東風
しょうりん
第1話
それは、風の導きだったのか、それとも気まぐれな悪戯か。
セイラス王国の最西、イスリー。そこで、私は偶然に巡り合った。
イスリーは、長閑かな町。周囲には農園が広がり、素朴な人々が大地の恵みと共に生活している。
私が風に導かれてそこに辿り着いたのは、三日前の事だ。
こうしてセイラスに足を踏み入れたのは、訳あって十七の時に国を出てから、まるまる五年ぶりだった。
サジフール通りは、イスリーの大通りだ。都と比べれば微々たるものだが、それでも休日になれば露店が軒を連ね、香ばしい匂いを通りすがりの者達にまき散らす。
しかし私にとっては、賑やかな店主の呼びかけも、行き交う人の笑い声も、鼻をくすぐる匂いも、全て関係のない世界のものだった。
全身をすっぽり覆う、埃に塗れたマントを引きずり、擦り切れたフードを目深に被ったまま、ただ自分の足元だけを見て黙々と歩く。
苦々しい呟きも、あからさまに避けて通る人々の反応も、五年も流離い人を続けていれば、もう慣れっこになっていた。
私は、流離い人。
流れ乞食と蔑まれ、厄介を運んでくれるなとばかりに、小銭を投げつけ追い払われる。
ただひたすら流れながら、人の捨てた金を拾って食いつなぐ。それが、流離い人だ。
こんな暮らしをしていると、一人がごく当たり前のようになってくる。
きっと私は、たった一人で、死ぬまでこの生活を続けていくのだろう。
ずっと、そう思っていた。
・・・・・そうだ、イスリーの町で、彼にさえ再会しなければ・・・・。
何時もなら、きっと互いに気付かずに、そのまますれ違っていた筈。
私はフードを目深に被っていたし、なるべく人を見ぬよう、常に俯いて歩いていたのだから。例え実の母親が通りかかったとしても、気付かなかったに違いない。
それほどに、五年前と比べ、変わり果てた姿だった。
しかしその時に限って、たまたま私は立ち止まってしまった。誰かが捨てた揚げ菓子を包んでいた袋が、風で私の足に絡みついたからだ。
砂糖シロップか何かが付着していたのだろう。 埃に塗れた靴に、紙屑がぴったりと張りついて剥がれない。
仕方なく、手で剥がそうと私は身を屈ませた。
瞬間、突風が起こった。大陸では、この季節なら珍しくない東風。
しかし、その風が偶然を巻き起こした。
風に煽られて、フードが後ろに跳ね飛ばされる。同時に、長い銀色の髪が零れ落ち、風を纏って乱れ舞った。
丁度、大きな十字路。
これほどに溢れ返る人の中にあって、余りにも整いすぎた偶然。
ざわめきの中で、不意に一際大きな声が響きわたる。
「姫様!」
私は、はっとしてそちらに顔を向けた。
後になって考えてみても、何故なのか分からない。
ずっと塞いだままだった耳に、何故その声だけが鮮明に聞こえたのか。
忘れきっていた筈の単語に、どうして敏感に反応してしまったのか。
言えるのは、だからこそ、偶然だったのだろう、・・・と言う事くらい。
見上げた視界に、声の主らしき者の姿が映った。
道の反対側、流れる人の波を遮るように立ち尽くす若者。
鮮やかなブルーの上着を纏い、大きな羽帽子を被った、二十そこそこの青年だ。
金色の光を放つ亜麻色の髪、彫りが深く精悍な顔立ち、すらりとした、しかし決して軟弱ではない体付き。
とにかく、この田舎町では、目立ちすぎるくらいに立派な姿だった。
おまけに、彼が纏っていた衣装は、王都を守る聖騎士隊の衣装。
頭を過ったのは、大きな不安。
・・・・・・まさか、見つかった?
城の者達は、まだ諦めていなかったのか?
私は小さく舌打ちをしながら、それでも気付かぬ振りを装って、フードを素早く被り直した。鬱陶しく流れる髪も、無理やり中に押し込める。
ちらりと相手の様子を探ると、聖騎士隊の若者は、呆然とした顔でまだその場に立ち尽くしていた。
何となく、見覚えのある顔立ち。
私と若者は、僅かな間だが、見つめ合ったままの時間を過ごした。
突然、何かが記憶の底でぴんと糸を弾く。
湖の水を透かしたような、澄んだライトブルーの瞳。
どこか、懐かしい色。
ふと、ある少年の面影が過った。
・・・・・・まさか。
カーテス=デイリー。
マーティン隊長の息子、そして私の遊び相手。
こみ上げる衝動、憎しみ、悲しみ、罪の意識、振り上げる手、澄んだ目から流れる美しい涙。
脳裏に、様々な記憶がフラッシュバックされる。
いけない!
急いで視線を外すと同時に、静寂だった時間が戻った。
まるで今まで止まっていたかのように、突然人波が動きだして視界を遮る。
記憶の波に浚われそうになった私は、慌てて彼に背を向けた。
治まらない動揺を胸に、人込みをぬって歩きだす。
「待って下さい、姫様!」
若者の鋭い声が、再び背後で大きく響いた。
しかし、私は振り返らない。そのまま、黙々と歩き続ける。
・・・・追いかけて来るだろうか?
不安な思いを打ち消すように、歩調を早めた。
今、彼に会うべきではない。きつく、自分自身に言い聞かせる。
会えば、必ず問われるに決まっているではないか。
何故、城を出たのか?何故、こんな暮らしをしているのか?
何度も何度も、私自身頭が痛くなるほどに考えた事。考えても考えても、どうにもならない答え。
何故なんて、答える必要はない。
私が何故そうしたのか、きっと誰にも分からない筈だから。
このまま、ずっと分からなくてもいい事。
・・・いや、分かって欲しくない。
気がつくと、私は走りだしていた。通りすがりの者に何度もぶつかりそうになり、その度に怒声を浴びせられた。
それでも、走り続けるしかなかった。そうすれば、記憶が振り払えるような気がして。
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