第13話 未練を愛する

 夜の闇を煮詰めたような黒装束。腰ほどまである白髪は風もないのにわずかに持ち上がり、折れ骸を見据える赤い瞳はやけに静かな色をしている。


 折れ骸の前に立ちはだかったその人物――形代は右手を化け物へとかざした。


「退け」


 たった一言。その声だけで折れ骸はぴたりと動きを止める。今まで獲物を探して蠢いていた折れ骸のまなこが形代だけを捉える。


「それ以上、―を――るな」


 ほとんど囁くように形代は言う。折れ骸は数度瞬きをすると、急にきびすを返して屋根へと飛び乗った。そのまま屋根伝いに姿を消す折れ骸を雛と桐子は呆然と見送る。


 その姿が完全に見えなくなり、辺りに立ちこめる息苦しさも消えた頃、ようやく形代は振り向いた。


「怪我は」


「な、ない、です……」


 助かったのだという安堵でへたり込みながら、雛はなんとか答える。桐子もこくこくと必死で首を縦に振っていた。


「そうか」


 形代はそれだけを返すと、足下で呆然としていた犬の骨獣に手を伸ばした。


 雛は咄嗟に立ち上がり、犬を形代の手から奪う。


「ち、ちょっと待てって!」


 このままでは形代は犬の持つ未練をそのまま桐子に渡してしまうだろう。だけど、それはこの犬の望んでいることではない。


 骨獣を奪われた形になった形代は、胡乱なものを見る目を雛に向ける。


「邪魔をするな」


「したくてしてるわけじゃねーよ! ただその……少し話を聞いてやってからにしてほしくて」


 ぼそぼそと言いながら雛は徐々に俯いていく。


 自分がいかに矛盾したことをしているかはよく分かっている。


 結局のところ、形代たちのしていることはこの地に留まる魂の掃除であって、彼らの救済ではないのだと思う。だから、本当なら彼らの雑用をしている自分は素直にこの骨獣を渡して桐子を黄泉に送るべきなのだ。


 だけど――


「気持ちに寄り添えって……俺、こいつらの気持ちも無視したくねえよ……」


 ぎゅっと骨獣を抱きしめながら雛は呟く。


 数秒、痛いほどの沈黙。それを破ったのは形代が桐子にかけた声だった。


「娘」


「は、はい!」


 緊張しきった声色で桐子は答える。形代はしばし迷った後、彼女の前に膝を突き、ほんの少しだけ柔らかい声で語りかけた。


「継喪が言っていた。お前は自分で未練を取り戻すことを決めたと。そうだな?」


「あ、うん、そうです……」


「その気持ちは今も、変わらないか?」


 形代の仄赤い瞳は生気こそ宿っていなかったものの、まっすぐに桐子の目を見つめていた。表情も乏しく何を考えているのか分からないが、桐子に対して誠実に向き合おうとしていることだけは伝わってくる。


 桐子もそれに気づいたのだろう。ごくりと唾を飲み込むと、まだ震える声ではあるがはっきりと答えを告げた。


「私、自分の未練が何なのか知りたい。何を忘れているのか、思い出したい」


「思い出しても辛いだけかもしれない。それでもか?」


「……それでもいいの。それでも思い出したい。だって私、あの人を愛していたもの!」


 高らかに桐子は答える。形代は立ち上がると、雛が抱える骨獣に目を向けた。


「彼女はこう言っている。お前はどうする?」


 骨獣はたじろいだように見えた。形代に視線を向け、それから桐子を見る。桐子は強い眼差しでそれを見つめ返した。――やがて折れたのは、骨獣のほうだった。


 骨獣は雛の腕から抜け出すと、形代の足下へと近寄っていく。形代はそれを両手で抱き上げ、額と額をつけて目を閉じた。


「――お前の未練は、『愛する者を庇う背中』」


 ぽつり、と。その一言だけで骨獣の姿はほどけ、桐子の中へと吸い込まれていく。


 彼女は最初、驚いた顔でそれを見ていたが、やがて穏やかな表情になると自分の胸にそっと手を当てた。


「そっか、私……」


「……思い出したの?」


 おそるおそる雛が尋ねると、桐子は静かにうなずいた。


「骨獣が逃げ回っていたのも納得だわ。とても、ひどい記憶だもの」


「桐子……」


「だけどね、私、やっぱりこの未練を取り戻してよかった! だってあの人の顔を思い出せたんだもの!」


 本当に嬉しそうな顔で桐子は立ち上がる。形代は無表情にそれを見下ろしていた。


「お前は強いな、娘」


「……形代さまもありがとう。それから怖がってごめんなさい。気を遣ってくれたのよね?」


 桐子の問いかけに形代は答えなかった。だが、桐子はそれでいいようだった。


「さてと! そろそろ黄泉の国に行かなきゃみたい!」


 元気よく言う桐子の周囲には光の粒が舞い、彼女の体は徐々にそれに溶けていく。魂である骨が光となっていき、肉付けされていた部分も風にさらわれた砂のように消えていく。


「本当にありがとう! 雛も欠けた骨が早く戻るといいね!」


 ぱちん、とはじけるように桐子の姿は光の粒になる。残されたのは、ボロボロになった雛と、いつも通り無表情な形代だけだった。


「なんつーか……ありがと。助かった」


 そっぽを向きながらも雛は一応礼を言う。しかし、それに対して返ってきたのは冷たい声だった。


「獣飼いに言われたのか」


「は?」


「気持ちに寄り添えと」


 端的すぎてうまくくみ取れない意味をなんとか理解し、雛はうなずく。


「そうだよ。これから仕事をするならって教えてくれたんだ。どっかの継喪とは違ってすげー分かりやすくて優しかったなー」


 にひひ、とおどけた笑いを浮かべる雛。対する形代の視線は冷たかった。


「お前が考えるべきことではない」


「はあ?」


「お前はその仕事をしなくていい」


 あまりに唐突に突き放され、雛は唖然とした顔で固まる。そのまま立ち去っていく形代をぽかんと口を開けて見送った雛はやがて憮然とした表情になった。


「……なんだよ、あいつ」

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