第3話
私達が橋の上に辿り着いても、騒ぎはまだ収まった様子は見せていなかった。
人々のざわめきの中から、情報がすぐさま飛び込んで来る。
「女が、落ちそうなんだってよ」
「何でも、橋にひっかかった物を取ろうとして、足を滑らせたんだとか」
「ひやぁ、あの欄干を越えちまったのか?」
「ぶらんとぶら下がって、今にもストンといきそうなんだと」
・・・・なるほど、そういう事か。
人々の話しぶりから、大体の内容は理解する事が出来た。
「大変だ、助けないと・・・」
私の腕を掴んだまま、カーテスが深刻そうに呟く。
「あなたが助けなくとも、誰かが助けてくれますよ」
私は、彼のお人好し加減に呆れながら、素っ気なく言った。
と、再び強い力でぐいっと引っ張られる。
彼は私を引きずるようにして、ぐいぐいと人込みの中を押し入って行った。
「誰がその人を助けようが、それは別に構いません。助かれば、それでいい。しかし、見て見ぬ振りだけは、僕には出来ません」
真っ直ぐ前に睨み据え、カーテス。
その引き締まった顔に、強い意志が現れていた。
かつては無かった、気迫のようなものが。
私はため息を吐き、おとなしく彼の行くままに任せた。
やがて橋の欄干まで来ると、カーテスは私の腕から手を離した。そして、ぐっと身を乗り出して下を覗く。
他にも数人の男達が、同じように身を乗り出して、宙ぶらりんの女性に必死に励ましの言葉を送っていた。
「頑張れよ!」
「しっかり捕まってろよ!」
「今助けます、それまで頑張って!」
男達に混じって、カーテスも一緒になって叫ぶ。
それから、ひらりと欄干を飛び越え、身軽に反対側へと移動した。
一つ間違えば、真っ逆さまだ。それなのに、躊躇いすら見えはしない。
彼の行動に、周囲の者達から感嘆のため息が漏れる。
私もその時ばかりは、驚き以上のものを感じてしまった。
あの臆病だった少年が?この若者は、本当に彼なのだろうか?
五年と言う歳月は、私が思っていた以上に長いものだったのかもしれない。
カーテスは足場を決めると、右手でしっかりと橋の一部を掴み、もう片方の手を下へと伸ばした。
私が居る位置からは、落ちかけている人は見えなかったが、彼の様子からすると、そのすぐ下に居るらしい。
「さあ、私の手に捕まって。もう少しです、勇気を出して、手を伸ばすのです」
勇ましいカーテスの声。
そして、しばらくの沈黙。
と、不意に女性の甲高い悲鳴が響いた。
ぎょっとしたように、辺りが静寂に包まれる。
誰もが、息を呑んでカーテスの背中を見つめていた。
やがて、彼は下ろしていた手を、ぐっと力強く引き上げた。
「誰か、手伝って下さい!」
その言葉と共に、白い華奢な腕と、青ざめた娘の顔が現れる。
どっと、起こる歓声。
周囲に居た男達が、慌てて欄干から身を乗り出した。
数人の手で、娘の体が橋の上に引き上げられる。それを見届けた後、カーテスは再び軽やかに欄干を越えて私の前に戻って来た。
英雄的な大仕事をして来たと言うのに、彼は全くそんな様子は見せていなかった。
皆が彼の背を叩いて褒めたたえていたが、本人は困ったように笑みを返すだけだった。
咄嗟には出来ない事を、いとも簡単にしてしまう。
昔のカーテスならば、決してあり得ない事だ。
私は、見上げるほど高い青年に、再び同じ思いを抱いた。
・・・・彼は、本当にあのカーテスなのだろうか?
「落ちなくて、本当に良かったです」
私の前まで来ると、安堵と共に呟き、はにかむような笑顔を見せる。
その笑顔が余りにも眩しすぎて、私は思わず視線を前方の娘の方へと逸らした。
「大分、弱っているようですね」
男達の腕に抱えられ、娘はぐったりしていた。
ここからは、娘の様子ははっきりとは分からないが、多分意識を失っているのだろう。男達が、娘に向かって何か呼びかけているようだった。
騒ぎが収まったと知って、集まっていた野次馬もちらほらと散りはじめている。
「少し、様子を見て来ましょう」
カーテスは慌てて言うと、再び男達の方に向かって駆けだして行った。
それから、男の腕の中の娘を覗き込んで、彼らと何か会話を交わす。
中に居た男の一人が、カーテスに向かって頼み事をしているような様子だった。
職人か何かだろう、それらしき服装だし、道具箱を抱えている。頭には、緑色の変わった形の帽子を被っていた。
そのうち、娘を抱えていた男が、カーテスの腕にそれを預けた。
そして、指を差し示しながら、何か道の説明をしているような仕種をはじめる。
やがて、男達はカーテスの肩を叩き、橋の向こう側へと去って行った。その時には、もう、立ち止まっている者は一人もいなかった。
カーテスが、少し戸惑った表情で戻って来る。
その腕に、花のような娘が抱えられていた。
色の白い、なかなか可愛らしい娘だ。歳は、まだ二十までいかないくらいだろう。
長い黒髪が、艶やかに彼の腕から零れていた。
「可哀相に、怖い思いをしたんでしょうね」
心配そうな顔で、娘を見つめるカーテス。
それは、私に過去の幻影を見せた。
彼は、非常に同情しやすい。孤独な姫君に、何時も同情していたように。
しかしひねくれた姫は、彼が自分に同情する度に、酷い仕打ちを繰り返してきた。
・・・何故だろう?
妬む貴族の娘より、怯える侍女より、憎む王族の男より、この優しすぎる少年が一番許せないと思った。
その少年が、大人になって私の前に現れた。あの頃と同じ、純粋な目をして。
「姫様、申し訳有りませんが、この人を家まで送り届けていいですか?さっき、この人の従兄弟と言う人に、そう頼まれたのです。大事な仕事があるから、頼むと・・・」
「どうぞ、送ってあげればいいではないですか。それは、貴方の自由です」
カーテスの言葉に、私は肩を竦めて答えた。
彼の行動を、私が止める理由は無い。
しかし、次の言葉に、私の感情は煩わしさで撥ね上がった。
「いいえ、違います。姫様も、一緒に来て欲しいのです。だから、私は尋ねたんです」
・・・まさか、冗談じゃない!
何故、私までも行かねばならないのだ。
私は、誰とも関わらない。それが、流離い人というものだ。
それを言葉にしようとした時、不意に風が私の横を通りすぎた。驚いた事に、カーテスと娘の方に向かって。
開きかけた口を閉じ、戸惑いを隠すように目を瞑る。
『風に逆らってはいけない』
今も何処かで流れている筈の人の声が、耳元で囁いた。
私は苦笑して、目を開ける。
「風が吹きました、共に行きましょう。けれど、私は只の傍観者、それでもいいと言うのならば」
カーテスは何か言いかけたが、黙って小さく頷く。
くるりと踵を返し、ゆっくりと歩きだした彼の後を、私は少し間隔を開けて付いて行く事にした。
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