第一章 生きる術

8 けっこう毛だらけ、猫は意外だらけ

「この森の中に入れと……?」

 自問自答してもどうしようもないと、俺は鬱蒼と生い茂る草木に足を踏み入れた。嬉しいかな悲しいかな、足首まで隠れるズボンを靴の中に入れれば虫に刺されることはなかった。

 森の中は暗い。空を見ればまだ木漏れ日が入ってくるから良いものの、もっと奥に進めばさらに日の光が入ってこないことなんて容易に想像できる。

「この森、どこまで続いてるんだろ」

 封筒の中から続く光は、延々と森の奥を指している。段々と不安になってきた。もしかしたら、捨てられたのではないだろうかとさえ思えてくる一人の孤独感だ。しかし、侯爵の家がそんなことをするだろうか? 偉い人の行動なんて予測はできないが、体裁というものもあるのではないだろうか。

 そんなことを考えて自分がまだ助かるという考えになんとか持っていく。足元がぬかるんでいないことだけが唯一の救いではあったが、それでも太い足では簡単に踏み進めることができなかった。

 ゆっくりと進み、息を整え、また進む。歩けることの嬉しさはだんだんとなくなっていって、疲労の方が勝ち始めてきた。

「辛い……」

 額からポタポタと汗がこぼれ落ちる。疲れて視線を落としても自分の腹で足元が見えないせいか、時折石に蹴躓いては転びそうになった。

 靴が、ズボンが、シャツが汚れていく。

 そんな時、ガサガサ、という草が揺れる音がした。

「何っ!? 何っ!?」

 慌てて俺は周囲を確認するが、すでに森の少し深い所に入っているせいかあまり遠くを確認することができない。ただでさえ森なんてない国に生きていたのに、さらに病弱でまともに外を出歩いたこともない俺にとってその音が何を意味するのかわからないのだ。

 段々と渦巻いてきた不安がこのガサガサという音で一気にピークまで引き上げられる。唇は震え、その場から足を動かしたくても動かせない。

 一歩、また一歩と後退しようとして、足がもつれる。そのまま俺はどすんと地面に尻餅をついてしまった。

「な、こ、来ないで……」

 何かもわからない茂みの中にかき消えそうな声でそう呟く。が、逆効果だったようだ。

 その声を聞きつけたのだろう。草をかき分けるような音が突然荒々しくなり、こちらに近寄ってくる。その速度は明らかに人間のそれではない。何かが猛ダッシュで突進してくる音。

 動けない。怖い。……死ぬ? 死にたくない。死にたくない!

「ぶるぴぎゅーーーっ!!」

 段々と近づいてきたそれは、俺を視認したのか大きな鳴き声を上げた。豚に近い鳴き声だけれど、豚の鳴き声はこんなに荒々しいものなのだろうか? いつかみたテレビではもっとおとなしく、今の俺みたいに鼻をフゴフゴと鳴らしていただけのように思えたのだけれど……。

 なんて思っているうちに、足音が近くまでくる。そして見えたのは、血走った目をした豚……ではなく、猪のような見た目の動物。違うところといえばやたらと牙が発達しているところだろうか。

 先端が尖っているわけではないけれど、あの速度であればぶつかるだけで突き刺さってしまうことは間違いない。

 が、俺の足は動かなかった。極度の恐怖と疲労で、どうしても動いてくれなかった。

「動いて……!」

 目の前に猪の怪物が迫る。あぁ、また死んでしまう。そう思って俺が目をぎゅっと強く閉じたその瞬間だった。

「晩飯ゲットじゃい!!」

 草を踏み荒らすなんて優しい表現ではない。木々を無視して一直線に突っ切ってくるような音が森の中に聞こえてくる。

 そしてそのまま声の主は猪に突撃した。突然の横槍に猪は対処することができず、吹っ飛んで木に背中を打ち付け、気絶する。

「っしゃあ! 肉ゲットォ……ん? なんだぁ? 誰が居るんだ?」

 声の主はやっと俺に気がついたようで、足を持って持ち上げられている猪の首にナイフを突き刺した後こちらを見た。

「あ、あの……」

 ゆっくりと歩いてくる。ゆっくり、こちらに。段々とシルエットが明るく見え、その大きく、それでいて脂肪も筋肉もついた体が見えてくる。男だ。ざんばらに切った髪の毛とそれをまとめるように額に巻かれたバンダナが見える。

 鮮血に塗れているその見た目は何よりも大きい背丈と相まって威圧感が凄まじい。その大きさや、多分今の俺を縦に並べたら二人分はあると思うほどだ。

 それに……なんだろう、頭頂部に二つの尖った何かがついているし、全体的になんというか、もふもふしている気がする。一番近い表現は二足歩行の猫……?

 ただ、シルエットは人型だ。

 そんな男が猪を担ぎながらこちらにのっしのっしと歩いてきた。

 段々とはっきりと見えてきた。羽織をはおってふんどし一丁の男だ。しかしその顔は荒々しい野良猫のような顔つきをしている。全体的に真っ黒な毛色で、薄暗い森の中で黄色く光っている瞳孔が獣のように尖った視線を向けてきている。

「ガキかぁ? 迷ったにしては深く入り込みすぎだな。ほら、帰り道まで送ってやるよ」

「あ、その……」

 畏怖。そして感じたことのない、なぜ感じるのかもわからない敬いの感情。その感情の洪水に俺は耐えきれずに、ゆっくりと力が抜け、視界がブラックアウトしていった。


・・・


 うっすらと意識が戻ってくる。それと同時に視界に木の梁が見えた。ここはどこだろうか……。多分俺はベッドで眠っているのだろう。が、ここは病室でもなければさっきまでいた屋敷でもない。

「お、起きたか」

「うわあっ!?」

 突然覗き込んできたのはさっきの猫の男だった。驚いて俺は後ろに下がるが、あいにくベッドが壁際だったためかそこまで逃げることはできなかった。

「おいおい、助けてやったのにその仕打ちはねぇだろうが」

 腰に手を当て、口に枝を噛みながら呆れた顔で男は言う。

「あ、ごめんなさい……」

「いや、いいさ。ワシの見た目が悪いのは重々承知してるからな。それに、お前さんは迷ってたんじゃなくて“コレ”が目的なんだろう?」

 男の手元には俺がさっきまで持っていた封筒。すでに光は無くなっている。

「いやぁ、新弟子なんて何十年ぶりだろうな! 腕がなるぜ」

「あ、あの! どういうコトですか……?」

 寝起きの頭で全く状況が理解できていない俺が問うと、男はきょとんとした顔をした。

「何って、バインハルト様のゴシソクサマ、だろ? おめぇは。で、ワシを師匠にしてお前を鍛える、それだけの話」

 自分の顔と俺の顔を交互に指差しながら男が当然のように言う。あぁ、そういえばそんな話だったっけ。

「というわけだ! ワシの名前はムト。お前は?」

「あ、えっと、ヤマトです。あ、でもこっちの名前では違ってて……」

「いや、ヤマトでいい。なるほどそういうことか。あの侯爵、またやりやがって」

 ムトがギリ……と歯軋りをする。その顔には少し怒りを見せていた。

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