27 一番嫌なアラーム音で少しの幸せを実感するような
体が動かない。まぶたも開かない。指先まで全ての神経が痺れているようだ。かろうじて少しだけできる呼吸が、俺の脳に全力で酸素を回している。
「……あ……め…………か」
声が聞こえてくる。ハスキーな女性の声だ。なにを言っているのかは聞き取れない。
あぁ、夢だったか。ここはいつもの病院で、眠っている間に数年間分の幸せな夢を見た。ただそれだけ。幸せな夢だった。本当に幸せだった。
そんな夢の中なら突拍子もない展開なのも納得がいく。あんなにもおかしな話があるはずがない。
体の痺れも少しだけ薄れたような気がする。どうせこの痺れも寝返りをあまり打たずに寝てしまっていたのだろう。背中の痛みもそのせいで筋肉がつってしまったとか、その程度のことだ。それが夢にまで反映されるのだから、人体は面白い。
あぁ、目を覚ましたくないなぁ。あのまま、あの世界で健康に暮らしていたかったなぁ。
でも、まぶたはもう動く。起きなければならない。起きたらナースコールを押して、起きたことを報告しなければ。
そう思って俺はゆっくりと目を開けた。ぼんやりとした視界は全体が茶色に染まっている。
ここはどこだろうか。明らかに病院の清潔感はなく、俺の記憶の中にこびりついている嫌な白さの天井でもない。
視力がだんだんと戻り、視界が明瞭になっていく。天井は土を固めたようなものだということがやっとわかってきた。
「……たね。……いじょうぶかな? 息はできているようだけど」
段々と耳も戻ってきたのか、女性の声がクリアに聞こえてくる。それと同時に目の前に眼帯をして、革のベストを着た鋭い目つきの女性だった。真っ赤な髪の毛が長く伸びており、ところどころで外にハネている。
「ァィ……じょ…………で……」
思っていた以上に喉は枯れていて、うまく声が出せない。段々と痺れはなくなってきているものの、まだ指先も動かせない状態だ。
「無理に声を出さない方がいい。もうすぐ体も動くようになる。アタシは医者だ。アンタが動けるようになるまで、じっと見守ってやるさ」
声は出せないが、俺は感謝の気持ちを目で伝えた。それが伝わったようで、女性も笑ったように目を細めた。
体の痺れはゆっくりと戻っていき、その間も女性は絶えず誰かと話し、何かを書き、指示を出していた。仕事のできる人なのだろう。
段々と指先の感覚が戻ってくる。血液が身体中に通っていき、冷えた体温が戻った気がする。
力も入るようになっていき、俺はゆっくりと体を起こす。
安堵。その感情は、自分の体が太っていたことを確認できたからだ。あぁ、まだ夢が見れる。そう確信できる嬉しさだった。
包帯が巻かれており、その上から毛布が被せられていたようだ。俺の服はリュックの中だったし、つけていたものもマワシ一つだったのだからしょうがないだろう。それよりも、そんな格好の人間を助けてくれたという事実の方が驚きだ。
「あ、まだ起きちゃダメだよ。傷も塞がってないんだから」
無理やり肩を押され、俺はまた仰向けに寝かされる。そこでやっと背中の痛みに気がついた。鋭い、それでいて脳天に突き上げるような体感したことのない痛み。
稽古の時には何度も擦り傷や青あざを作り、ひどい時には骨折もしたことがあった。ただ、こんなにも鋭い痛みは初めてで、喉から呻き声が溢れ出してくる。
「回復魔法はかけてあるから、あとは自力で傷を塞ぐだけだよ。頑張りな」
「あ、あいがとう……ございます」
全身の痺れはもうない。声も通る。
「おや、もう喋れるようにまでなったのかい。すごいねぇ。じゃあせっかくだから聞かせてもらおうか。君はどうしてあんなところに倒れていたんだい?」
あんなところ。アニーから逃げ出し、追撃をくらいながらも最後の全力で逃げた結果があれだ。思い出すと今度は足も鈍痛を訴え始めていた。
「まあ、大体の察しはつくさ。タバコ、吸っても?」
「ええ」
俺が肯定を示す前に、女性はタバコに火をつけていた。口から紫煙がもくもくと立ち上る。
「まず数年前のことだ。
「そのゲートキーパー……とやらが誰のことなのかは知らないですけれど、ムトさんに弟子入りしたのは確かです」
「そうだな。あの男の名前はそんなだった。あ、名乗っていなかったね。私はレイラーニ。見ての通りただの医者だよ。君の名前は?」
「あ、ヤマトです」
「珍しい名前だ。あの侯爵がつけるにしては良い名前だね」
「あ、いや、ちょっと事情がありまして……」
俺がそう言うと、なにも聞かずにレイラーニは話を流した。
「そうか。話の続きだ。アンタは弟子としてある程度鍛え上げられ、もうそろそろ育っただろうというタイミングでバインハルト侯爵の屋敷に行った。なんらかの許可……おおよそ兵役か何かの許可をもらうためだ。これは状況から推測したことだから、否定してもらっても構わない」
「ええ、間違いありません」
俺の肯首にレイラーニは笑う。
「良かった。そこで、アンタはそうだな……何者かと出会った。強かっただろう?」
思い出しただけでも冷や汗が出てくる。ああそうだ。とても強かった。俺では絶対に勝てない。それどころか、知らないうちに殺されかけたほどだ。
「そして、アンタはそこから逃げた。一人でね。ただ、その何者かによって攻撃を受け、地面に倒れ伏した。間違いはないかい?」
「ええ、それも。親方が……俺を逃がしてくれて……。そうだ! ムトさん! ムトさんはどうなったんですか!? 後で落ち合うって約束だったんですけど」
「……」
苦い顔をしてレイラーニはタバコを一息吸う。一気に灰が口元まで進んでいるのを見るに、相当な量吸っているのだろう。タバコを口から離すと、大量の煙が天井に流れていく。
「死んだよ。少なくともアンタを見つけた後に侯爵の屋敷に向かったアタシの仲間が見つけた時にはまだ少し暖かかったらしいけど、もう失血死してたらしい。アンタだけでも逃がそうとしたんじゃないかな」
言葉が出ない。脳に流れるのは、ここ数年の日々の記憶だ。豪快な笑い声、俺がやらかした時の怒った顔、組み合った時の真剣な表情。その全てが一瞬流れ込んできて、抽出するように涙に変わってくる。自分が逃げたせいだというのに、その涙は生暖かくて、不快だ。
「アンタがあそこに残ってたとしても二人とも死んでただろうから、アンタが気にすることはないさ」
多分、ここでは激昂するのが正解だったんだと思う。自分の非力さや、なぜ助からなかったのか、俺がもっと早く、あるいはもう少し遅く稽古を終わらせていれば少しは変わったのではないだろうか。そんな些細なことで、レイラーニに当たり散らしたかった。
だけれど、そんなこと意味がないってことはわかっている。彼女の言うことが正解だ。俺がいたところで……いや、ムトが逃してくれていなかったらあのままナイフが俺の腹を掻っ捌いていたことだろう。
そこまで考えて冷静になり、涙も止まった。今すべきことは泣くことではない。
「偉いな。怒りもせず、ただ現実を噛み締めて泣くだけとは、よほど精神もできているらしい。慰めかもしれないけれど、アンタの師匠はすごい男だよ。それでな……」
レイラーニが胸ポケットから、赤い液体の入った小瓶を取り出す。そして、俺の知らなかった事実を語り始めた。
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