第16話 お仕事は身繕いから
いやだって、そりゃ驚きますよね? 入浴中に突然扉が開けられたら、相手が誰だってびっくりする。それが白蓮様ならなおさらだ。
「ああ、無事ならば構わぬ。あまりにも風呂から戻らぬので心配になっただけだ。次は呼んだら必ず返事をしなさい」
「す、すみません。その……久々に湯船に浸かれたので嬉しくてつい長風呂を……。お声がけに気づかなくて申し訳ありませんでした」
私は湯船の縁に掴まって半分だけ顔をのぞかせ、ぶくぶくと泡をたてながら白蓮様に謝る。お風呂に入っていたのだから当然ながら私はすっぽんぽんだ。せめてもの救いはお湯が乳白色だったことと、湯殿はかなりの湯気が充満していることだろうか。湯船に飛び込むのがぎりぎり間に合ったと信じたい。
「久々の入浴か……」
呟く白蓮様は動揺しまくりの私とは対照的に全く平素と変わりない。ふぅと息を吐くと長い髪をかきあげて、開けた戸の向こう側に戻ってゆく。といっても湯気に包まれているから、ぼんやり動く影を見てそう判断しただけなのだが。
まあ、裸を見たところで私のような子供じゃぁね。医薬院長である白蓮様自身もお医者様なのだ。だとすれば男女問わず人の裸など見慣れているはずだ。私は真っ赤になってしまった顔を両手で扇ぎつつ、立ち上がろうとして再び腰を浮かせた。すると今度は突然湯殿の扉が開いたかと思ったら、頭上にばさばさと何かが降ってくる。そして降ってきたものごと頭を掴まれてがしがしと勢いよくかき混ぜられる。
「ひ、ひええ! や、やめ、やめれくらさい〜!」
慌てて手を伸ばすが、長い指はがっしりと頭皮に絡みついて離れない。
「はぁ、其方はなぜこんな遅い時間に髪を洗ったのだ? いくら春とはいえ夜は冷える、風邪を引くだろう」
「うぅぅ、す、すみません。湯殿を見たら、どうしても髪を洗いたくて、洗いたくて、もう我慢できなくて……」
私は頭を振り回されつつ必死で謝る。白蓮様には振り回されてばかりだし、謝ってばかりだ。
て、あれ……。これって私、怒られてるんじゃなくて……、もしかして髪を拭かれてるのか?
は、え……なぜ……?
「それにいくらなんでも風呂が長すぎる。逆上せるぞ、いい加減にでなさい」
「は、はい……」
白蓮様が入ってきたのででられなくなったんですが、という言葉を必死で飲み込んで私は頷く。一通り私の頭をがしがしすると気が済んだのか、白蓮様は入ってきた時と同じ唐突さで湯殿をでていった。
「着替えたら私の部屋に来なさい」
私はしばし茫然としたまま湯船に浸かる。
そして急に正気に返った。
しかし正気に返ってもわけが分からない。
風呂に入っていたら白蓮様が突撃してきて、小言を言われ、頭をがしがしされ、髪を拭かれ、部屋に来るよう指示をされ──。
それどころか、そもそも下女なのに侍従の真似事をさせられ、すでに丸二日も下女の仕事をサボり、しかもその間誰にも怪しまれず、服まで借りて長風呂を満喫──。
うん、これはもういいや。
悶々と考えたところでどうにもならない。
そもそもある日突然、全く別の世界に転生したということ自体がすでに常軌を逸しているのだ。いまさら、ちょっと考えたところでわけのわかるはずがない。持ってきた着替えも、すっかり寝るつもりだったから寝間着である。本来なら院長の前に寝巻き姿で現れるなど言語道断の失礼な所業に違いない、がしかたない。
そもそもこうなったのは、もとをただせば白蓮様の勘違いが原因だ。それに深夜の風呂上がりに私室に呼びつけられるって、一体どんなシチュエーションだと理解すれば正しいのか!!
私は一人心中でキレる。自分とて、前の世界では人並みに恋愛のすったもんだ、その他色々を経験した三十五歳の女である。いまさら乙女ぶるつもりもない。ましてや別の世界。風習だってなんだって全然違う。
だからこの呼び出しを、前の世界の自分の基準と常識で判断することはできないと、それは十分に理解している。理解しているんだけど、それでもなんだかもやもやするのはとめられない。止められないんだけど……、うん、仕方ない。もう色々考えるのはやめだ!
すっかり色々考えること諦めた私は無我の境地で着替えを済ませると、その境地のまま白蓮様の私室の扉をノックした。
「入れ」
「し、失礼します……」
私はそっと白蓮様の私室の扉を開けて覗き込む。中はかなり広い部屋だった。所々本や資料が積まれているが、思っていたよりもずっと綺麗に整理されている。執務室と私室は別物らしい。手前には執務室に置かれているのよりも、さらに上等そうな応接セットが置かれていた。奥の方は衝立で仕切られて見えないが、そちらには寝台が置かれているのだろう。
「そこに座っていなさい」
その衝立の向こうから白蓮様が返事をする。仕方なく私は応接セットの手前に置かれていた長椅子の端に腰かけた。物珍しくてきょろきょろと見回していると、またばさりと頭上に何かが降ってくる。そしてどさり、と長椅子の隣に人の座る気配。再び頭をがしがし振り回される。どうやら白蓮様は、先程の頭がしがしでは全く満足できていなかったらしい。
「其方は夜中に髪を洗っておきながら、なぜちゃんと拭かないのだ。風邪を引くといったろう。ほら、下を向いていなさい」
「は、はぁ……」
ひたすら頭をぐりぐりである。こ、これは何かの罰なのか……。ううぅ、きっと白蓮様なりの親切なのだと信じたい……。白蓮様は一通り私の頭をがしがしすると、私を下に向かせたまま、色々なものを私の髪に塗りはじめた。無だ、無我の境地だ私!
何を色々塗られているかというと、塗っているのは香油である。髪に香油、つまりは文字だけを見て客観的に考えれば、私は白蓮様に湯上がりの髪を手入れされているということになる。このシチュエーションについて深く考えさえしなければ、途端にここは極楽といってもいい状況になる。
あたり一面には上等な香油のえもいわれぬいい香りが漂い、心ゆくまで長風呂した後に、丁寧に髪を梳かれて手入れされているのだ。これを極楽といわずしてなんといおう。そうしているのが白蓮様でなければ、だが。
白蓮様は慣れた手つきで香油を髪に塗り込むと櫛で梳いて整える。白蓮様の銀髪を考えれば手慣れているのも頷ける。ようやく満足したのか、私の頭にすっぽりと乾いた大きな布をかけて席を離れた。そしてまたすぐに戻ってくる。すっぽり包まれると暖かくていい気持ちだ。忘れていた眠気が顔をだしはじめる。
「手を出しなさい」
「ほぇ?」
「何だこの爪は! これでは其方の爪が気になって眠れぬ」
訳のわからないことで白蓮様が怒る。
「ま、待ってください白蓮様! さすがにそれは……。道具を貸していただければ、自分でできますから」
白蓮様は今度は私の爪を整えようとしている。
「つべこべ言わずに手を出せ。何時だと思っている」
ううぅ、それは私の台詞です!! しかしここでの私は侍従同然。主に対する侍従の抵抗などなきにも等しい儚いものだ。私はすぐに折れ、仕方なく両手を差しだした。隣に座った白蓮様は足を組んだ膝の上に私の手を置くと、私の爪を整えはじめる。
確かにこの世界に来てから爪など落ちついて整える暇もなかった。だから単純に綺麗にできるのは嬉しいのだ。でもなんだ、このシチュエーション!!
そして仕方なく白蓮様のされるがままになりながら、私はだんだん睡魔に抗えなくなった。白蓮様の目的が何となくわかったことで、謎の緊張感が少々緩まったのもあるし、頭からすっぽり包まれてほんわか暖かいのもある。そして単純に早朝からの労働で疲れきっていたのもある。一通り私の爪を整え終わると、白蓮様はようやく満足したらしい。
「うむ、これで良い」
と、とても満足そうに頷いた。ようやく解放された私は侍従の部屋に戻ると寝台に倒れ込む。
訳が分からない。だけど分かったこともある。それは衣装の件から考えても、今の髪や爪の手入れから考えても、白蓮様が身なりに相当なこだわりを持っているということだ。上司の趣味趣向の把握は重要だ。しかし今はどうでもいい。なんせ白蓮様と私はかりそめの関係。明日には離れ離れとなる身の上なのだから……。
考えるとちょっと、というかかなり寂しい。
明日からはお顔どころか、後ろ姿も見かけない関係だ。
……て、あれ?そういえば私、ずっとバタバタしていて、白蓮様のお顔、ちゃんと見たことなかったかも……。でも、まあ、いっか。
ああぁ、それにしてもあのお風呂は最高だった。
この世界に来て、一番の幸せかも。
今日はつべこべ考えずに、この幸せのまま眠ろう。
考える途中で、私は眠りの中に落ちていた。
夢も見ないとても深い眠りである。
そして案の定、翌朝も私は白蓮様に叩き起こされた。
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