26 明けの明星は宵の明星へ
焼けるように痛い。これまで何度かグラウンドボアの牙が刺さったことがあるが、それと同じ痛みだ。だが、確実に内臓には届いていない。背中からとはいえ、筋肉に阻まれてうまくナイフが刺さっていないことが容易にわかる。
間違いない。コイツがこの屋敷の人間を皆殺しにした。そして、俺のことも殺そうとしてくる。
「ふぅん、やるわね。じゃあもうちょっと深くさし込んじゃおっか」
「あっ……ぐっ……」
刺さっていたナイフがさらに奥に入ってくる。これは危険だ。このまま刃が俺の体内にもっと入ってくれば、内臓まで傷つくかもしれない。
傷を癒せる場所は今ここにはない。ここで重傷を負ってしまえば死は免れられないだろう。
ただ、動けない。アニーの気迫がそうさせているのか、ジリジリと足を滑らせることすらできない。それなのに刃は体の奥深くに今まさに入ってこようとしてくる。
「うちの弟子になにしてんだテメェ!」
ムトの怒号とともに、俺のケツにとてつもなく強い衝撃が走る。動けなかった俺はその衝撃をもろにくらって前に吹っ飛んだ。
「あら、随分と荒々しい方ね。仲間を蹴り飛ばすなんて」
「馬鹿みてぇに姑息な手を使ってうちの弟子をなぶりごろそうとした鬼畜外道にゃ言われたくねぇな。ヤマト! 走れるか!」
「な、なんとか……」
「お前だけでもさっさと逃げろ!」
振り返れば、ムトはアニーのナイフを持っている方の腕を掴んでいる。
「あら、素敵な師弟愛。わたくし感動しちゃうわ」
「バカが。お前の相手はワシ一人で十分だっつってんだよ。オラ! さっさと走れクソ弟子!」
「でも……!」
「でもじゃねぇ!」
腕を掴んでいるムトが少しずつ押し返されてきている。助けなければ。でも俺が入ってなんとかなるのか? 背中は今激痛に襲われている。地面に足をつけ、力を込めるだけの集中を今の俺ができるとは限らない。
どうする……どうする……どうする!
「……絶対勝ってくださいよ!」
「馬鹿が。負ける想像をする力士なんていねぇんだよ」
俺は二人に背を向けて走り出した。
「あら、私が見逃すとでも?」
「させねぇよ。ワシの作り上げた
後ろから何かの衝突音が聞こえる。だけれど、振り返る暇はない。俺は走って、走って、走って、今見たことを伝えなければならない。
後ろでは戦闘が繰り広げられているのだろう。金属とムトの拳がぶつかる音が聞こえてくる。しかし、唸り声はムトのものしか聞こえてこない。
二人がなにを話しているかすらもう聞こえない距離まで走っていた。目の前の門をくぐり、俺はそこに置いていたリュックに服と、ムトの羽織を急いで詰める。
「絶対に生きていてくださいよ……!」
立ち上がり、走り出す。後ろから何か聞こえるが、それを気にしてはいけないことくらいはわかっていた。
トス……という軽い何かが刺さった音。逃げようとした一歩目で、俺の視線は一瞬地面を向く。熱い、熱い熱い熱い熱い熱い。ムトの声が聞こえるが、なにを言っているのかはわからない。
背中に何かが刺さった? ムトと戦いつつ、俺の方に何かを投げたのだろうか。
でも逃げなければ。絶対に逃げなければ。死ぬ。死んでしまう。それは嫌だ。何があっても死にたくはない。
その強い意識がそうさせたのだろう。前に倒れるその体重移動をそのままに、俺は今までやったことがないほどの強い魔力を足にこめて、地面を蹴り飛ばしていた。
足への負担も、着地した時も考えない、ただ全力の蹴り。それはゆうに百五十キロはあるであろう俺の体をまっすぐに、そしてありえない速度で前に吹き飛ばしていた。
・・・
「あら、残念。まだ逃げる気力が残ってるなんてね」
「テメェ……この後に及んでまだワシを怒らせるつもりか……」
ムトの毛がさらに逆立つ。目は充血し、体毛があってなおその体から盛り上がった筋肉が見えるほど体に力が入っている様子が、アニーにも見てとれた。体からは湯気が発せられ、もうもうと周囲の空気をかき混ぜている。
「あら、本気モードかしら? わたくしが用があったのはさっきの彼だけなのだけれど」
「ちょうどいいや。うちの弟子に用があるなら、まずは親方であるワシを通してもらわんとなぁ!」
両足をしっかりと地面につけ、膝を落とし、拳をピッタリと地面につけたムトは、そこから相撲を取るようにアニーに突っ込んでいく。それにぶつかることは、いわば四トントラックにぶつかることと同義だと思わせるほどの気迫と速度と重さ。
「そんなの、当たるわけないじゃない」
しかしアニーはそれをするりとかわす。
「一直線に突撃することを教えるなら、猪でも良いんじゃなくて?」
「馬鹿が。そんな単純なことを教えるだけの脳筋だと舐めてたら、お前は死ぬぞ」
「あら、怖い」
ムトがもう一度同じように構え、突進する。
「怖いからちょっと、手が出ちゃうわ」
アニーはその突進の軌道から少し避けて、ナイフを構えた。そのまま突撃してくるムトの首を狙う。
「馬鹿が」
そう呟いたムトは急速なブレーキと共に方向転換し、アニーに突っ込んだ。ブレーキをかけたにも関わらず、速度は維持されたままだ。
アニーは庭木に吹っ飛び、細い枝がメシメシと何本も折れる音がする。
「やだ、服が汚れちゃったじゃないの」
「怪我一つなしか。どうだ、改心してお前も相撲をやらないか?」
「やるわけないでしょ。そんな野蛮なスポーツ。こっちの方がよっぽど簡単に殺せる」
アニーはナイフをペロリと舐めて、ゆっくりと立ち上がった。
「お前とは分かり合えん……なッッ!」
ムトは一瞬でアニーの眼前に飛び込むと、その腹部に張り手を叩き込んだ。めり込むように打ち込まれた張り手をモロにくらったアニーは、そのまま抉りあげられるように上空へと弾き飛ばされる。
「ガハァッ!」
ーーだが、先に血を吐いたのはムトだった。その腹部には深々とナイフが刺さっている。さっきまでアニーが持っていたものとは違ったつばの無いナイフは、柄まで全てムトの腹の中に収まり、さらに奥深くまでさしこまれていた。
上空からくるりと体勢を変えつつ、アニーはムトの後ろに着地した。
「残念だったわね。もう少し油断しなければ、もっと善戦できたでしょうに」
ナイフが振り下ろされる。ムトの右腕が飛ぶ。時間差で別のナイフが振り下ろされる。ムトの左腕が飛ぶ。どくどくと流れ落ちる血液が、低木の木々を濡らしていく。白く咲き誇っていた花々がまるで薔薇のように真紅に染まっていくのを、ムトはただ見ているしかなかった。
「あ……あぁ……ヤマト……逃げろ………………」
ムトの瞼が閉じていく。体温が急速になくなっていく感覚がムトを襲う。ゆっくりと、眠るようにしてムトは前に倒れた。
「ふふ、少し戦うことが面白かったからひとつ、わたくしからも面白い話を聞かせてあげる。あなたのお弟子さんに刺さったのは、毒針。しかもゆっくり進行していきながら、体を痺れさせる毒。絶対に死なないけど、段々と動けなくなっちゃうの。さて、あの子はどこまで耐えられるかしらね? わたくしが殺しちゃうよりも先に逃げられるかしら?」
アニーはムトをゴロンと仰向けにすると、腹部の傷口に手を突っ込んだ。肉のかき混ぜられる音と共に、刺さったナイフが出てくる。
「さて、じゃあ追いかけましょうか。こんなデブ猫じゃなくて、わたくしのもくて……き…………ゲポ」
アニーの喉から、液体がこぼれ出るような音がする。瞬間、口から大量の血液が飛び出してきた。
「なにを……ゼェ……したの…………」
ムトの死体はしゃべらない。ただ、そこに眠っているだけだ。アニーは怒りに任せて動かないその肉塊を蹴り上げる。巨体とも呼べるその体はしかし、まるで重量などないかのようにゴロゴロと転がっていった。
「い、ちど……戻って……かい、ふく……しないと…………」
ヨタヨタと歩き始めるアニー。しかしその足取りに余裕はなく、ヤマトが逃げた方向ともまた違った方向だった。
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