第12話 骨獣の想い
すっかり頭に血が上った雛は犬を捕まえようと飛びかかる。しかし犬はそんな雛の動きを読み切っているらしく、彼の突進をひらりと避けた。
「こんの……待て!」
スライディングしかけた雛はなんとか体勢を立て直し、再び犬へと向かっていく。犬はそれもまた容易く避けた。
追いかける。避けられる。追いかける。また避けられる。転ぶ。立ち上がって追いかける。それでもまだ犬は捕まらない。
だが不思議なことに、犬は雛の近くから逃げだそうとはしなかった。十回は懲りない追いかけっこを繰り返した後、その事実に気づいた雛は、荒い息を整えながら犬に尋ねる。
「なんなんだよお前! 何がしたいんだよ!」
「クゥン?」
むかつく……!
とぼけるように鳴く犬に対して湧き上がってくる怒りをなんとか飲み込み、雛は犬の前にしゃがみ込む。
この犬はこちらの言葉が分かってるみたいだ。だったら、説得して捕まえてやる。
「お前、何がしたいんだよ。あいつ……桐子から逃げるのはわかるけどさ、なんで俺からは逃げないんだよ。捕まるつもりはないんだろ?」
まっすぐ犬の顔を見て尋ねる。犬もまた雛のことを正面から見ていた。
そのまま見つめ合うこと数秒。犬はゆっくりと雛に近づいてきた。
雛は自然と犬に手を伸ばす。犬は雛の目の前で腰を下ろすと、彼の指をふんふんと嗅ぎ、その頭を指先にぐっと押しつけた。
その途端、燃えるような熱い朱色の光とともに、雛の意識はぼんやりとした世界の中へと吸い込まれた。
*
仲睦まじく男女が歩いていた。
一人は桐子。もう一人は同じ年頃の青年だ。
うららかな木々の中を散歩する二人。特別なことは起こらないけれど、穏やかな幸せに満ちた時間。
それが壊れたのは、日が傾き夕方になった頃。きっかけは彼方から聞こえてきた野犬の遠吠えだった。
「そろそろ戻ろうか」
「はい。でも……」
桐子は渋っていた。家に戻ってしまえばこの幸せな時間は終わってしまう。別の婚約相手を親によってあてがわれそうになっている彼女は、ささやかだけど何物にも代えがたいこの時間が終わることを拒んでいた。
そんな彼女に男はさらに声をかけようとする。
しかしその時――いつの間にか近づいてきていた野犬が彼女に襲いかかった。
「……逃げろ!」
咄嗟に彼女を庇いながら男は叫ぶ。桐子は気が動転して動けなくなっていた。
野犬が男の腕に噛みつく。落ちていた枝で応戦するも牙は外れない。遠吠えが近づいてくる。野犬の群れが集まってきている。
「早く行け!」
「でも、義郎さん……!」
「先に逃げて、助けを呼ぶんだ!」
桐子は泣きそうな顔でうなずくと、ふもとに向かって駆け出した。
数十分後、桐子は無事に家へと帰り着き、助けを呼ぶ。
しかし、彼女の前に二度と男が姿を現すことはなかった。
*
全てを見終えた雛の意識は現実に戻ってくる。
ぱちぱちとまばたきをするごとに、その未練にこめられた感情によって、視界がまだちりちりと焼けているようにすら感じた。
「クゥン……」
視線を前に戻すと、骨獣の犬が悲しそうに鳴いていた。
この犬は俺にだけ記憶を見せたくせに、桐子からは逃げ回っている。どうして?
雛は、犬と目線を合わせながらゆっくりと思案し、ある一つの結論に至った。
「もしかして、もう自分を追いかけないでほしいって桐子に伝えろってことか?」
犬は小さく「バウッ」とだけ鳴いた。不思議と雛にはそれが肯定だと理解できた。
「でも、あいつはお前の持つ未練を取り戻したがってたぞ」
彼女から直接聞いた思いを雛は伝える。しかし、犬はゆっくりと首を横に振った。
それは内容を知らないからだ。雛にはそう言っているように見えた。
「だけど……」
雛はさらに言いつのろうとしたが、それ以上の言葉は出てこなかった。代わりに、獣飼いが言っていた言葉が頭をよぎる。
『相手の気持ちに寄り添ってほしい』
この犬の気持ちを考えたら、桐子に未練を返さないのが正しいことになってしまう。でも、それがあまり良い判断ではないことは雛にも分かった。
辛くて悲しくて目を背けたい記憶。言葉で言われた時はぴんと来なかったけれど、実際に未練を見て実感した。
あの時、帰るのを渋ってしまった彼女の後悔。彼を見捨ててしまった罪悪感。もう駄目なのだとわかっていても、彼が戻ってくるのを待ち続けた日々の苦しさ。
未練を取り戻したところで手に入るのはそんなものだけなのだから。
「……あーーーーーっ!」
突然の大声に雛は肩をびくりと震わせる。振り向くとそこにはぜえぜえと息を整える桐子の姿があった。
「捕まえてくれたのね! よくやったわ!」
言いながらも桐子はのしのしと近づいてくる。雛はそんな彼女から犬を守るように彼女に手のひらを向けた。
「ちょっと待って! まだ結論が出てないっていうか……!」
「結論? 捕まえたのだからもう終わりでしょ? さあ、私に未練を返してもらうわよ!」
雛の抵抗を無視して、桐子は犬に手を伸ばそうとする。だが、犬は姿勢を低くしてうなり声を上げ始めた。
「グルルル……」
「えっ……」
桐子は牙を剥いて威嚇してくる犬にたじろぐ。あと少しでも手を伸ばせば噛みつかれる。はたから見ていてもその未来が容易に想像でき、雛は慌てて二人の間に入ろうとする。
「そんなに……私のところに来るのが嫌なの……?」
ひどく傷ついた声色で桐子は呟く。
しばしの沈黙。
うなり声を上げる犬。頭上できしむ屋根。
巨大な影。視線。饐えた匂い。
その時になって雛は、ようやく桐子の向こう側に迫っているものに気がついた。そして、犬が本当に威嚇している相手がそいつであることにも。
「危ない!」
雛は桐子を突き飛ばし、そいつの目の前から逃れさせる。ほぼ同時に、骨獣の犬は引き絞られた矢のように勢いよくそいつに飛びかかった。
それは巨大な獣だった。
獰猛な爪を備えた毛むくじゃらの四つ足。体躯は羆よりも倍は大きい。狼のようにも狐のようにも見える顔は右半分が溶けており、鋭く太い牙がギチギチと音を立てている。
骨獣とは異なり、そいつにはまだ肉がついていた。だが、その体の一部は腐り落ちており、骨が歪に露出している。
そいつは飛びかかってきた犬を前足だけで軽々といなした。吹き飛ばされた犬は悲痛な鳴き声を一度上げ、まるで鞠のように地面をてんてんと転がっていく。
「お、折れ骸……!」
引きつった声を出す桐子。雛はそんな彼女を抱き寄せて立ち上がらせようとしたが、失敗した。
大きく避けた折れ骸の口の端からぼたぼたと腐りかけの唾液がこぼれ、地面に染みを作っていく。どこを見ているのか分からない巨大な目は絶えず蠢いており、雛はその視線がこちらに向けられないことを祈って桐子を抱きしめた。
「いや、来ないで……!」
その声に反応したのか、折れ骸は桐子に標的を定めたらしい。体を揺らしながら、ゆっくりとそちらに向かい始めた。
「グルルル……!」
飛び起きた犬が、折れ骸と桐子の間に割って入る。小さな体を必死に大きくして、折れ骸から大切な人を守ろうとしている。
――ふと、その姿が骨獣の持つ未練の光景と重なった。
「……義郎さん?」
震える声で桐子がぽつりと呟く。直後、自分が何を言ったのか理解できていない顔で彼女は口を手で押さえた。
「私、今……?」
そうしているうちにも折れ骸は迫ってくる。一歩一歩近づくごとに、腐臭と血のにおいが立ちこめ、息をするのも苦しくなっていく。
あと三歩。
あと二歩。
あと、一歩。
折れ骸が喰らいかかり、犬が地面を蹴って飛びかかろうとしたその刹那、二者の間に割って入る人影があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます