第8話 誘惑

探偵事務所でまどかと談笑していた才賀は、窓の外を見て、日が沈みつつあることに気づいた。夕日が室内をオレンジ色に照らしている。


「まどかさんとのお話は時間を忘れるほど楽しいです。ですが、そろそろ帰らなくては、おうちの方が心配されるのではありませんか」


才賀が談笑の時間の終わりを匂わせると、まどかは膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。


「心配はしていないと思います。うちの親は私に興味が無いんです。帰りも遅いし。だから、もう少しだけここに居ちゃダメですか?」


まどかが親との折り合いが悪いのか、それとも才賀と一緒にいたいだけなのか、才賀には分からない。しかし、まどかが才賀の手に自分の手を重ねて見つめてきたことで、才賀は大慌してしまった。


女性経験がない才賀に、これは滅多にない誘惑だった。しかも才賀はろくな学生時代を送ってこなかったため、苦い青春の思い出を書き換えるチャンスにも思えた。なにより美しい彼女に、才賀は今にも彼女を抱きしめそうになったが、すんでのところで理性が勝った。


「まどかさん、ご自分を大事にしてください。もし門限が過ぎていて帰りづらいと言うのであれば、私が貴方をご自宅へ送り届けて、親御さんに一緒に謝りますから」


そう才賀が伝えると、まどかは悲しそうな顔をしたが引き下がった。


気まずい空気を引き裂くように、聞き慣れた音楽が鳴り、才賀はそれがスマホの着信音だと気づく。画面には知らない番号。


「はいもしもし」

「お世話になっております。町屋隆斗です。こちら才賀さんの電話番号で間違いありませんか?」


機嫌の悪そうな声とは裏腹に、ハキハキと丁寧な挨拶から始まる電話。相手はまどかやちよりの元担任、町屋だった。


「はい、才賀の電話で合っていますよ。全然暇していました。どうしましたか?」


才賀は小声で、まどかに「町屋先生」と電話の相手を教えた。まどかは一番疑っている相手からの電話に表情を一変させ、身を乗り出して聞き耳を立てた。


「アンタが来たあとで、気になって昔のプリントを引っ張り出したんだ。俺は犯人が分かったかもしれない」


町屋のアリバイが崩れて、才賀は町屋を再び疑っていた。それなのに当の本人は犯人がわかったというのだから、才賀は混乱した。


「え、どなたですか? 警察には言いましたか?」

「いや、まだ確証がない。電話口で話すのもなんだから、会って説明させてくれ」


(直接言わないなんて怪しい)


「今からでいいですか?」

「ああ、今から探偵事務所に行く。ひとりで待っていてくれ」


通話を切ると、まどかは心配そうにしている。


「まさか町屋のやつ、才賀さんが真相に気づく前に始末しようとしているんじゃないんですか」

「いやいや、まさか」


しかし、わざわざひとりでと念を押したところには才賀も引っかかっていた。


「ともかく、まどかさんには申し訳ありませんが、帰ってもらいます。町屋先生は私ひとりをご所望ですから」

「でも」


まどかは既に才賀とどうこうなりたいと言うより、普通に才賀を心配しているように思えた。


「大丈夫、探偵は腕っ節も強いものです」


才賀は力こぶを作るふりをした。しかし才賀には全く力こぶはないし、今の話も才賀のもつ探偵のイメージを話した迄である。才賀は一切喧嘩したことも無いし、運動神経も悪い。


ようは、まどかを心配させないために言ったことだが、まどかは渋りつつも最後は帰っていった。


しかし、町屋はいつまで経っても探偵事務所に来ることはなかった。

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