9 弟子に、なりたいかー!
「まあ、大体の事情は察した。じゃあこっちで名乗った方が良いな。ワシの名前は
「え、あ、明石志賀之助ぇ!?」
怒ったような顔から柔和な笑顔に変わった明石が俺の大声で今度はギョッとしたように瞳孔を小さくした。表情がコロコロと変わる様子が本当に猫のようだ。
「うぉい、びっくりしたな。なんだ? ワシの名前知ってるのか?」
「あ、ごめんなさい。俺の知ってる初代横綱の名前と全く一緒だったもので、つい……」
「がはは! そうかそうか。知ってるのか。ヤマトがどんな年齢でどうやって死んだのかは定かじゃないが、その明石志賀之助だぞ。間違いない」
「いや、でも……明石志賀之助は存在しなかった説もあって……」
俺の戸惑いを察して、明石はまたも豪快に笑う。
「そりゃそうだろうなぁ。ワシは相撲以外一つも興味関心すらなかったから。手形を残した以外でワシ自身何かをした覚えもないしなぁ……」
手のひらを見つめる明石。テレビで手形は見たことがある。人は変わっているはずなのに、明石が見つめている手も同じような大きさだ。
「弟子も取ったが、あの時は他の力士どもと一緒に稽古をしただけで、ワシは何にもせずにただ相撲のことを考えておっただけだ。神事だなんだと言われとったが、ワシにとってはただの力比べだったから、それも書かれなかった要因なんだろうな。ま、お上さんからの嫌われもんってわけだ」
明石志賀之助。本当に実在した人物だったのか。さっきの一瞬で畏怖と敬いが同時に起こった理由がわかった。こんなにもすごい人物で、こんなにも憧れに一番近い人物で、こんなにも俺の夢が具現化した人物なのだ。そんな感情が出てこない方がおかしかったんだろう。
「それにしても、ワシの名前を知っとるなんて……ヤマトと言ったか。坊主はさては相撲経験者か何かか? それとも江戸の出身か?」
腕を組みながら嬉しそうに聞いてきた明石に、俺は全てのことを伝えた。身の上から、何から、全て。
それは多分、理解して欲しかったからだと思う。自分が憧れていた存在になぜ憧れていたかを説明する。相互理解ではなく自己の押し付け。自己紹介なんてしたことがなかった俺にとっての、唯一の表現方法だ。
ただ、俺のその説明が進めば進むほど、明石の顔からは笑みが消えていった。その代わりに、明石の顔は形容できるようなものではなく、不自然なほどに汗をかき始めたのだ。
「それで、最後は両親に……」
「あー! とまれとまれ。おおよその事情は分かった。ワシが悪かった」
少し湿ったからだで、明石は突然俺に抱擁を交わしてきた。正直キツい。二足歩行の猫の見た目でありながら体臭はほとんどなかったが、汗や全身に生えている柔らかい猫のような体毛がくすぐったいのだ。病室ではずっと触れたいと思っていた猫だが、これならば触れなくても良かったな。
「く、苦しいです明石さん……」
「あ、す、すまん……。まあどういうことかは大体察した。それにしても、何百年と未来の話か……ワシには理解が到底およばんが、お前も苦労していたんだな」
バッと明石は抱きしめていた腕を離して、一歩後ろに下がる。そのまま小屋の中に置かれていた椅子を自身の元に引き、座った。
「いや、気にしないでください。こんな体でも、前より何倍もマシなんで」
俺のその一言に明石はまた口を閉じてバツの悪そうな顔を浮かべ頬をかいた。
「それと、今度からはワシのことはムトと呼んでくれ。こっちではその名前で通ってるんだ」
「あ、ごめんなさい。ムトさん」
「いや、気にせんでいい。間違いも正して行くのが人間だからな。さて! 自己紹介はこれくらいで良いだろ。それにしても、偶然とはいえワシはお前を鍛えることになったわけだ。どれくらい厳しい修行を望んでるんだ?」
「厳しい……ですか?」
「ああ、もちろんワシとしては横綱を育てる! と……この世界には相撲はないが、それほどまで成長できるような人間を育てたい。だが、それについて来られる人間なんてこれまで一人も居なかったわけなんだなぁ、これが」
後頭部に手を当てて天井を眺めながらムトが言う。
ストイックな人だったんだろう。彼についていくということは、人生を相撲の奴隷として生きていくことと同義なのかもしれない。だからこそ、誰もついていけず、孤独に一人相撲を研究し続け、どんな資料にも残ることはなかったのかもしれない。
そんな人の考える訓練に俺は耐えることができるだろうか? もしできなくて、期待に添えなかったらどうなる? 確実に俺は好きだった物の祖とも呼べるような人を落胆させてしまう。そんなことホームズじゃなくとも理解できることだ。
「あの、とりあえずどんなことをするのかを教えてもらわないことには、はい今日から最上級の訓練をよろしくお願いします! とは言えないかもしれないです……」
「ん? ガハハ! それもそうか。なら今日はお試し期間だな。よし! 久しぶりの弟子との訓練だ。ワシも本気でやってやるぞ」
ムトの口角がニヤリと上がる。なんというか、この人のそれは手加減でも辛いものになるというような予測ができそうだ。
ムトは立ち上がり、たんすの中を漁り出した。遠目で見る限り、中には衣類が入っているのだろう。それを投げ捨てるように一つ一つ後ろに放りながら、中にある何かを探しているらしい。
「あれ、どこにやったかな……」
ムトは適当に投げて落ちてきたシャツを頭に引っ掛けながら、たんすの中を探し続けている。
そんな時、小屋の入り口がギィと音を立てて開いた。
「あーっ! また散らかしてる! ムトさん、これ以上散らかしたら……って、あれ? お客さん?」
扉の向こうに立っていたのは今の俺より少し年上くらいの見た目の赤い髪の毛の少女。ワンピースを着ており、活発な印象を受ける目元がムトに少し似ている。が、可愛らしいその姿は完全に人間のそれだ。
手にはバスケットを持っており、中には果物が盛られていた。
「あぁ、すまんミーナ。バスケットそこ置いといてくれ」
「はいはい。で、何探してるの?」
「いやぁ、弟子用のマワシをな。どこにやったかなぁと……」
「それならこの前の大掃除でもう多分使わないからって屋根裏に……もしかして!?」
ミーナと呼ばれた女の子は目をキラキラさせながら早足でこちらに近づいてきた。
「君、ムトさんの弟子になりたいの!?」
「あ、いえ、その……」
興奮したミーナの襟元を掴んで、ムトが持ち上げる。猫が人間を持つとなると、真逆の光景すぎて面白い。
「後で説明するから、先にマワシの場所教えろ」
「はぁ、しょうがないなぁ」
ムトとミーナはそう言いながら階段を上がっていく。
「そうだ、結構大変だから、期待しておくといいよ!」
二階に上がる直前、ミーナは満面の笑顔で俺に向かって言ってきた。嫌な予感などではない。ただただそれは宣告だった。
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