第14話 お仕事はうたた寝から
私は先ほどの感傷を少々引きずったまま、白蓮様の後に続いて執務室に戻った。薄暗くなった部屋に明かりを灯して歩きながら、この後の仕事について指示を受ける。
「午後の回診記録の清書と、
白蓮様は一息に言い切ると大きな溜息をついた。面倒な、と独りごち着替えのため自室に消えていく。しばらくして迎えに来た
先に休む、かぁ……。白蓮様の後ろ姿を見送った私もまた一人ごち、ため息をつきながら私室につながる扉を見た。結局、今日一日、白蓮様に侍従だと勘違いされたまま過ごしてしまった。一体誰と勘違いされていたのかは分からないが、肝心な勘違い元の侍従は一体どこに行ってしまったのか……謎だ。侍従殿が戻ってきた時に何と説明したらいいのか、考えるだけで今から頭が痛い。そのまま状況を説明しただけでは、どう考えても何か致命的で深刻な勘違いが起こることだろう。
私も私で流されるままに、すっかり侍従もどきのつもりになってしまったが、やっぱり私は下女だ。さすがに夜は自室に戻らなくてはならない。ようやく本来の仕事に戻れるのだから安堵していいはずなのだが、なぜか今感じているのは一抹の寂しさだった。サラリーマン時代を彷彿とさせる今日一日の
肉体労働も嫌いじゃない。しかし使うのが体だけだと、やっぱり色々考えてしまって辛い時もある。何よりこの世界で生きていくのなら、身寄りのない私には歳をとっても続けられる仕事が必要だ。せっかく読み書き計算ができるのだし、もっと自分の能力を活かせる仕事を探した方が良いと、今日の出来事通じて私は決心を新たにする。やはり下女のままでは駄目なのだ。思い切って、もっと私に合う自立できる仕事を探さねば。
私は胸の前で小さなガッツポーズを作り気合をいれた。しかし誤解の上で無理やりつれ回されたとはいえ、結果的に丸一日、下女の仕事を無断欠勤してしまったことに違いはない。事情を説明した後、白蓮様に必死にお願いしてみるつもりだが、口添えしてもらえるかどうかは微妙なところだった。
これでは気合を入れずとも、明日から必死に次の仕事を探すことになりそうだ。私は改めて姿勢を正して椅子に座りなおすと、山積みの書類に向きなおった。だとしたら、これがこの王城での最後の仕事になるかもしれない。最後の仕事はきっちりと終わらせていきたい。私は今日一日取り続けたメモを取り出すと、袖をまくって仕事に取りかかった。
それから二刻後。仕事に邁進していた私はついに限界を迎え、机の上に倒れ込んだ。ぐううぅぅおおぉぉぉ、と部屋に響く轟音。
「お、おなか……お腹、空いた……」
よく考えたら一日、ほとんど何も食べていない。私はもう何杯目か分からない白湯を飲んで空腹を誤魔化すと、応接セットの卓上を見回した。白蓮様に頼まれた仕事はほぼ片付いた。後はもう一度、誤字脱字などを確認して執務机の上に提出するだけだ。
「ふう。とっとと寝て、空腹は忘れるぞ!」
密かな達成感を抱きつつ、組んだ両手を頭上に伸ばして大きな伸びをする。伸びをしながら、何とは無しに今後は執務室を見回すと、部屋の端々に積み上げられた書類の山が目に飛びこんできた。朝よりは多少マシになっているとはいえ、ぎりぎり来訪者が通って座れるスペースが残されているだけの、お世辞にも片付いているとも綺麗ともいえない雑然とした室内が……。
私は両手をゆっくり戻しながら溜息をつく。遠くで九の刻の鐘が響いた。再び地響きのように鳴る腹の虫。しかし私はしばしの
ああ、自分の馬鹿さ加減に腹がたつ。自分で自分を罵倒しつつ、頼まれていた仕事を手早くまとめると、私はふらふらと書類の山に向かって歩きだした。あと一刻、いや、あと半刻もあればかなりマシになるはずだ。私はあと少しだけ、もう少しだけだから、これが最後の仕事だからと自分に言い聞かせて執務室の片付けに着手した。どうせここまで乗った船だ。あと一刻くらい遅くなったところで何も変わりはしない。首になるなら首になるだけだ。さあ、片付けに集中して空腹は忘れようっ!
「──い、──お」
ううん、誰よ……私の安眠を妨げるのは。
せっかく、いい夢を見ていたところなのに。
もう少しで、土木院の美味しいお昼ご飯が食べられるところなのに……。
あと少し寝か……せて……。
「──い、おい澪、起きなさい。床で寝るな」
「──ぅう……ふにゃ……」
頭上から
ああ……、この高くも低くもなくて、耳に心地よい声……。
白蓮様、もう奥宮の酒宴から戻ってきたんだ。
私は起き上がろうとするが、体に力が入らない。
「ひゃくへん……さま……」
気力を絞り、ようやっと出たのは間の抜けた声。
早朝から白蓮様に振り回されて疲れ切った体は、一度手に入れた睡眠を頑として手放そうとしない。
体が泥のように重く、瞼もくっついて離れない。
瞼が開かないから、白蓮様がどこにいるかも分からない。
「おか……、おかえり、なしゃ……」
仕方なく、行き倒れたような体勢のままむにゃむにゃと声を絞り出す。
「澪、床で寝るのはやめなさい。奥に部屋があるだろう」
ああ私、いつの間にか眠ってたのね。
床かぁ、確かに背中が痛いような……。
でも、もう無理だ。もう限界。体が全く言うことを聞かないよ。
私は諦めて体の力を抜いた。もうこのまま寝よう。
季節柄十分に暖かいし、なんならこの敷物、下女寮の寝台の布団よりもずっといい手触りだし。
私このまま寝て全然問題ありませんから。
おやすみなさいませ、白蓮様……。
行き倒れたような私の側に立ち、しばらく様子を伺っていた白蓮様は、私が再び寝息をたてはじめると大きな溜息をついた。
溜息と一緒に、吐息に温められた酒精の香りがふわりと漂う。
そしてふわふわと波間を漂うような夢心地の中、ぐいと腕が回されて体が宙に浮く。そのままゆらゆらと、どこかに運ばれていくようだ。
ああぁ私、いよいよ白蓮様に愛想を尽かされたのね。
それとも、ようやく自分の勘違いに気づいたのかな。
まあそんなこと、どっちでもいいか。放りだされるんだから。
私は夢の中で早々に観念した。それでも暖かい腕に抱きかかえられるというのは、はたまらなく眠気を誘う。ゆらゆら揺らされたりしたらなおさらだ。
私は完全に諦めて脱力し、白蓮様の胸に体を預けた。
抵抗したところどうしようもない。
ああ、白蓮様って意外と体を鍛えているのね。それになんだかとってもいい香りがする。うふふ、これは結構お酒を飲みましたね。
「まったく」
と、白蓮様のお小言。
ごめんなさい、白蓮様。
執務室の床で寝るなんて、とんでもない無礼だって私もわかってはいるんですけれど……。
もう体が言うことを聞かないんです……。
「最初に見つけたのが私だからよかったものの、君には危機感というものがないのか」
──ってあれぇ、そう言う方向の、お説教……?
「仕事振りは悪くないが、生活面では色々と指導が必要なようだな」
仕事振りは悪くないって、これちょっと分かりづらいけど、もしかして褒められている……?
そうこうしているうちに、がたり、ばたん、と二度扉の開く音がして、私はごろりとどこかに転がされた。
覚悟して目を瞑るが、頬にあたったのは予想外に柔らかい感触だ。
ああ、なんていい肌触り。
私はそのまま頬ずりする。
ふんわり滑らかで、乾いていて、暖かい。
おまけにいい匂いまでする。
あれ、これってもしかして寝台……?
さらに、ふわりと暖かな感触が覆いかぶさる。
これ、掛け布団……だよね……?
ああ、だめだ……。掛け布団なんて反則だ。
そんなことされたら、もう意識が……、眠くて、た、まら……ない……。
「明日も二の刻半から会議だ」
「……は、ひ」
それだけ言い置くと、白蓮様は出口に向かって身を翻した。
ま、まって、ちゃんと伝えなきゃ。
私は必死の思いで白蓮様の片袖を捕まえる。
袖を引っ張られて、仕方なく立ち止まる白蓮様。
「ひゃ……くれんしゃま……」
「なんだ?」
「おや……おやすみなしゃぃ……ませ……」
しばしの無言の後の白蓮様の呟き。
「……おやすみ、良い夢を」
ばたり、かたん、と扉の閉まる音。
ああ、私こんなに柔らかなベッドで眠ったの、本当に久しぶりだなぁ。
私は枕に頬ずりする。
幸せだ、毎日ここで眠れたらどんなに素敵だろう。
そうして、半分以上夢の中で今日一日のことを思う。
もしも、明日もまた白蓮様の元で働けたら、なんて楽しい一日だろう。
おやすみなさい、白蓮様──。
柔らかな布団に包まれた私の意識は、すぐに遥か彼方に遠くなった。
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