第17話 お仕事は逃避行から
翌朝、私は再び白蓮様に叩き起こされた。相変わらず急き立てられるように着替えと朝餉を済ませると、白蓮様の背中を追って執務室を飛び出す。時計など存在しない世界にも関わらず今日も予定は分刻みだ。
えへへ、でも全然平気だもんね〜。書類を抱えて小走りで白蓮様の背中を追いかけながら、私は一人でにやにやする。
昨夜、半年ぶりに心ゆくまでお風呂に浸かったおかげで、今日は心も体もすっかりすっきりリセットされている。そのうえ白蓮様の謎のこだわりによって丁寧に手入れされた髪は、つやつやのうるるんだ。さらさら過ぎて今朝は結ぶのに難儀したほどだ。
ヘアゴムなんて便利なものはないから細い糸や紐で編んだ結い紐を使うのだが、伸縮性のない紐で結ぶのにはコツがいる。さらさらだと余計だ。もたもたしているうちに痺れを切らせた白蓮様がやってきて、嵐のような手際で髪を結われた。ご自分が長いから熟練の手際だった。白蓮様が自分の結い紐を使ったから私の髪には長すぎて端が余ったが、彼はそれすらも見事な飾り結びにしてまとめた。指先で触れ出来栄えに唖然とする。前髪もいつものような感じにはならず途中で諦めた。そのせいか白蓮様にやたらじろじろ見られたような気がするが、でも気にしない!
そう、とにかく今朝は、体も、お肌も、気分も、最高にスッキリしていて爽快なのだ。細かいことは気にしない! どんな仕事もどんとこいである。よおし、今日も一日お仕事がんばるぞ! おー!!
と、雄叫びを上げてから早一日。再び十の刻。日本時間で言うと夜の十一時頃。
「だ、駄目だ……全然終わらない……」
押し潰された蛙のような声をあげて、私は白蓮様の執務室にある応接セットの卓に倒れこんだ。私の横には新しい書類の山が三つ、盛大な雪崩起こしている。夕刻、外出前に白蓮様に頼まれた仕事だった。以来、脇目も振らずに取組んでいるが全く終わらない。終わらないどころか終わりそうな気配もしない。当の白蓮様はというと今夜は所用で城外に外出しており、明日の朝まで戻ってこない。
確かに今朝の私は昨夜の温泉のお陰で万全のコンディションだった。しかし午後に長時間の会議があり、私の精気は予想外に吸い取られた。想定外というやつである。筆書きの議事録が三十枚って、どんだけ長い会議なのよ! ううぅ……もう、お風呂に入りたい……!
二の刻に起きてからノンストップで十の刻。いくら体は十代でもさすがにしんどい。私は卓に突っ伏したまま、雪崩を起こした書類の山を見る。……でも、もう少しだけ頑張るか。
軽く頬を叩いて気合を入れた。仕事を頼まれると言うのは信頼されているということだ。終わらないにしても、せめて目処ぐらい立てて返さなければ申し訳がたたない。私の性分的に中途半端はとても気になるというのもある。そしてもう少しだけ頑張って、そして心置きなく今夜もお風呂に入るのだ。その方がお風呂を十倍満喫できる。
でへへへ、今夜は白蓮様も不在だしとにかくゆっくり浸かりまくるぞぅ!
下心丸出しの私は、再び机に向かった。
そうして気合を入れ直しもう一集中する。
なんとか十一の刻まで粘ったのだけれど、そこが今日の私の限界だった。
伸びをして気を抜いたほんの一瞬、長椅子の枕に寄りかかったわずかの隙に、私は眠ってしまったのである。
ああ、お風呂入りたかった……。
「──と、──だから」
「──ではなかったのか?」
深い眠りの底に沈んでいると、どこからともなく話し声が聞こえてきた。
誰かと誰かがひそひそ声で囁きあっている。
「おかしいですね、彼は──」
「──だろう」
ああ、この高すぎず低すぎずよく響く声は白蓮様だろう。
もう一人いるみたいだけど、誰かは分からない。はじめて聞く声だ。
……ぁあ、あれ……白蓮様の、声?
そうか、もう城外から戻ってきたのか──。
「──ので、僕が手配したのは甥なんです」
「では別人だと?」
「はい、全くの。でも一体どうしてそんなことに……」
「さてな」
「それよりも、甥が大変なご迷惑をおかけいたしました。まさかこんなにすぐに音をあげるなんて。僕の教育不足です」
「構わぬ。代わりがいたので特に問題ない」
「問題ない? 白蓮様がそんな風におっしゃるなんて。その子、よほど優秀な子だったんですね。じゃあ、なおさら誰か調べないと」
衣擦れの音と足音。
なんとなく瞼が暗くなる気配。
それで、もう周囲が明るい時刻になっていたのだとわかる。
あぁ……目を開けなきゃ。
でも無理。瞼が重くて開かないよ……。
「おや? 結構可愛い子じゃないですか。黒髪かぁ、真っ黒というのは珍しいですよね。瞳は何色でした?」
「同じ、黒色だ」
「髪も目も黒いんですか? だとしたら東方の出身かもしれませんね」
「さてな。だが名は分かっている、澪と──」
がばりっ、と私は飛び起きた。
目を見開くと長椅子の両側から覗きこむ二つの人影。
逆光で顔はよく分からない。それぞれ腕を組み長椅子で眠る私を覗き込んでいる。
「あ、起きちゃった」
しぱしぱと眠い目を擦って瞬きすると、深緑の髪に童顔丸眼鏡、ひょろりとした長身の見知らぬ男性が呟いた。
あぁ、バレちゃったんだ私……。
頭が真っ白になる。
側から見たら、文字通り顔面蒼白だっただろう。
起きあがったものの、座ったまま呆然として声もでない。
「ねえ、君は一体──」
「ご、ご、ご……ごめんなさい!!!」
私は叫ぶようにいうと執務室を飛びだした。
その勢いのまま階段を駆けおりて外にでる。
中庭を走り抜けて
さすがに三日も白蓮様の後をついて回っていれば私も顔パスだ。
足をとめずに黙礼して早足で警備兵の脇を擦り抜ける。
走りながらできるだけ人通りの少ない経路を探した。
途中で涙が流れてきたからだ。
涙は次々と頬を伝い、ぽたりぽたりと顎から滴り落ちる。
俯いて袖でさり気なく隠しながら、私は足を止めずに進み続けた。
勘違いしちゃダメよ、私。
私は自分で自分を叱責する。
白蓮様に色々頼まれて、いい気になって仕事をしていたけれど所詮は人違い。私は下女なんだから。遅かれ早かれいつかは白蓮様も勘違いに気がついて、元の仕事に戻ることになったのだ。むしろ三日も気づかれなかったことの方が驚きなのだ。
白蓮様って色々細かいのに、そういうところちょっと詰めが甘いんだよね……。
それに資料の整理方法とか、身嗜みとか、謎のこだわりがありまくりだ。
私は一人で小さく笑う。仕方ない。仕事は充実していて、寝台は快適で、お風呂にも入り放題なものだから、もしもこの生活が続いたら……なんて、身の程知らずで非現実的な欲を抱いてしまった自分が悪いのだ。
やっぱり、どこかでは元の生活に戻らないと。
これがこの世界での私の現実だ。
でも前向きに考えたら、私の仕事のスキルがこの世界でもある程度通用するって分かったわけだし、いい実験になったともいえる。
そうだ、やっぱり……。
やっぱり私、仕事を変えよう!
私は涙を拭いて顔を上げた。
もっと読み書き算盤の活かせる、自分に向いた仕事を探すのだ。
そして今回のような泡沫の夢ではなく、もっとちゃんと地に足が着いて長く続けられる仕事を手に入れるのだ。
目指せ、安心安全の老後生活!!
大丈夫、この世界ではまだ若いんだし、体力だけはあり余っている。コツコツ努力すればちゃんと一から自分で作り上げられるはずだ。
……まあ意気込まずとも、三日も下女の仕事をサボってしまったのだ。クビにならないはずはないけどね。とほほ……。
私は一人で百面相をしながら早足で進む。前宮を出て、さらに王城の周囲を囲む城壁に沿ってぐるりと奥に進む。しばらくすると茂みの奥に、王城の最果て、下女寮が見えてきた。問題はこの後のことだった。
三日間も下女の仕事を無断欠勤したのだ。解雇は当然として、そのうえでさらに懲罰を受けることになるかもしれないのだ。私の足取りは下女寮に近づくほど重くなった。
それでも王城から城外に出るために、そして
「はぁ……」
思わず溜息がこぼれる。下女頭の早は良くも悪くも至って典型的な小役人的人物だ。今自分が申しでれば、あの耳が痛くなるようなきーきー声でくどくどと、いつ終わるともしれない小言を言われることになるだろう。その後どうなるのかはわからない。でたとこ勝負だ。私、事前に心の準備が出来ない会議って、本当に苦手なんだけどな……。
正直な気持ちをいえば、このまま失踪したことにでもして、誰にも気付かれないうちに退城してしまいたかった。しかし転生者でこの世界に全く身寄りのない私は、無一文で城から放りだされるわけにはいかないのだ。出納局預かり、すなわち貯金しておいた給与を引きださなければ、今夜泊まるところも食事も手に入れられない。
それに城からでるためには、退城するための通行証が必要だ。王城では入城と退城は同じように厳しく管理されている。そのため直近の入場記録がない者は、その都度発行される通行証を持っていないと城外にでられないのだ。
そして何より心配なのは雪のことだった。持ち場を交代したまま三日も所在不明なってしまい、一体雪にどんな迷惑をかけてしまったかわからない。何があってもとにかく一度は直接会って、そして彼女に謝らなければならない。
「はあああぁ……」
私は再び溜息をつく。苦しい展開になるとわかりつつも、避けられないこのやるせなさ。覚悟は決めたはずなのに、それでもなかなか一歩が踏み出せず、私は下女寮の近くの茂みの陰をうろうろと歩き回った。
その時、背後でがさりと枝をかき分ける音がする。
驚いて振り返ると、そこにいたのは
海は私がこの国に転生し、森で意識失って倒れていたところを最初に助け、下女の仕事を世話してくれた恩人である。ここ数ヶ月は会っていなかったが、働きはじめてからもしばらくは時々様子を見にきてくれていた。
「──澪?」
「海様……」
私はその場にへたり込んだ。
引っ込んでいたはずの涙が溢れてくる。
こんな、涙を武器にするようなことしたくない。
だけど……ダメだ……。もう、全然止められない……。
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