第10話
フェミアは、不意に手を止めた。それから、激しく首を振る。
「セリュウは、仕事です!」
どこまでも、彼を庇うつもりらしい。
庇えば庇うほど、哀しみは増していくだけだろうに。
「カーテス。この人を放ってはおけない、あなたはそう言いましたね。ならば、決着をつけようではないですか。私は、風に逆らった。これから、その報いを受けなければならない」
重い声で呟いて、静かに腰へ手を伸ばす。
そこには、あれがあるのだ。マントの下に隠して、唯一大事にしている過去を示す品。
鞘と柄に王家の紋章が入った、家宝である短剣だ。十二の誕生日の時、父・・・、いや国王が、これを私に差し出して言った。
『お前が今抱えている困難や、これから抱えていくだろう運命を、自分の手で切り開いていきなさい。これは、他人を切る為の剣ではない。これは、お前自身を切る剣だ』
その時私は、その言葉の意味を深く考える事はしなかった。それより、剣の美しさの方に心を奪われた。装飾の豪華さしか、分かろうとはしなかったのだ。
今なら、少し分かるような気がする。
国王は、どういう気持ちでこれを私に託したのだろう?
もしかしたらあの方は、私が自分の子では無いと、本当は知っていたのかもしれない。
母が必死になって隠し通した、私の秘密を・・・・・。
短剣の柄を、しっかりと握りしめる。しっとりした肌触り、吸いつくような感触が気持ち悪い。
これで人の命が奪えるのだと、これで己の身を守ってきたのだと、そう考えただけで悪寒が走り抜けた。
私はもう一度目を瞑り、それから開いた。そして、鞘から剣をすらりと引き抜く。窓から差し込む日差しに、青白銀の剣がきらりと輝いた。
フェミアが、はっと息を呑む。
「昨日、あなたはカーテスにこう言いました。私の側から離れるように、と。何故、その必要があったのでしょう?」
私は躊躇う事なく、その剣先をフェミアの首に突きつけた。カーテスが、慌てたようにこちらへ足を踏み出す。
「来ないで下さい!」
厳しく、それを諌めた。
「姫様、一体・・・・何を?」
カーテスが、大きな体を震わせる。
怖いからではない、きっと哀しいからだ。彼は、他人の哀しみに敏感だから。
息を吐き、私は再び静かな声を出した。
「あなたは、死にたがっていた。そうでしょ?だから、橋の欄干を越えたのではないですか?最初から、ただ死ぬ為だけを目的に」
フェミアが、ぎょっと顔を強張らせる。私は、構わずに話を続けた。
「彼が罪を犯す度に、死のうとした。でも、死ねなかった。そんなに死にたいなら、私が今ここで殺してあげます。それが、望みですよね?」
更にフェミアの首に剣を食い込ませ、様子を窺う。
勿論、本気で傷つけるつもりはなかった。しかし、相手には分からない。
今にも喉を貫きそうな剣の鋭さに、フェミアは益々震え上がった。
ついに耐えきれず、恋人の助けを求める。
「セリュウ!セリュウ、助けて!」
いきなり割れた窓から、男が部屋に飛び込んで来た。彼は二度ほどカーペットの上を転がり、ナイフを片手に立ち上がった。
全身、血まみれの姿で・・・・・。
「セリュウ・・・さん」
カーテスの、かすれた声。
それは、哀しみに耐える声。
「俺のフェミアに触るな!俺のフェミアを傷つけるな!・・・・・・傷つけた奴は、みんな俺がぶち殺す」
フェミアの最愛の恋人、セリュウは、追い詰められた獣のように、ぎらぎらした目を鋭く私達に向けた。
これが、殺人鬼の正体だ。彼女が、必死になって庇おうとしていたもの。それは、風に逆らった私への報い。
出来れば避けたかった役目が、こうして私に巡ってきたのだから。
獰猛になった若き恋人は、軽く跳躍してから、私の方へまっしぐらに向かって来た。
「姫様!」
カーテスの叫びと同時に、鋭いナイフが振り下ろされた。
一撃目を、どうにか短剣で防ぐ。フェミアを突き放し、私は素早くその場から逃れた。血溜まりの中を転がり、カーテスの側で立ち上がる。
既に剣を抜いていたカーテスは、私を守ろうと慌てて前に出た。しかし、それ以上は動かない。背中で私を庇ったまま、苦痛の呻きを漏らす。
「・・・・何故、・・・・何故なんですか?」
カーテスの問いに、彼は答えなかった。その代わり、狂ったような雄叫びをあげる。
「彼は、狂ってしまったのです。きっと、愛しすぎたのでしょう。愛する者の他は、何も見えていない。だから、それ以外の者を排除しようとしているのです。屈折した愛情は、時として恐ろしいものを生んでしまう。彼の敵は、フェミアを奪う者。やがて妄想は、彼女に触れる者全てに牙を剥く」
油断無くセリュウを窺いながら、彼の代わりに私が答えてやった。
「だけど、昨日は大丈夫だったじゃないですか。僕は彼女に触れたけど、彼は襲おうとはしなかった」
「あなたが彼女に触れた所を、彼は見ていません。それに、言ったではないですか、フェミアが・・。私が、女で良かったと。一組のカップルは、彼にとって攻撃目標ではないらしい」
セリュウから視線を外さないまま、私はこう続けた。
「彼を傷つける事が、あなたには出来ますか?例えば、命を奪う事になっても」
「・・・・・そんな。まさかあなたは、私にセリュウさんを殺せと言うのですか?」
私は、否定も肯定もしなかった。
必要ならば、致命傷を与える事も致し方ない。
殺さずに済めばいいが、もしこちらが危なくなれば、そうも言っていられないだろう。
彼は、完全に狂っている。狂った者に、常識は通用しないのだ。
「駄目!止めて、セリュウを殺さないで!」
フェミアが、突然正気に戻ったような顔で叫んだ。
恋人の危機を前に、彼女も誤魔化し通す事が出来なくなったのだろう。
「彼らが、マイス達が悪いのよ。セリュウが居るから、今日は駄目だって言ったのに。大丈夫だからって、あれほどお願いしたのに。無理やり入って来るから、こんな事になったのよ。みんなそう、放っておいてくれれば良かったんだわ。私達はただ、離れたくなかっただけ。だから・・・、だからセリュウは・・・・」
私達に向かって、必死に訴えるフェミア。涙を浮かべ、こちらまで辛くなるほどの悲壮さで・・・・。
私はまた、あの無性に叫びだしたくなる感情に襲われた。
この獣を、あなたは殺すなと言うのか。野放しにして、殺すままにさせているあなたが。そうやって死体を抱いて、泣いて、苦しんで、それでも結局は彼の為にそれを捨てに行ってしまうあなたが!
今のセリュウを見てみるがいい。
ただ守りたい一心で、何も見えていないではないか。彼は、知らないのだ。自分が、恐ろしい殺人鬼であると言う事実を。だから、あんなに無邪気でいられる。
それなのに、何故死体は何時も林の中で見つかる?
フェミアが、死体を捨てていたのだ。それしか考えられない。
その細い手で、小さな体で、重い死体を運ぶのはかなりの重労働だろう。きっと毎回、泣きながらやっていた筈だ。寝込むほどに、疲れ果てながら。
彼の罪を、自分の罪を、ちゃんと理解していた。
だから、あなたは死にたいと思うのだ!
一瞬、脳裏に義兄の姿が浮かぶ。
『どこの馬の骨かも分からない者に、王位は絶対に渡さない!』
激しく、私を罵る姿。
今は亡き先王妃と王の間に生まれたクレイド皇子は、病弱で意志薄弱、何をやっても駄目な出来の悪い皇子だった。
彼が私に勝っていた者は、たった一つ。この世に、先に生を受けたと言う事だけ。けれどそのたった一つが、城の者たちにとって全てだった。
何をしても私に負ける彼が、たったそれだけの事で王位を継ぐ。私には、それが許せなかった。
私は歯痒さから、彼に私の優秀さをこれ見よがしに誇示して見せた。年下の女にさえ劣るのだ、皇子としてのプライドは酷く傷ついた筈。
その度に見せる彼の無念の表情が、私の満たされないプライドを慰めてくれた。
本当は、私こそが王位を継ぐに相応しいのだ、と。
お前の方が、王位を継ぐに相応しい。お前の方が、全てに於いて優れている。お前でなければ、国は治められない。お前こそ・・・・・。
毎日、毎日、母から聞かされる言葉は、まるで呪縛のように私を縛りつける。
だから私は、誰よりも強く、誰よりも誇り高く、誰よりも優れていなくてはならなかった。
人知れず、血の滲むような努力をした。傲慢だと言われようと、冷酷だと言われよう、と王者として全てを従える事が出来るのなら、それでいいと思った。
・・・・しかしそれは、自分が王家の者だと信じて疑っていなかったからだ。
それを知った瞬間、全ては砕けて消えた。
私は、血筋というそれこそどうしようもない部分で、完全に彼に負けていたのである。
何故彼は、私が王の子では無いと知っていたのだろう?そして何故、その時まで誰にもばらさなかったのか。何故、私にだけ告げたのか?
今となっては、何も分からない。
彼から事実を聞かされた私は、自分の出生の秘密を、母に問い詰めずにはいられなかった。
本当は誰の子なのか?何故、母はその人と一緒にならなかったのか?何故私は、国王の子として育てられたのか。
母は、何も答えてはくれなかった。
残ったのは、疑問ばかり。
その上私のした事が、結果として更なる悲劇を生む事になった。
皇子の死に顔が、今でも頭から離れない。
病死。それが、医者が下した診断だった。けれど私は、母が彼を殺したに違いないと思った。
母なら、それをする事が可能だった。そして、皇子さえいなくなれば、母を邪魔する者は一人もいなくなる。私が王位を継ぐ事を誰よりも一番望んでいたのは、母だったのだから。
・・・・・そうだ、もっと早く気付いていれば。もっと早く行動を起こしていれば。
私に本物の勇気があれば、あんな事にはならなかった。
フェミアもセリュウも、私自身だ。
だから、一層もどかしい。
母を止める事も出来ず、救う事も出来ず、ただ責め続けるばかりで、最後は虚ろな病人になるまで追い込んでしまった。
私の存在そのものが、母を不幸にする。国王も、そして城の者達も。
そうだ、私さえいなければ・・・・・。
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