28 知らなかった事実

 赤い液体はゆっくりと小瓶の中で揺れている。

「これはあの場所に残されていた血液だ。だが、アンタの師匠の血液ではない。もちろんさっき調べたが、アンタのものでもないな」

 あそこに居て、俺とムト以外の血液。間違いない。アニーのものだ。

 レイラーニはもう一本、小瓶を取り出す。

「これはアンタの血液だ。調査のために少し採取させてもらった。これに魔力を込めてもなにも起こらないのだが、こっちの血液に魔力を込めると……」

 赤黒い血液が淡く赤に光る。いやに不気味だ。

「この特徴を持っているのは魔物のそれだ。そこで質問なんだが、アンタはあそこで何と出会ったんだい?」

 何と戦ったか。それは俺にもわからない。アニーだと俺は認識したが、あれがアニーだと今となっては確実に証明できる証拠はない。

 それに、彼女はバインハルトの子供に俺と同じように死んでしまった人間の意識が移し替えられた存在である。それならば魔物の血液になるはずがない。

 そんなことを交えながら、俺は全てを説明した。

「なるほどね。アタシもなにがどうかはわからないけれど、それが真実だとしたら少し厄介だ」

「なぜですか?」

「アタシらはバインハルト侯爵の死にずっと気がつかなかったのさ。数年間も全く顔も見せなくなった侯爵が一人いたにも関わらず、誰もそのことに違和感を持たなかった」

 レイラーニはタバコを吸い、また天井に煙が登る。

「アンタが言うそのアニーって子が何をしたかは知らないけれど、その子が魔物であることは確定だとして、その子、あるいはその子の協力者が広範囲の暗示と現実隠蔽の魔法を行使したことになるからね。そんな魔物が居るなんて事実はこれまで一つもない」

「現実隠蔽……?」

「ん? 魔法の勉強はしてこなかったのかい?」

「残念ながら相撲ばっかりやっていたので。魔力を体に込めることくらいしかわからないです。それも数ヶ月くらいかけてやっとできたことですし」

「スモウ、とやらは知らないけれど、その年齢でそれは珍しいわね。あんたの師匠、よっぽど魔法に頓着がなかったんだろうね」

 ムトとはずっと相撲をしていた。ミーナが使っていた魔法を俺は知ろうとは特にしていなかったという部分もあるのだが。

「ま、いいさ。現実隠蔽ってのはいわゆる隠し事の魔法だね。誰にできるわけでもない、超上級の魔法。それがこんなに広範囲にばら撒かれていたんだ。魔法が何かわからずとも、言葉で危険だってわかるだろう? そんな相手が魔物側にいるという事実がね」

 冷や汗が出る。本当にアニーは何者になってしまったんだ。協力者が居るような雰囲気ではなかった。あくまでも俺の予想ではあるが、あれはアニーが一人でやったと思ってしまう。

「ま、アンタも詳しくはわからないだろうからね。気にしなくてもこっちの管轄だ」

「こっちの管轄……?」

「あら? アンタ本当になにも知らずにずっと過ごしてきたわけ? そんなはずはないわよね?」

「いや、本当にここ数年森から出ずにずっと稽古ばかりだったので……」

 レイラーニの目が一気に小さくなる。そのままタバコを床に捨て踏み潰すと、豪快に笑った。

「はっはっは! 本当になにも知らないのかい! その大きな図体になるまで世間を知らずに育ったとは、とんだ野生児を迷いの森の防人ゲートキーパー様は育ててたもんだね!」

「……何かおかしいですか」

「いや、面白い。じゃあ基本的なことから説明していこうか。ここはミドガルズ王国の首都、マーヘルべだ。バインハルト侯爵もうちの侯爵だから、アンタは本来ここで兵役するはずだったんだよ。魔王討伐軍としてね。ただ、最近は一人えらく強いのが入ったらしいから、もし入っていたとしてもアンタの活躍が見込めるかは甚だ疑問だけれど」

 レイラーニは椅子から立ち上がり、近くの本棚から一つの本を手に取った。それをパラパラとめくり、こちらに見せてくる。そこに描かれていたのは街の地図だった。線と文字だけで構成されているが、シンプルで分かりやすい。

「ここはそのマーヘルべの中心地にあるギルドだ。ほら、ここ」

 地図には確かに中央に大きな敷地を表す多角形が描かれている。

「こっちが王城と兵士が住むところだね。あとは一般市民に解放されている教会なんかもここにある」

 レイラーニはそのすぐ隣を指差した。線と文字だけで構成されている地図の中に、少しだけ模様で飾られた地区がある。これが王城なのだろう。

「じゃあ俺はこれからここに……?」

「いや、バインハルト侯爵が死んだ以上、紹介状もないアンタを兵士にすることはもうできない。今はウチで預かってるけど、このままウチでお抱えの冒険者になるか、適当な職に就くか選ぶしかないだろうね」

「そうなんですか……」

 まずい。あまり考えずに敷かれたレールがある想定だったが、自分で生活していかなければならないと聞くと不安感が膨らんでくる。

「それでだね……」

 ペラペラと本をめくり、別のページを開く。ミドガルズ王国と書かれた部分が小さくなっているのを見るに、縮尺を狭めたものなのだろう。

「こっちがアンタの師匠が守ってた森ね。で、ここがアンタの倒れてた場所。もうあれから二日くらいは経ったかしらね。アタシが教えられることはでもこれくらいしかないかな。医療と治癒を覚えたいならもっと教えるけど」

「いや、結構です。それよりも、あの」

「なんだい?」

「森にですね、一人残してきているんです。ミーナっていう俺よりもちょっと年上の女性で。その、できれば迎えに行きたいんですけど」

 あんな環境でミーナが一人、生き残れているとは思うが、いつ魔物があそこに襲撃するかもわからない。

「それは無理だね」

 だが、レイラーニはキッパリと言い放った。

「なんでですか!」

「理由は二つある。まず一つはあの森に入ったら最後、出られないんだよ。迷いの森の防人ゲートキーパーか、その同伴者以外はね。そしてもう一つ。あの森にはそれはそれは恐ろしいドラゴンが住み着いているのさ。ワルキューレ種って呼ばれてる種でね。そこらへんの兵士なり冒険者なりがある程度まとめてかかったとして、子供のドラゴンであっても勝てる相手じゃない」

 ドラゴン……倒せるはずがないと言うのはちょっと俺の知っているものと矛盾するが、気になったことがある。聞いてみるのはアリかもしれない。

「あ、もしかしてそれって。すみません、俺の荷物ってどこにありますか」

「ん? ちょっと待ってな」

 レイラーニが部屋から出ていき、しばらくしてリュックを持って戻ってくる。あぁよかった。まだあの鱗もついたままだ。

「はいよ。中身は確認させてもらってるけど、何も取ったりはしてないから安心しな」

「その鱗、なんですけど」

「鱗……?」

 レイラーニはその俺の言葉でアクセサリーのようについている鱗の存在に気がついたようだ。

 そして、リュックを取り落とす。

「あぁっ!」

 そんな俺の声に耳を傾けられないほど、彼女は驚愕していた。

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