10 夢への一歩

 しばらくして二人は二階から降りてきた。

「ムトさんから色々と聞きました。しばらくよろしくね、ヤマトくん」

「あ、よろしくお願いします」

 ぺこりと可愛らしくお辞儀をしてきたミーナに俺も礼を返す。

「ヤマト! すまんがこちらで名乗る名前がない様子だったからな、しばらくその名前で通させてもらうぞ。誇りのある良い名前でもあるからな」

 続いて降りてきたムトが言う。

 その手には折り畳まれた硬そうな布が二つ。大体の予測はつく。俺は期待に胸を膨らませてベッドから飛び降り、ムトの方に駆け寄った。

「それってもしかして……?」

「ん? そうだ。って言っても今日は様子見だから、つけるかどうかはまだ決定じゃない。ヤマト次第ってところだな」

「俺次第……ですか?」

「ああ、素養のない奴に無理に相撲を教えても体を壊すだけだ。壊さないように中途半端に教えることもできるが、できる限り厳しく教えてしっかりした力士になってほしいからな」

 確かにそうだ。俺がもし弓の方が得意だったら、動かない戦術が得意な体だったら、これをつけることすら無駄になる可能性が……あるのか? つけるだけならタダだと思うが、それもムトなりのこだわりなのだろう。あと、ムトは魔王討伐のための訓練の先生として紹介されたはずなのだが……なんというか、趣旨がずれているような気がする。

 俺としては力士になれるのであれば万々歳ではあるが。

「もう、あんなこと言ってるけどムトさん、ニヤつきながらマワシを探してたんですよ?」

「え、そうなんですか!?」

「それは言うな。まあなんだ、とりあえず適性だけでも見させてもらう。一応基準は低めに設定してるが……その体なら多分大丈夫だろうな」

 俺の頭の先から足先までを値踏みするように眺めたムトは、ついてこいといった様子で小屋の外に出た。

「頑張ってね」

 ニーナが俺の背中を押しながら、応援してくれた。

 小屋の周囲は森の中でも少しひらけた土地だった。近くには流動的に水が流れている泉があり、少し大きめの家庭菜園ほどの畑もある。植物はいくつか育てられており、収穫間際であろうものもいくつか見受けられた。

 その横には円形に地面に埋められた木の棒があり、その中と周囲だけは雑草もなく綺麗な茶色の土が見えているだけだ。

 その真ん中にムトは立ち、俺を正面に立たせた。おおよそ相撲の最初に力士二人が向かい合う場所、つまり立会いを行う位置で俺と正面から向かい合っているような状況だ。

 少しドキドキする。全く本番とは違うものの、目の前にいるのは明石志賀之助の生まれ変わった姿で、ここはそんな男が作り上げた土俵なのだろう。

 少し遠くからニーナが見ている。

「よし、ヤマト、まずは腰を落としてみろ」

「はい!」

「良い掛け声だ」

 ムトは足を肩幅に開き、ゆっくりと腰を下ろしていく。体格からしてゆうに百五十キロを超えているようなその大きな体格にもかかわらず、安定した体制をキープしているのは練習と訓練の賜物なのだろう。

 俺も言われるがままに同じように腰を下ろしていった。が、膝に手をついてなおムトの半分ほどすら下がらなかった。この体、驚くほどに筋肉がないのだ。それでもと無理に腰を下ろそうとした俺は後に転びそうになり、気がついたムトが肩を抑えて俺を支えてくれた。

「よし。だいたいわかった。次はワシを突き飛ばしてみてくれ。ワシを突き出すように、全力でだ」

「はい!」

 俺を支えている手をムトは離すと、俺の前に座った。蹲踞の姿勢から、両膝を前に出したような座り方だ。押せばいくらでも後ろに倒せそうなほどバランスも悪ければ、ムト本人も自分の体重で少しふらついている。

 しかし背丈の差もあり、それでも俺の顔とムトの顔の位置が同じであった。

 そんなムトの前に立ち、俺は張り手を一つ、二つと打っていく。テレビで見たものを見よう見まねでやろうとしたのだが、思った以上に速度も出なければ力も込められなかった。それでいてふらついていたはずのムトであるのにもかかわらず一向に後ろに倒れる気配がない。

 自重で動くことはあれど、俺の突っ張り程度で動くような重心をしていないのだ。まるで大木に張り手をしているような、そんな気分にさせられた。

「うん、なるほどな」

 そんな俺とは別にムトは何かを掴んでいるようで、納得したような顔で立ち上がった。

「じゃあ、次は走るんだ。小屋の周りを五周してみろ」

「はい!」

 俺は言われるままに小屋の周囲をダッシュした。さっきからいいところが一つもないのだから、ここでくらいは良いところを見せて少しでも才能があるように見せたい。

 そうは思っているのだが、足が途中からだんだんと動かなくなっていく。元々走るという行為すら知らなかった。その上で、この体である。屋敷でも少しの移動で汗をぼたぼたと垂らしていたのだから、そりゃそうであろう。

 まずい。このままでは全くの才能なしだと思われてしまう。明日からの訓練がもし「お前は才能がないから来なくてもいいよ」なんて言われてしまった日には、俺はどう生きていけば良いのかわからなくなる。

 せめて走り切らないと。

「ゼェっ……ぐっぁ……」

 息も絶え絶え、最後はもうほとんど徒歩と言ったような速度で、しかし俺は走りきった。せめて、根性だけはあると思われたかった。ミーナが駆け寄ってきて、泉の水で冷やされたタオルを俺の額に押し当ててくれた。

「ふぅん、なるほどな」

 少し遠くから腕組みをしてみていたムトは、意味深な言葉を呟いていた。

「つ、次は……」

「いや、もういい。その状態で何かをさせるほどワシも酷じゃない。何より、もう結論は出た」

 ムトの無慈悲な宣告は、俺を絶望させるのにそこまでの時間を要さなかった。結論は出た。この体たらくで出てくる結論なんて一つしかない。

 無能、使えない、才能がない。頭の中でそんな言葉が流れていく。病室で見ていたテレビで、若い新弟子が叱責されているシーンで親方が言っていたセリフだ。彼はその後、心が折れて実家に帰ったと放送されていた。

 今の自分がまさしくそうだ。

 病気と言い訳できればどれほど良かったか、そんな普段では絶対思い浮かばないことまで思い浮かんでしまう。自分の理想が叶わなかった時の絶望はこんなにも残酷に心に棘として刺さってくるのかと息ができなくなってしまいそうだ。

 そんな俺に、ムトはゆっくりと近づいてくる。あぁ、やめろ。その口を開くな。事実を伝えるな。お前がすごかったのは日本での話だ。この世界ではお前はただの太った二足歩行の猫じゃないか。

 そんな俺の心情なんかは無視するようにムトがゆっくりと歩いてくる。

 そして、俺の頭をポンと撫でた。

「合格だ。ヤマト、お前は才能の塊だぞ」

 一瞬何が起きたかはわからなかった。世界が耳鳴りに支配されているような気分になる。聞こえるのは拍手の音。それはミーナが俺のことを祝福してくれている音で、これが現実であることを示していた。

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