第15話 お仕事は長風呂から

「むにゃむにゃ……ラーメン食べたい……」


 ──え……ラーメン?

 私は自分の寝言で目が覚めた。飛び起きると、ちょうど二の刻の鐘が鳴り終わるところだった。しまった、と思った途端に全身に冷や汗が吹き出す。半年間の厳しい下女生活で、早寝早起きのリズムは完全に身についたと思っていたが、どうやら甘かったらしい。遅刻というのはそうやって油断したころに限ってするものなのだ。私が冷や汗をかきながら、ありとあらゆる言い訳を考えていると、扉が鋭く二回ノックされた。


「澪、起きろ! 支度が間に合わないぞ」

「は、はい!! って……え? は、白蓮様……?」


 私は素っ頓狂な声をあげた。


「急げ。今日は藤色の衣装を着るように」

「は、はぁ……はあ?」


 そのまま寝台の上で固まること数十秒。私は文字通り寝台から飛び降りると慌てて室内を見回した。いつもの狭苦しい下女寮の部屋じゃない。ここは……白蓮様の執務室にある側仕えの部屋? 私は混乱しながらも必死で昨夜の記憶を手繰り寄せる。ええっと、確か昨日は──。

 確か執務室に残って頼まれた仕事をして。そしたら途中でどうしても白蓮様の執務室の混乱ぶりが気になって。だからその後片付けて……。それから、ううんと……ええっと……、なんか疲れてちょっと休もうかと思って床に座り込んだような。それから……えっと。あれ? 記憶が……ない。

 気がついたら今さっき、寝台で寝ていて白蓮様に起こされたのだ。てことは私、そこで寝落ちしちゃったかな? えっと、でも待って。床で寝落ちしていた私がなんで寝台に? どうやって移動した、私? 一人で腕を組み首を捻る。ま、まさか……。


 残された可能性に思い至り頭から血の気が引いた。ひええっーー! 私、白蓮様にここまで運んでもらったんだった!! そして今度は別の冷や汗が吹きだす。青くなったり赤くなったりしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。


「何をしている、早くしなさい!」

「は、はひっ!」


 再び、白蓮様の鋭いノック。

 ううぅ……、ええいっ、仕方ない!! 私は急いで着替えて身支度を済ませると部屋を飛びだした。藤色の衣装を指定された疑問は、白蓮様の後ろ姿を見て氷解する。今日の白蓮様の衣装が藤色をポイントカラーに使ったデザインだったのだ。うーん、なるほどなるほど。白蓮様って細部にこだわるタイプなのね。と、どうでもいいことを考えて現実逃避しながら私は朝の礼をする。

 この国では官吏の衣装に色やデザインの制限は特にない。己の立場と出仕に相応しい衣装をそれぞれが考える。だから侍従の衣装の色やデザインを自分と合わせているのは、単なる白蓮の趣味趣向以外のなにものでもない。

 顔を上げようとすると、白蓮様に何かを口の中に押し込まれた。突然のことに驚いて反射的に目を瞑る。息苦しくてもぐもぐと口を動かすと広がる塩味。あ、あれ? これってもしかして……おにぎり?


「時間が無いから、食べながら聞きなさい」


 私のためにわざわざ用意してくれた……とか、まさかね。色々疑問に思いつつも、昨日からほとんど絶食の私は食欲に抗うすべをしらない。行動が睡眠と食欲に支配されているなんてあまりにも原始的で恥ずかしが、背に腹は変えられない。今日だってこの機会を逃したら次にいつ食事にありつけるかは分からないのだ。私は必死に口を動かす。


「今日は少々慌ただしい。昼餉の時間は無いだろう」


 昨日も十分慌ただしいと思ったんですけれど、今日はそれ以上ってことですね。はい、了解です。私は急いで口に押しこまれた分のおにぎりを飲み込むと、近くの卓に置かれてた二つも貪る。残りの二つは白蓮様の胃に消えた。

 まあ、今日の予定がヤバイことは白蓮様にいわれる前からわかっていたけどね。私はおにぎりの最後の一欠片を噛み締めてぐっと飲みこむ。昨夜片付けをした際に今日の予定についてはすでに確認済みなのだ。


「今日の予定は──」


 一から説明しようとする白蓮様を私は遮る。寝坊しておきならがなんだが、この状況で重複する説明は時間の無駄だ。


「あの、予定表に記載されていた分の内容については、すでに昨夜確認いたしました。もしよろしければ変更点をお教えください。あと本日の打ち合わせに必要な参考資料も、おおよそはまとめてあります」


 私は執務机の一角に選り分けた資料の山を指差す。


「ふむ」


 白蓮様は手早く私がまとめた資料を確認しつつ、二、三の予定の変更について説明してくれる。私は頷きながら背中越しにこっそりと白蓮様の様子を伺った。変わらぬ輝きを放つ銀の髪に、伸びた背筋、広い背中、要点だけの会話。昨日と変わらぬ白蓮様だ。私は一瞬躊躇したあと、恐るおそる白蓮様の背中に声をかける。


「白蓮様、その……、昨夜は、大変失礼をいたしました」


 私は深々と頭を下げた。


「ん? ああ、以降は気をつけるように。健康の面から考えても床に寝るのはよろしくない。医者の不養生になっては示しがつかぬ」

「はい……」

「これを持て」


 白蓮様は肩越しに参考資料一式と筆セットを私に放る。昨日よりもズシリと重い。視線を上げると白蓮様の左手にも同量の資料が抱えられている。資料の多さからだけでも今日の予定のヤバさが伝わってくる。私は呼吸を整えて気合を入れ直した。


「さて、今朝は宮内院くないいん祭礼局さいれいきょくとの打合せからだ。行くぞ」

「かしこまりした!」


 私は白蓮様の背中を追いかけて、勢いよく執務室の扉を飛び出した。


 ……って、おい! 待て待て待て、自分ーーー!! すっかり勘違いしちゃってるけど、私、本当は下女だからね!!! 「会議に行くぞ」とか言われて、嬉しそうに「はいっ!」とか答えている場合じゃない。

 私は足を止める。言わなきゃ。いい加減、ちゃんと説明しなきゃ。本当のこと。だって遅かれ早かれいずれは気づかれる。できればその前に、どんなに怒られたって、ちゃんと自分の言葉で説明したい。今なら邪魔する人もいないし、白蓮様を呼び止められる。私は勢いよく息を吸った。ちゃんと呼び止められるような、大きな声をだすために。


 ……だけど、声がでなかった。だせなかった。もう少しだけ。あとちょっとだけでいいから、このまま仕事を続けたい。私の中で未練と欲望が急速に膨らんで、喉元まで迫り上がり、呼びかけようとする声に蓋をする。

 前の世界では毎日毎日あんなに週末を楽しみにしていたのに。それなのに今は、少しでも長くこの仕事を続けていたいと願っている。白蓮様がもう半日、あと一日、私の正体に気がつかなければいいと祈っている自分がいる。

 やっている内容に変わりはない。資料をまとめて、会議に参加して、いろいろ対策を考えて、前の世界でサラリーマンだったころとの違いといえば固有名詞くらいだ。

 私があの会社でサラリーマンになったのも条件重視で偶然だし、特にその業界に思い入れがあったわけでも、好きな部署だったわけでなんでもない。ただ生きるため、生活するために、日々淡々と仕事をこなして、特に自分に向いていると思ったこともなかった。

 でも意外と、蓄積されるものはあったのかもね。十三年の間に、自分でも気づかぬ思い入れができていたのか……。そんな自分の変化に戸惑っている間に、白蓮様はさっさと階段を降りて外にでる。


「何をしている、置いていくぞ!」


 鋭い声が踊り場に響き渡る。


「す、すみません!」


 私は反射的に返事をして、階段を駆け下りた。

 あ、追いかけちゃったよ、私……。

 うん、でもしかたないか。

 後でしっかり怒られよう。

 とにかく今は、今だけは、後もう少しだけ、この仕事を続けていたい。その気持ちを止めることができないのだからしかたない。

 私は晴天の眩しさに目を細めながら、懸命に白蓮様の背中を追いかけた。

 


 そして今、もうすぐ十の刻という時間。前の世界でいうと夜の十一時頃。つい先ほどまで執務室で白蓮様の仕事を手伝っていた私は、急な来客があるとかで白蓮様に奥にある側仕えの部屋へと押し込まれた。その上、よほど内密の話し合いなのか、白蓮様は執務室へ通じる扉に外から鍵をかけてしまった。こうなるともう私にはここからでる術がない。今夜もここで夜を明かすことは決定だ。

 さすがにこの扱いは白蓮様も可哀想だと思ったのだろう。その代わりと言っては何だがと、白蓮様は私室域の奥にある湯殿を自由に使っていいという許可をくれた。それ以来、私の頭の中は『お風呂』の三文字で埋め尽くされている。


 執務室から閉め出された私は、急いで着替えを手に取るといそいそと湯殿に向かった。半信半疑で廊下の一番奥の扉の中を覗くと、驚いたことに小さいが確かに専用の湯殿があった。

 ほんのわずかに鉱物臭のする淡い乳白色の湯が、小さな蛙の口からちょろちょろと流れでて、木製の湯船には並々と湯が溜められている。方法は分からないが、地下から汲み上げた温泉を二階まで引いているらしい。こちらの世界では贅沢品の石鹸や香油なども全てそろっている。専用の湯殿!? な、なんて贅沢な……。


 感動のあまり、私の瞳の中をお星様が舞い踊った。何を隠そう私は大のつくお風呂好きだ。前の世界ではどんなに帰りが遅くなっても、毎日一時間以上湯船には浸からないと調子がでない。

 しかしこの世界でのお風呂は超のつく贅沢品。水道や給湯器がないこの世界で、前の世界で考えるようなお風呂に入ろうと思ったら、恐ろしく時間と手間とお金がかかるからだ。この世界でそんな手間暇かけて頻繁にお風呂に入れるのはお姫様くらいだ。そのお姫様でも二、三日に一回がいいところだろう。

 当然、庶民の間では湯船に浸かることはもちろん、入浴という習慣自体がないこともある。体を拭くのも二、三日に一度、中にはそれも滅多にしないという強者もいる。 


 私が白蓮様に近づくといい匂いがするのに感動していたのはそういうことだ。入浴習慣の違いから、改めて殿上人との差を思いしったのである。そして泣けるほど入浴生活が羨ましかった。

 それでも下女は王城の勤め人として最低限の身なりは必要とされるので、共同の風呂場が与えられているからまだかなり恵まれた方だった。毎日は無理でも、頑張れば二、三日に一度は短時間でも風呂場で体が洗える。それはこの下女生活での唯一といっていい私の楽しみだった。

 しかし今目の前に広がるのは、夢にまで見た日本様式のお風呂。湯船には綺麗な湯が並々はられており、石鹸も常備! そしてなんといっても一人用!! 時間制限なし!! ひゃっほーい!!! 白蓮様万歳!!! 私は服を脱ぎ捨てると湯船に飛び込む、のを我慢して体を洗った。


 あー、あー、あー! もう、あーしか出てこない!!

 たっぷりの石鹸で髪を洗える幸せ。

 本当に涙が出てきた。

 仕事、頑張ってよかった……。

 今朝、諦めなくてよかった……。

 もう、クビになってもいいや……。


 体を洗い終えるといよいよ湯船だ。そっと足先を入れるとちょっとぬるめのいい温度。そのまま一気に体を沈めるざばーと木製の湯船の縁からお湯があふれでる。


 あぁぁー、あぁぁー、幸せだ!!!


 じんわりとした暖かさに、体中の疲れが溶かされていく。首まで湯に浸かって目を閉じると全身の力が抜けた。刹那的な快楽というものはなぜこうも魅力的なのだろうか。今しか味わえない思うと人は余計に貪欲になる。

 いいかげん白蓮様もそろそろ己の勘違いに気づくだろう。そもそもは医薬院になど立入れる資格もない私だ。その上、丸二日も下女の仕事を無断欠勤している。全てが穏便に済んだと最も楽観的に考えても、懲戒処分は確実だろう。だから余計に今、この瞬間の幸せが身に沁みる。私の身の上では、今日この時を過ぎればもう二度と、こんな風にのんびりと湯に浸かることなどできないだろう。


 湯を満遍なく味わうように湯の中で両手を伸ばす。ふと、二の腕に残った痕が目にはいった。昨日、土木院に戻る途中の廊下で雪に掴まれたところだった。見つめていると雪の細い指が皮膚に食いこんだ感覚が蘇ってくる。あの細腕からは想像もできないような強い力だった。

 優しい雪のことだ、大変な迷惑をかけられて腹を立てつつも、予定時間を過ぎても戻らない私を心配して、やきもきしながらが探しにきてくれたのだろう。雪には本当に申し訳ないことをしてしまった。謝っても謝りきれない。それなのに自分一人、こんなところでのんびりと湯になど浸かって──。


 私は両手ですくった湯に顔をつける。幾度か繰り返して長い溜息をつくと手を湯の中に戻し、湯船の縁に頭をのせた。天井付近にある格子つきの小さな通気用の窓から星のこぼれそうな夜空が見える。色々な考えが頭の中をぐるぐると巡ってゆくが、考えても考えても正解は分からなかった。

 しかし考えても分からないのは当然といえば当然かもしれない。そもそも私は異世界に転生するなどという奇想天外な目にあっているのだ。その先で起こる出来事に理に適った解決策を求める方が間違っている。私はやけくそのように両手両足を伸ばして、肺の中の空気を全て吐きだした。


 はぁぁー、今だけは全部忘れよう。考えたって詮無いことはぐだぐだと考えない。とにかく今を生き抜くことに力を尽くす。全てはそこからだ。それがこの世界に来て私が体得した処世術でもある。私は頭の中に蔓延はびこるあらゆる考えを締めだそうと目を閉じた。そして砂漠の乾いた砂が水を吸い込むように、ひたすら湯に浸かりまくる。

 これまでの禁湯生活を考えれば、湯に浸かることに満足する時などくるはずがなかった。しかし疲れた体にはそろそろ眠気が限界だという時はくる。湯船の中でこっくりこっくり船を漕ぎ、どぷりと顔がお湯に浸かること数回。ついに諦めて私は湯船から立ちあがった。いや、立ちあがろうとして腰を浮かせた。その時、がらりと湯殿の扉が開いた。


「わわわわわ!」


 どぷんっ! と急いで湯船にしゃがみ込む。もうもうと立ち込める湯けむりの向こうに人影。


「無事だったな」

「はぇ? ……は、白蓮様!?」


 朝に引き続き、二度目の素っ頓狂である。

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