だったかもしれないと、何度も思った。

 私は彼との暮らしの中で、人を思いやるという気持ちを知った。そして、叱られたり、褒められたり、頭をこずかれたり、撫ぜて貰ったり、人と共にある事の楽しさも知った。


 しかし彼は、私を置いて去ってしまった。

 「もうこれからは、一人で行きなさい」と、その一言だけを残して。

 初めて、大好きな人が去ってしまう時の辛さを教えてくれたのも、彼だった。

 私は、泣いて追いかけた。でも、彼は私を突き放し、ついて行く事を許さなかった。

 それっきり。去る時、振り返えりもしなかった。たった一度さえも。

 十八の時だ。


 ほんの一年しか共にいなかったけれど、私にとってそれは、城で暮らした十七年間よりも濃いものだった。

 流離い人に、人と関わってはいけないという掟はない。

 けれど、私は人と関わる事を嫌った。何故なら、流離い人である限り、別れは必ずやって来るから。

 別れは、辛くて悲しいものだ。


 カーテスに運ばれながら、そんな昔の思い出を回想しているうちに、いつの間にか私は眠りの中に落ちていた。


 その夜、私は高熱に浮かされて夢を見た。

 流離い人になってから、何度も何度も見た夢だ。

 ぞろぞろ流れる集団の中に混じって、私も歩いている。そしてその中には、国王も、クレイド皇子も、母も、カ-テスも、城の者たちが全て混じっていた。

 やがて一人が、指をさして言う。

 あそこに、城があると。


 私は必死になって、その城を目指すのだが、どんなに走っても走っても、城にはたどり着けない。

 また、違う人が叫ぶ。

 もう少しで、城に着くと。

 しかし、私には見えない。みなは、喜び勇んで進んで行くと言うのに。


 やがて、いつしか私は集団から遅れ出してしまう。追いつこうと必死になればなるほど集団は遠ざかって行く。

 最後はついに、私一人だけになってしまうのだ。


 私は焦燥感に捕らわれながら、待ってくれと叫ぶ。しかし、誰も待ってはくれない。

 たった一人、何時もその場に置いていかれる。

 その日の夢も、全く同じだった。

 次に浮かぶのは、あの人の言葉。


 「これからは、一人で行きなさい」


 ああ、やはりそうだ。私は、ずっと一人で行かねばならないのだ。

 何を迷う必要がある。自分で、そう決めたではないか。

 城も国も何もかも、捨ててしまったのは私の方なのだから・・・・・。

 やはり何時ものようにそう思っていると、不意に誰かが私の手を掴んだ。


 夢の中で、ここは何時もと少し違うなと、ぼんやり思う。


 何時もは、そこで目が覚めるのだ。なのに、夢は尚も続いた。こうして、この夢の続きを見るのは初めての事だった。

 力強いその手は、私をぐいぐいと引っ張りながら、明るい声でこう言う。

 「もう大丈夫だ、ステファ、すぐにみんなに追いつく」


 聞き覚えのある声だと思った。しかし、誰かは分からない。

 私は立ち止まって、一緒に行く事を拒んだ。 怖かったのだ、城に戻るのも、城の者たちと会うのも。

 足が竦んで、一歩も前に進まない。

 するとその人物は、こう言った。

 「怖がる事はない、勇気を出して足を踏み出せばいい」


 ・・・・・勇気を出して。


 ああ、それが出来ればどんなにいいだろう。この胸の奥に隠している秘密を打ち明けたなら、繋がれている足かせから、私は自由になる事が出来るかもしれない。

 深い闇の底に沈めた罪の意識から、もしかすると逃れられるかもしれないのに。


 ・・・・・でも、駄目だ。無理に決まっている。

 城の者達が、私を許す筈がない。私は、偽りの姫君。そして、母は人殺し。

 流離い人になって、石を投げつけられる度に、私はそれを全ての報いだと思った。

 城の者達の代わりに、彼らは私を罰しているのだと。

 きっと城の者達も、私に石を投げて追い払おうとするだろう。


 様々な思いに捕らわれていると、その人は更に私の手を強く引いて言った。

 「大丈夫だ、私がついている」

 ・・・・・本当に、大丈夫なのだろうか?

 私は、足を踏み出していいのか?

 その人の言葉は強く、頼もしく、私の不安な気持ちを風のように拭き流す。

 彼の言葉に励まされ、私はゆっくりと足を踏み出した。その途端、意識がふっと引き戻される。


 熱さで朦朧とした中、私は薄く目を開けて空を見た。

 薄汚れた天井、湿った木の匂い。当然城ではなく、周りには誰もいない。

 夢だった、そう気づいた途端、悲しくなった。


 私は流離い人、これからもずっと、たった一人で行かねばならない。

 熱い息を吐き出して、自分の浅はかな夢をあざ笑う。

 と、なんとなく掌に感触を感じて、顔を横に向けた。

 部屋の隅の朧気な明かりが遮られ、視界に影が落ちる。すぐ側に、カーテスの顔があった。

 湖を透かしたような瞳が、じっとこちらに注がれている。


 「・・・カーテ・・・ス?」

 私は、かすれる声で尋ねようとした。

 何故、あなたがここにいるのかと。

 彼とは、もう大分前に別れた筈だ。そう、流離い人になる前に。

 幼い少年の面影が、目の前の青年の顔に重なる。

 違和感はなかった。目の前の青年は、あの頃と同じように、不安気な面差しで私を見つめていたから。


 「苦しいですか?」

 泣きそうな顔で、彼は尋ねた。

 私は子供のように頷いて、彼の手を握りしめた。

 「大丈夫ですよ、すぐに楽になります」

 私の額を濡れたタオルで拭きながら、カーテス。

 冷たくて気持ち良い感触に、少しだけ意識が呼び戻される。


 ・・・・そうだ、私はカーテスと再会したのだった。


 この半月間、ずっと彼と一緒だった。

 たった半月、なのにもっと長い旅をして来たような気になる。

 「眠って下さい、僕はずっとここにいますから」

 カーテスの低い声が、そっと優しく囁いた。

 ああ、私は一人ではないのだ。

 そう思うと、不思議と心が安らかになった。

 触れる手の温もりが心地よくて、そのまま再び眠りに落ちる。そしてその後私は、夢を見る事もなく、ぐっすりと眠る事が出来た。

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