第2話

 どれくらい走っただろう、丁度町を分断するように流れる大きな川の土手まで来て、私はようやく足を止めた。

 荒い息を吐きながら、乱れる心を治めようと努める。


 額を湿らす汗を拭い、すぐ前方に見える橋に目を凝らした。それから、そっと後ろを振り返る。

 その刹那、いきなりぐいっと腕を掴まれた。ぎょっとして見開いた目に、真っ青な上着が鮮やかに映った。


 「・・・・姫様、やっと捕まえました」

 若者は、大きく息を吐きながら、聖騎士的な厳しい口調で言った。


 私は掴まれた腕の痛さに顔をしかめ、フードの先からちらりと若者を見返した。

 彼は、生真面目な顔にやや怒りの表情を交え、強い視線で私を見つめている。


 ・・・・やはり、そうだ。


 すぐ側で見て、改めて確信する。

 あの頃とは比べ物にならないくらいに変わったが、この若者こそ、カーテス=デイリーの成人した姿なのだと。


 だが、それがどうしたと言う。

 カーテスに会ったからと言って、何かが変わる訳ではない。

 私は私なのだし、彼は彼なのだ。

 動揺してはいけない、心を動かしてはいけない。

 その為に、私は流離い人を続けているのではなかったか。


 「・・・・何の事でしょう?」


 私は冷静を装いながら、殊更素っ気なく言葉を返した。

 途端、更にぎゅっと、彼の指に強い力がこもる。


 「誤魔化しても駄目です。どんな姿をしていようと、どんな態度をとろうと、あなた様はセイラス王国の姫君、ステファ=ルドル=ツェンニー様だと、一目見れば僕には分かるのですよ」

 はっきりと、叩きつけるように言って、カーテスは私の手から指を離した。代わりに、フードに手を伸ばしてそっとそれを取る。

 彼は、一度ため息を吐き、意志の強そうな眼差しを少しだけ和らげた。代わりに、澄んだ湖の瞳に、うっすらと涙を滲ます。


 「忘れる筈がないではないですか。その美しい銀髪も、翠色の瞳も、王妃様によく似た面差しも。あなたは、あの頃と少しも変わっていない」

 私は深いため息を返して、素早くフードを頭に戻した。

 それから、相手に言い聞かせるように呟く。


 「私には、あなたが何を言っているのか分かりません。ご覧の通り、姫とは程遠い貧しき流れ者。私には、名など無いのですよ。・・・・ただ、風としか」

 「いいえ、あなたはステファ姫です」

 カーテスは頑固に言い張って、再び視線をきつくした。

 「僕は、あなたを探す為だけにこの一年、国中を巡っていたのですよ。城は、今や目茶苦茶です。城を立て直す事が出来るのは、あなたを措いて他に誰もいない。それなのに、やっと見つけたと言うのに、あなたは平然とそんな事を言う」

 そこまで言って、カーテスは言葉を詰まらせた。

 感情が昂っているせいだろう。顔を真っ赤にし、唇を僅かに震わせていた。

 「どうして、何も言わず城を出てしまわれたのですか?どうして、そんな流離い人の暮らしをしているのです?そんなの、あなたには似合わないのに!」


 ・・・・やはり、あなたもそう尋ねるのですね。

 決して、言葉には出来ない答えなのに。


 似合うも似合わないも、それが私の選んだ道。

 こうなるしか、他に無い定め。


 「それは、定めです。私は、なるべくしてこうなった。全ては、風の導くままに。もう私は、あなたの知っている私ではないのです。・・・・だから、放っておいて下さい」

 相手の激情に押され、仕方なくその言葉を口にする。

 それから、再び大きなため息を吐いた。


 聖騎士隊マーティン隊長の息子カーテスは、遊び相手とは名ばかり、殆ど私の憂さだけを晴らす為に存在していた少年だった。

 当時、色白で小柄、おまけに華奢だった彼は、他の貴族の少年達にとって恰好の苛め相手だった。

 喧嘩も弱く、つつけばすぐ泣くし、馬鹿のようにお人好し。周囲の親達も一緒になってあれでも隊長の息子かと馬鹿にしていた。


 彼に同情するのは、女ばかり。そういう女達に庇われても、恥とは思わない。

 そんな、情けない少年だ。

 当時、様々な事柄に苛立っていた私は、何かある度に彼にあたっていた。


 泣いても、笑っても、喋っても、黙っていても、何をしても気に障る。

 その度に、私は肉体的にも精神的にも、彼に対して酷い仕打ちを繰り返していた。

 それほど苛め抜いた相手だ、まさか私を探しているなんて夢にも思わなかった。


 「嫌です!」

 回想を断ち切るように、きっぱりとカーテスが言い切る。

 それは、ぎょっとするほどに強い口調であった。


 「僕は、あなたを放っておくなんて出来ない。城の者達も、あなたが帰って来る日を待ち望んでいます。皆の為に、あなたは城に帰るべきなのです」

 「カーテス、私は城に帰る気はありません。もう、昔には戻れない」

 一度捨てたものは、二度と取り戻せない。

 国も、城も、王位継承権も、もう私には関係ない事だ。


 ・・・・そう、私は全てを捨てたのだ。

 全てを捨てて、誰も知らない私になった。それは、余りにも身軽な生き方だったので、今更とても手放す気にはなれない。


 「・・・では、何故この国に留まっているのですか?この国で暮らせば、何時か見つけられる日が来るとも限らないではないですか」

 期待するようなカーテスの視線から、私はそっと自分の目を逸らせた。

 カーテスには悪いが、私は留まっていた訳ではない。確かに、国を捨てたのだ。

 そして、二度と戻るつもりはなかった。


 なのに戻って来る羽目になったのは、風が導くから。

 風と共に生きると決めた日から、風だけが、唯一私の道しるべ。

 この世でただ一人の友人、私を流離い人に誘った人が、こう言っていた。


 『お前は風に逆らってはいけない。風と共にに行くがいい』と。


 「カーテス、私がこの国に戻って来たのは、風の気まぐれの為です。決して、私の意志からでは有りません」

 はっきりと、彼の期待を断ち切るように告げる。

 途端、彼の表情が暗く曇った。


 「・・・・僕は、信じません。あなたが城を捨てるなんて、とても信じられない」

 「あなたが信じようと信じまいと、現実は変わらないのですよ」

 視線を、はるか河口の先に向け、ぽつりと呟く。


 あの川の先に、王都トーレストがある。

 賑やかで、華やかで、富に溢れた街。

 きらびやかな、セイラスの表舞台。誰もが憧れる、花の都。

 人々は国を愛し、町を愛し、城を誇りにし、王を讃える。


 姫として城に居た頃、私もそれを当然の事と思っていた。しかし、全ては絵に描いた栄光。

私は流離い人になって、セイラスが人々の言う通り、素晴らしいだけの国ではない事を知った。表には、必ず裏がついてくる。

 私が見ていたものは、セイラスのほんの一部分でしかなかったのだ。


 「所詮この世など、人の人生など、枯れ木に伝う雫のようなもの。零れ落ちてしまえば終わりなのです。それならばいっそ、束の間の人生を自由に生きた方がいい。私ではなくても、王位を継ぐ事の出来る人間は他にも居るではないですか」

 「王位を巡って争うような輩を、何故王と呼べましょうか。自分の利益しか考えない者に、この国を治めて貰いたくはありません」

 彼らしいと言えば言える、生真面目な返答に少し苦笑を漏らす。


 「私とて、同じようなものですよ」

 「いいえ、違います。姫様は、あんな奴らとは格が違う。姫様こそ、この国を治めるに相応しい方だと、私はずっと思ってきました」


 私が?

 冗談じゃない、最初から私にその価値などありはしないのだ。

 傲慢で、冷酷で、愚かな姫君だった。

 無知なまま、ただ王位という言葉に踊らされていただけ。


 頑固に言い張るカーテスに、私は深い、深い、ため息を返した。


 どうすれば、私の思いを理解して貰えるのだろう?

 どうすれば、諦めてくれる?

 私はもう、あの頃の私ではないのに。


 言葉を探しながら、ゆっくりと口を開く。と、突然、それを遮るように甲高い悲鳴が響きわたった。

 はっとしたように、カーテスが振り返る。つられて、私もそちらに視線を向けた。

 何やら、向こうの橋の上で騒ぎが起こったようだ。

 丁度真ん中辺りの場所に、蟻のような人だかりが出来ている。


 「何かあったんです。姫様、行ってみましょう!」

 言うなり、カーテスは私の腕を掴んだ。

 そのまま、強い力で引っ張られる。

 私は、強引なカーテスの行動に、少しだけ苛立ちのようなものを感じた。


 ・・・・・・何故、私が彼と共に行かねばならないのだ?


 しかし、カーテスの力は予想以上に強く、振り払う事も出来ない私は、仕方なく彼と共に橋の方へ行くしかなかった。

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